生野銀山見学の翌日、2月5日柵原鉱山見学に行きました。
戦国時代から江戸時代初期にかけて、森忠政が津山城を築城中、石材も集めていた時、褐鉄鉱をが地表に現れているのを発見した、それが柵原鉱山の始まりと言われています。
その後、
1882年(明治15)地元の福田利平氏が硫化鉄鉱の露頭を発見。
1916年(大正5)藤田組が鉱区を買い取って、柵原鉱山と命名しました。そして、
1929年(大正9)から本各的な生産が始まりました。
1923年(大正12)には、鉱石を運ぶ為の、索道(ロープウエイ)が完成。
1931年(昭和6)には柵原〜片上間(およそ34km)鉄道が開通しました。
1953年(昭和28)頃〜1962年(昭和36)頃まで、柵原鉱山は最盛期でした。
鉱山の社宅約1000戸、従業員2569人(昭和35年)を記録しています。
1916年(大正5)〜1991年(平成3)までの75年間に約2670トンの鉱石を掘り出し、閉坑となりました。
鉱山入口です。ヘルメット着用。
中は迷路のようで、案内してくださる方がおられないと、どこへ迷い込むかわかりません。
固い岩盤の下を進みました。
鑿岩機の跡です。
夏冬温度変化の少ない坑内では、食品の貯蔵も。
これはブルーベリーが保存されているたるです。
なんとお酒も。
苗木の育成も。
きのこ栽培も。
今日はきのこ狩りの日。プラスチックの皿とハサミを借りて、皿に入るだけのきのこを取ってもよいのです。皿1枚に付き200円。
この通り。活きのよいきのこを採取しました。話と共にお土産です。
なんと坑道の中に、こんな所が。
このような看板がありました。
中に入ってみますと、
トレーニングマシーンがずらりと。
早速挑戦。
よーいドン! 走路約42m。
ここでは、低酸素条件下の高所トレーニングを行い、効果をあげているそうです。
有森裕子さんのサインがありました。
外に出て、街を眺めました。あそこには劇場、こちらには住宅と説明を聞きながら、繁栄当時を思い描きました。
柵原鉱山資料館も見学しました。
館内に展示してある鉱石。
柵原鉱山では、良質の硫化鉄鉱がたくさん産出し、硫酸がたくさんつくられました。それは、肥料用や工業用に使われました。
しかし、1965年(昭和40)頃から、重化学工業が発達し、石油を大量輸入するようになり、石油の中から硫黄を取り出し、硫酸を安く製造するようになりました。
柵原鉱山では困りました。
そこで、鉄資源を見直し、鉄粉の生産も行われるようになったそうです。
硫黄はたくさんあるけど売れません。結局閉山となりました。
昔の坑道模型図です。
鉱山資料館前の「柵原ふれあい公園」にある高瀬舟
片上鉄道が開通するまでは、鉱石は高瀬船で運ばれていました。
もつい(手にはくわらじ)
説明板によりますと、
柵原から吉井川を下り、岡山の犬島精錬所まで鉱石を運んでいた頃のことです。
帰りは、高瀬船を岡山市の九播港から吉井川を遡って高瀬川を引き上げていたそうです。その時は、人夫は四つん這いになり、人力で船を引き上げていたそうです。
腰と高瀬舟とはロープでつなぎ、足にはわらじ、手には「もつい」をはめて、30人で4日かけて、柵原まで高瀬舟を引き上げていrたそうです。
高瀬舟は、大正6年〜昭和6年まで鉱石を運搬手段として、活躍していたそうです。
全長14.5m、12.5tの鉱石を積載していたそうです。
すぐ近くの吉ケ原駅在住、人気者「駅長猫コトラ」ちゃんは只今お昼寝中でした。
柵原鉱山の残っている施設や片上鉄道吉ケ原駅舎など、岡山県の近代遺産に指定されています。