朝鮮通信使
2015.01.31 Saturday
江戸時代は鎖国。中国とオランダと長崎の出島で交易をし、それ以外の国とは交流がなかったと、筆者は、学校で習いました。
現在の中学生は、それ以外にも交流があったと習っています。
その一つとして、江戸幕府の将軍が替わるたびに来日したという朝鮮通信使が取り上げられます。
朝鮮通信使は、対馬から瀬戸内海を通って大阪からは陸路江戸に向かったとされ、鞆の浦はその寄港地の一つでした。
鞆の浦福禅寺の対潮楼からみたこの景色を、彼らは、「日東第一形勝」(朝鮮より東の世界で一番風光明美な場所)と称賛したと言われます。
石見銀山の灰吹き銀を運ぶ船と朝鮮通信使の一行が鞆の浦で出会った可能性もあるのではないかなどと想像が膨らんでいきます。
通信使の「通信」とは、「信」(まこと)を「通」(通わす)ということなのだそうです。
朝鮮通信使の残した記録が日韓両国に残されており、それを、世界記憶遺産に登録しようという取り組みが、日韓両国の民間の団体が中心になって進められているということです。(A)
現在の中学生は、それ以外にも交流があったと習っています。
その一つとして、江戸幕府の将軍が替わるたびに来日したという朝鮮通信使が取り上げられます。
朝鮮通信使は、対馬から瀬戸内海を通って大阪からは陸路江戸に向かったとされ、鞆の浦はその寄港地の一つでした。
鞆の浦福禅寺の対潮楼からみたこの景色を、彼らは、「日東第一形勝」(朝鮮より東の世界で一番風光明美な場所)と称賛したと言われます。
石見銀山の灰吹き銀を運ぶ船と朝鮮通信使の一行が鞆の浦で出会った可能性もあるのではないかなどと想像が膨らんでいきます。
通信使の「通信」とは、「信」(まこと)を「通」(通わす)ということなのだそうです。
朝鮮通信使の残した記録が日韓両国に残されており、それを、世界記憶遺産に登録しようという取り組みが、日韓両国の民間の団体が中心になって進められているということです。(A)