<< October 2020 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

カテゴリー
最新の記事
最新のコメント
  • 小学校の修学旅行の案内
    iso800 (10/01)
  • 鮟鱇の交尾
    iso800 (09/27)
  • 小学校の修学旅行の案内
    iso800 (09/19)
  • まだまだわからん石見銀山 第63話 休谷の間歩−新切間歩
    沢村俊介 (09/15)
  • まだまだわからん石見銀山 第63話 休谷の間歩−新切間歩
    Ng (09/14)
  • まだまだわからん石見銀山 第63話 休谷の間歩−新切間歩
    沢村俊介 (09/14)
  • まだまだわからん石見銀山 第58話 熱水鉱床
    Ng (09/12)
  • まだまだわからん石見銀山 第57話 石見銀山の地質
    Ng (09/12)
  • まだまだわからん石見銀山 第58話 熱水鉱床
    沢村俊介 (09/12)
  • まだまだわからん石見銀山 第57話 石見銀山の地質
    沢村俊介 (09/12)
最新のトラックバック
月別の記事
リンク
サイト内検索
その他
美味しんぼ 109 (ビッグ コミックス)
美味しんぼ 109 (ビッグ コミックス) (JUGEMレビュー »)
雁屋 哲
著名なグルメ漫画に『日本全県味巡り 島根編』が登場しました。石見の食の幸も色々紹介されています

国銅〈上〉 (新潮文庫)
国銅〈上〉 (新潮文庫) (JUGEMレビュー »)
帚木 蓬生
天平の世、大仏造営の命を受けて奈良へと旅立つ青年の苦難の人生を軸に、当時の人々の生き様が素朴で力強く描かれた良書
SPONSORED LINKS
MOBILE
qrcode
野外コンサート

この4連休の「中日」にあたる20日、21日はゴールデンウィーク並みの来訪者があり、久しぶりに賑わいました。

コロナは終息したわけではありませんので、十分警戒し緊張感を持ちながらガイドをしています。

 

 

「石見の火山が伝える悠久の歴史〜”縄文の森””銀

(しろがね)の山"と出逢える旅へ〜」が、日本遺産に認定されたことを祝うイベントが計画されていますが、その一つとして10月4日(日)野外コンサートが開かれます。

「オペラ石見銀山オールキャストコンサート」です。

会場は、昼の部(14時開演)が、三瓶青少年交流の家の第一営火場(キャンプファイヤー場)(雨の時は市民会館に変更)、夜の部は市民会館(19時開演)です。

コロナ対策を十分に配慮したコンサートです。

主催はオペラ「石見銀山実行委員会で大田市が共催です。

オペラ「石見銀山」出演者全員と新しい出演者を加えてのコンサートです。

現在チケット販売中です。

日本遺産認定を祝うコンサートにたくさんの方にご参加いただきたいです。(A)

| ガイドつれづれ日誌 | 08:33 | comments(0) | - |
まだまだわからん石見銀山 第65話 御崎谷と大谷の間歩−福神山間歩、岩屋堂間歩、下惣太夫山

 1、福神山間歩(間歩番号459番〜462番) 

 龍源寺間歩に向かう御崎谷の市道脇に坑口が4箇所開口しています。いずれも山吹城(要害山)方面に坑口が設けられています。しかし、市道整備のときに大田市教育委員会が実施した調査で間歩番号459番と461番とは坑口から直ぐに旋回し南進していることがわかりました。そしてこの二つの間歩は市道下辺りで合流しているそうです。南進するのなら銀山川の右岸から掘ってもよいはずです。なぜこのような掘り方をしたのかよくわかりません。また460番間歩は要害山方向に北進していることもわかりました。

 

 福神山間歩(=福神山)は江戸時代の間歩ですが、採掘時期、山主、稼働成績などについては、資料を確認できませんでした。坑道図を見ると、この間歩も奥で新切間歩に連結されていて新切間歩に坑内水を落としたことが窺えます。

                   福神山間歩

 

 2、岩屋堂間歩 

 藤田組が保有していた地図では、岩屋堂間歩は旧高橋家の西に開口している間歩番号465となっていますが、本当にそれが岩屋堂間歩なのかははっきりしません。というのは、岩屋堂とは高橋家の前を栃畑谷方面に向う道に沿った地域をいうからです。そこにもいくつかの間歩が開削されています。丁度小割家の墓地の背面から栃畑谷に至る斜面に間歩群があります。

 

 一方、『銀山古事覚書』(山中家文書)に元和9年(1623)のこととして、「先年柑子谷主税横合水道切抜高御運上請候間歩七口之事」に「銀千枚 大谷岩屋堂山」とあります。この記録は柑子谷から水抜き用に主税横相坑道を開削した結果、岩屋堂間歩からこのような銀鉱石が売却できたとするものです。ここには「大谷」とありますから、そうなると間歩番号465でも説明が付きます。この465番は要害山方向に開削されていて、坑口はかなりの大きさを持っています。

間歩番号:465番。岩屋堂間歩か?現在付近で発掘調査がされている。

 

 3、下惣太夫山

 田中圭一氏によると、佐渡『川上家文書』の慶長11年(1606)の記事で、石銀に惣太夫横相があるといいます。「石かね惣太夫横相・又勘右衛門横相よく鏈大分上り申し候由、扨々(さてさて)めでたく奉り存じ候事」とあるとか。大谷下惣太夫平(御崎谷の仙ノ山斜面中腹、甚光院の下付近)から石銀に向けて掘ったらしく、山主は岩下惣太夫という人だといいます。筆者はその坑口を確認できていません(Ng)

| ガイドつれづれ日誌 | 00:27 | comments(0) | - |
船表番所

 我が家の前の道路は車社会の今では少々狭い道路ですが、これでも明治22年に出来たときは直線的で目を見張る大道路でした。当時は山陰道として県の主要道路でした。その南側にやや狭い道路がありこれが江戸期の山陰道で、慶応二年の長州討伐には松江藩の兵士が移動した旧道です。

民家の脇にひっそりと「石見銀山鳥井番所跡」の石碑があります。これは寛政3年(1791)ここに船表番所が設置された跡です。江戸期の絵図(嘉永5年(1852))を見るとかなりの規模の施設のようです。ではなぜこの時期に何の目的で出来たのでしょう。

右が江戸期の山陰道、左が明治22年の新山陰道

 当時の日本の状況は?11代家斉の時代です。家斉と言えば在位50年と最も長く(因みに子供の数も最も多く50名を超えた由)政治は経済中心の田沼意次が失脚変わって出たのが松平定信の寛政の改革が始まり質素倹約、当時の流行り狂歌に「白河の(定信のこと)清きに魚もすみかねてもとの濁りの田沼こいしき」「世の中に蚊ほど(定信のこと)煩きものはなし、文武、文武と夜も眠れず」等と風刺されるほどでした。定信の理想主義は家斉とも合わなくなり彼は失脚します。家斉の贅沢三昧は反面江戸文化の活発化に拍車、となり文化文政の爛熟期を迎えます。

文化文政江戸庶民文化イメージ

 そんな中、日本を取り巻く情勢は変化していました。日本が鎖国をしている中、ヨーロッパでは「産業革命が起こっています、(産業革命って分かりやすく言えば日本の高度成長期を思い浮かべればよいと思います)。これにより、世界はヨーロッパ人による植民地化します。そして極東に位置する日本も欧米から見ると最後のターゲットとなり、ロシア船が北海道・厚岸(あっけし)に来たのを皮切りに異国船が日本近海に出没し始めました。海の管轄は代官所です。その一環で鳥井船表番所が寛政年間に設置されたとみることが出来ると思います。江戸後期の代官所にどこそこに大砲があったとか、有事の際の食糧藩の旗などがありますが、長州に備えたのかなと勘違いされる方も無きにも有らずですが、これ等も想定は異国船に対する物です。

異国船イメージ

 江戸後期日本では教育が盛んにおこなわれています、庶民は「寺子屋」、武士は「藩の塾」。彼の有名な「松下村塾」でも兵法学や異国の脅威が論じられ、そんな中、井伊大老の開国に端を発した攘夷(異国を打つ)論が生まれ、明治維新へと流れるのですが、奇怪なことに攘夷から始まりいつしか倒幕になった新政府は攘夷などどこ吹く風、開国し、すべて西洋に右へ習えしながら富国強兵を押し進め徐々にアジアから西洋をも追い払いました(国力をつけて攘夷を行ったとみるべきでしょうか)。世界の中で無視できなくなった日本もやがて欧米より警戒され太平洋戦争にまで実は一本道だったのです。何げない路傍の石柱より此処まで思いをはせるのは、やり過ぎかな?(銀爺)

鳥井船表番所跡石碑

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:03 | comments(0) | - |
小学校の修学旅行の案内

先日も紹介しましたが、9月〜12月にたくさんの小学校の修学旅行のガイドの依頼を受けています。

これまでも、大田市の銀山学習で小学生を案内しているのですが、市外の小学生を案内するにあたってどのようにしたらいいか、先日の定例会で話し合いました。

世界遺産の名称を「石見銀山遺跡とその文化的景観」と「フルネーム」で紹介することや、世界遺産登録の理由をわかりやすく案内することなどに加えて、石見銀山では修学旅行で来た小学生の年齢ではもう働いていたなど、子どもたちに身近に感じてもらえる案内するなど、具体的に話し合いました。

 

 

また、短命だったといわれる坑大たちの仕事の大変さとともに、坑夫たちの命を守るためにマスクが考えられたこと、文化的に豊かな生活も楽しんだことなども伝えていくことや、小学生の学校のある地域と石見銀山の関係なども関連付けて案内したらいいなどなど、様々な意見を交流しました。

これからも、いろんな意見を交流しながら、子どもたちの心にも記憶にも残る案内をしたいと思います。(A)

| ガイドつれづれ日誌 | 07:59 | comments(2) | - |
まだまだわからん石見銀山 第64話 休谷の間歩−蔵本坑

 蔵本坑(間歩番号420)。

 休谷から御崎谷、大谷に至る間の銀山川に面して坑口があります。坑口は人が立って入れるほどの十分な高さを持っています。坑道は西南方向に延びて仙ノ山西斜面地下を開削し佐藤鉉の永久東延坑道まで延びています。その間の主坑道の長さは822叩文寮于賈太郎氏実測値)。この坑道は下部で新切間歩に通じ、上部で新横相間歩の坑道とも連結されているようです。

            蔵本坑

 

 いつの頃開削されていつまで供用されていたのかは確認できませんでした(享保14年頃の史料には、蔵本山 山主原貞右衛門・松原栄兵衛 銀掘4人、手子2人、柄山負2人とありますから、江戸時代中期には稼行していました)。少なくとも石見銀山が休山となる大正12年までは運用していました。坑道の大きさなどから見ても、有力な鉱山だったと思われます。場合によっては、休谷や大森の町並み方面から通勤していた坑夫たちはこの坑道から入坑し自分の持ち場に通っていたのかもしれません。

 

 石見銀山は第二次大戦中に採掘を一時再開しますが、昭和18年の豪雨により坑内が水没して事実上閉山となります。そのとき急激な豪雨による坑内への入水で坑内に取り残された坑夫たちが永久坑方面に出坑できないので、片手のカンテラを頼りに竪坑を這い上がり命からがら蔵本坑から脱出したという話が残っています。

 

 戦後しばらくこの坑道は大森町の簡易水道の水源として使われました。現在坑口は鉄柵で閉鎖されていて中に進入することはできません。内部には水没個所や閉塞箇所があるようです。

 

 ここで故石賀末太郎氏を紹介しておきます。石賀氏は大正7年生まれで、銀山休谷にお住まいでした。戦時中兵役から帰られて昭和18年から石見銀山で測量技師として働かれ、坑道の実測調査をされました。昭和18年の水害の際には坑内で勤務されていて閉じ込められた一人でした。その後昭和20年まで残務整理に携わっていたということです。稼働していた石見銀山を知る生き証人でした。

 氏のお話では、蔵本坑から入坑されて各所の調査をされたそうです。石賀さんは平成25年に亡くなられました。石賀さんの死去によって現在の生存者で永久鉱床の坑内に入った人はいなくなったのではないかと言われています。(Ng)

故石賀末太郎氏。なかなかのイケメンである。

| ガイドつれづれ日誌 | 00:32 | comments(0) | - |
不要不急老人の戯言(13)

―持続不可能な観光政策―

 大田市中央図書館の寄贈雑誌の書架に、日本交通公社が出版している「観光文化」という雑誌があります。その8月号の特集が「現場で語る持続可能な観光の本質〜コロナ禍での現状と課題〜」です。この特集の中には、屋久島、小笠原、知床などで活躍しているガイドがオンラインで座談会を行い、私たちが直面しているような悩みや地域との共存の大切さを切実に語っておられます。

これは、上述の「 」をキーワードで検索すればパソコンやスマホでも出てきますので、興味のある方は是非ご覧ください。

コロナ禍以前にも、過度なインバウンド政策により我が国の観光にかなり歪みが生じていました。さらにこのコロナ騒ぎを、力づくで元に戻そうというのが、go to トラベルです。今度はgo to イートだとか。持続可能な観光とはおよそ程遠い観光政策だと思うのですが(O)

 

| ガイドつれづれ日誌 | 01:03 | comments(0) | - |
三つ星の町並み

 観光地やレストランを星の数で格付けする、お馴染みの「ミシェランガイド」があります。

 石見銀山の大森の町並みが、2015年にフランスの旅行ガイドブック「ブルーガイド」の改訂版で、施設・地点別の格付けにより、三つ星を獲得したことは、記憶に新しいところです。大森の町並みが、三段階のトップ「わざわざ旅行する価値がある」とする三つ星の評価を得ていることは有難いことです。

 

 レストランに関しては、料理やサービスの評価に対する信頼性から、毎年、発売時期になると世界中で話題となる一冊ともなっています。

 

          大森の町並み

 

 しかし、ミシェランといえば、世界で有名なフランスのタイヤメーカーの名です。レストランや料理、旅行地と、どういう関係があるのでしょう。

 調べてみると、むかしは、ヨーロッパ、フランスの各国内では車の事故が多く、安心してドライブを楽しむためには、修理場の把握が不可欠でした。タイヤの需要を見込みたいミシェランは、ドライバーのために車の修理場を掲載した地図を作成し、無料配布しました。その時、お勧めの観光地にまで、星の評価を付けて拡大していったのです。

 

         大森の町並み

 

 地元の皆さんが、石見銀山を大切に思い、年月をかけて守り作り上げて来られた町並みです。是非、ミシェランの三つ星を獲得した落ち着いた気品のある大森の町並みを歩いて頂きたいと思います。     文 責(T)

| ガイドつれづれ日誌 | 00:00 | comments(0) | - |
保存修理工事の公開

13日(日)、保存修理工事が行われている「石見銀山御料郷宿田儀屋青山家」と「西性寺 経堂」が公開されましたので見学しました。

青山家では、家相図が面白かったです。

 

写真の家相図の下側が現在の道路です。縁起のいい方角となっています。

そのほか、郷宿には湯殿が三つあったとか、宿泊者の書いた落書きが残っていたとか、修理工事中の公開ならではのことわかって面白かったです。

 

 

西性寺 経堂では、下からしか見たことがなかった鏝絵の鳳凰をまじかに見ることができて迫力を感じました。

 

鳳凰の裏側の菊と

残り2面の牡丹も鏝絵のすごさを感じました。

 

8月の佐毘売山神社の公開も面白かったですが、今回も、堪能しました。

保存修理中の現場を公開してもらうと、ガイドの「ネタ」も増えるので、本当にありがたいことだと思います。(A)

 

| ガイドつれづれ日誌 | 07:52 | comments(0) | - |
まだまだわからん石見銀山 第63話 休谷の間歩−新切間歩

 約1,000箇所もあった間歩。名前が知られている主な間歩をこれから順に紹介してみます(龍源寺間歩は既に書いたので、それ以外の間歩を筆者の好みで選びました)。江戸時代、石見銀山にあった間歩は代官所に登録されていて(「間歩改帳」が作成された)、識別するためにおそらくすべて名前が付けられていたと思います。その名前も山主が命名し、ときには鉱山(やま)が栄えることを願って縁起のよい名前や盛山への想いを込めた名前にしたと思います。まずは、休谷の新切間歩(間歩番号:600)から紹介します。

 

 休谷にあって、標高約170鍛賄世龍篁垣遒里垢伊気帽8が開いていて南進しています。この間歩が休谷〜大谷では最も標高の低い地点に掘られたものといいます。

                  新切間歩

 

 江戸中期(正徳5年=1715)代官鈴木八右衛門重政のときに代官所が水抜き目的で掘りました。その目的は、休谷から新しい間歩を開削し、落盤や水没に陥っている間歩を復活させ採鉱を可能にすることにありました。つまり他の間歩の30〜45嘆爾鮑侶,垢襪海箸農腑了柿澗里凌緘瓦の役割を担わせたのです。ここから大本鉉(おおもとつる)まで450尋(約675叩砲魍発しあわせて新しい鉱脈に切り当たることも狙いました。大本鉉がどの位置にあるのか筆者にはわかりませんが、450尋掘り進んだとなると仙ノ山地底の奥深くまで掘ったものと思われます。

 

 果せるかな、この新たに開発された間歩は諸間歩の排水を可能にしたばかりでなく、思惑どおり幾重もの鉱脈に切り当たり、銀山全体で産銀量の増加をもたらしました。現在この間歩の上方に蔵本坑、福神山間歩などの間歩を目にすることができます。それらの坑内からも新切間歩に地下水道でつなぎ水を抜きました。

 

 この間歩は二重穴構造となっていて現在見えている坑口は「水道」と表示されていますから、実際にはもう一本本坑に相当する坑口(大切四ツ留)が付近にあるのですが、発見に至っていません。現在は坑口付近で水の排出が確認できないので、この間歩は水抜き目的としてはもはや機能していないと言えます。(Ng)

                 新切間歩の内部

| ガイドつれづれ日誌 | 00:23 | comments(3) | - |
井戸公頌徳碑から見えたこと

石見銀山の代官様と言えばこの地域で最もよく知られた名代官「井戸平左衛門正明公」です。石見代官としては僅か2年足らずの石見代官在籍ですが、その功績は民衆に大きく評価されています。井戸公の頌徳碑は大田市だけでも100基中国地方では800基位はあるとか聞きます。しかも、明治維新の「廃仏毀釈」運動で、石碑に戒名が彫られていたため数百基が破壊されたとも云いますから、ただ一人の代官の頌徳碑としては異例中の異例かもしれません。また知名度も高く、大田市の小学生に聞いても大森代官と言えば「井戸平左衛門」とたちどころに答えてくれます。通称「芋殿さん」と親しまれこの地域で最も著名な歴史上の人物です。

井戸平左衛門・木像

その頌徳碑が勿論我が町内にもあります。そこで今回は、私の町「鳥井町」の頌徳碑を検証しそこから見えてくる事を紹介します。それによるとこの頌徳碑が建設されたのは井戸公が亡くなって百年余り後のことです、百年前の人物の頌徳碑が何故この時建設されたのか興味涌きますよね。

石碑に刻まれている文字は

  「本邨鳥井挙里黔首等拝首秫旨顙謹建」

         要するに、この村、鳥井の里あげて民衆たち謹んで建設しました。と云う事でしょうか。

 

       この中に「秫旨顙」がよく分かりませんが、秫(もちあわ)は米以外の穀物ですのでこれが「薩摩芋」を表しているのかもしれません。(どなたかご存じの方教えてください)

鳥井町の井戸公頌徳碑

 問題は、建設の時期です。実は天保4年(1833)〜天保10年(1839)は江戸期の4大飢饉「天保の大飢饉です。天保10年大飢饉が終息しこれから良くなるよという節目がこの日でした。「苦しい、苦しい大飢饉を乗り越えられたのは薩摩芋の御蔭でした、ありがとうございます。」と云う事になります。

 因みにこの天保の飢饉中「大塩平八郎の乱」、また江戸近辺には農村を離れた無宿人が増え治安が悪くなっています。石見銀山では、疫病もはやり大勢の人が亡くなり人手不足から一時佐渡に習って無宿者を使用しましたが上手く行かず、銀山の働き手は銀山でと云う事で「養育米制度」(2歳から10歳まで一日1.5合の米の支給)が出来るきっかけになっています。

 また、井戸平左衛門公が関わった、享保の飢饉には我が鳥井村には年貢の免除を受けています(田圃のみ)。今も各地で命日には「芋殿法要」がおこなわれています。(銀爺)

享保17年(1732)の鳥井村に対する年貢割り付け

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:21 | comments(0) | - |
<< | 2/384PAGES | >>