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銀の道「尾道ルートを歩く」その4
 江戸時代初めの1603年、初代奉行・大久保長安は、灰吹銀を大浦港(大田市五十猛町)から海路を千貫(3.75トン)、陸路を大森〜粕淵〜赤名〜三次〜尾道へ、更に船で大阪〜京都へ千貫送ったと伝えられています。

その後、いつの頃か陸路輸送となり、それは明治まで続きました。

◎大森→4km→〇堂原→4km→〇別府→8km→〇小原→2km→〇浜原→10km→九日市→4km→〇酒谷→4km→〇赤名→6km→〇室→8km→〇布野→12km→三次→
20km→〇吉舎→20km→甲山→12km→〇御調→12km→尾道
〇銀付け替え駅  銀泊まり駅  *数字は駅間の距離

銀輸送には、御銀蔵の灰吹銀10貫目(37.5kg)を木箱に詰め、菰で包み、馬1頭に付き、木箱を2箱づつ背負わせ、葵の紋を染め抜いた小旗を背に立てて出発したと伝えられています。
出立は、旧暦10月下旬から11月初旬で、当時は雪が降っていることもあったそうで、そのような時は、雪踏み隊がまず雪をふみならしながら進んだそうです。
中でも、今も豪雪地帯として有名な、島根県と広島県境の峠越えは大変な苦労だったようです。何故、このような時期に灰吹銀を輸送したのかわかりません。稲の収穫が終わってからということなのでしょうか。
ちなみに貢納銀(年貢)は春になってから運搬しています。

灰吹銀の輸送準備が整いますと、大森を早朝出発します。

大森代官所跡


代官や役人、町民等は羅漢寺あたりまで見送り、そこで、壮行式を行ったと伝えられています。

羅漢寺 右窟

今年の「尾道ルートを歩く」は、
第1ステージ、10月29日〜30日。大森代官所跡から1泊して飯南町赤名の道標まで。
第2ステージ、11月12日〜13日。赤名の道標から1泊して三良坂竹工房まで。
第3ステージ、12月3日〜4日。三良坂竹工房から1泊して宇津戸まで。
それぞれ1日に19km〜20km歩く予定です。
バスが伴走していますので、荷物はのせられるし、体調不良の時など安心です。

来年はこの続きを歩き、尾道まで到達する計画です。
| こんな旅はいかがですか | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
銀山街道「尾道ルートを歩く」その3
これが、かなめ石です。石見銀山ガイドの会の事務所前にあります。

 
へこんでいるのは、鉱石を砕いた跡です。

大森の街並みや龍源寺間歩へ向かう道のところどころにかなめ石が、家の軒先においてあります。へこみ具合やへこんだ穴の大きさがみんな違います。
大きいの小さいの、深いの浅いの、力の入れ具合が想像できるような。
かなめ石の上で、鉱石を砕く仕事、それは女性の仕事だったと言われています。足尾銅山資料館には、砕女と書いて、「かなめ」と読み仮名がふってありました。
じっと見ていますと、その石の前で座って鉱石を砕いている人の姿が目に浮かんできます。そして、石により砕いている人の体格好や顔形が違って見えるのが不思議です。銀の精錬に大切な仕事をしていた女性達です。

かなめ石は、家の前だけなく、歩道の近くや川の中でも見ることができます。


| こんな旅はいかがですか | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
銀山街道「尾道ルートを歩く」その2
灰吹法とは、灰を使って吹く(精錬する)方法です。

まず、間歩(坑道)から掘ってきた鉱石を、かなめ石の上で砕いて小さくします。
そして、荒い目のざるに入れてゆすり、不要な小石を落とします。
次に「ゆり盆」と言われる木製で皿状の器に入れます。そして、たらいに水を入れ、その中でゆすり、土や石と銀を含んだ鉱石とを分けていきます。
こうして、残った鉱石を、くぼみを作った中に入れ、炭と椿の木で温度をあげ、その中に鉛を加えます。すると、鉛と銀の合金「貴鉛」(きえん)ができます。

次に、鉄鍋に灰を敷き、更にわらを敷き、その上に貴鉛を載せ、濡れむしろをかけ、温度を上げると、鉛は溶けて灰の中に吸い込まれていき、銀が残る。このようにして灰吹銀をつくっていたということです。

「かなめ」のことを足尾銅山では「砕女」(かなめ)と記してありました。
ここ、石見でも、かなめ石の上で銀鉱石を粉にしたり、ゆり盆をゆすったり、というような間歩の外での仕事は、女性がしていたようです。

石見銀山では、かなめ石として、大田市忍原の堅い石が使われていたようです。大森の町を歩きますと、家の前にかなめ石がいくつか置いてあります。小さなくぼみのある青っぽい石が「かなめ石」です。

鏈(くさり)=銀を含んだ鉱石・・・5百貫目を一日中かけて吹く(精錬する)には、炭が420貫目(1575kg)も必要だったと言われています。その炭には、白炭(吉舎炭)も使われていました。
椿の木も大量に必要だったのです。

江戸時代になりますと、精錬の時に必要な木をはじめ、坑道入口の四つ留や坑内の落盤防止などに必要な木材調達の為に、「お囲い村三十二ケ村」が決められました。更に江戸中期には、お囲い村の中から、炭を供給する為の「炭方六ケ村」が決められ、そこで炭の負担をすることになりました。それでも足りない時は、他国から買い求めていたということです。

こうしてできた灰吹銀が日本は勿論、外国でも注目されたのです。

この灰吹法は、その後全国へ伝わっていき、日本全体の生産量をあげていきました。

江戸時代になりますと、この灰吹銀は将軍の元へと送られていきました。それが、「尾道ルート」です。その道中は・・・

 
| こんな旅はいかがですか | 21:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
銀山街道「尾道ルートを歩く」その1
10月16日(日)には、沖泊道、鞆ケ浦道の他、石見銀山地内の多くの道を歩くツアーを計画、。たくさんの方々と「道を歩く」を楽しみました。ご参加、ありがとうございました。
いよいよ、10月29日(土)30日(日)は「銀山街道 尾道道を歩く 」の始まりです。

この様なツアーは今迄にも何度か催行していますが、すべて歩くというのは、石見銀山ガイドの会主催では初めての試みです。
街道沿いの各地ガイドの皆様との交流をはじめ、沿線各市町村のご支援をして下さる団体のおかげでこの「銀山街道 尾道道を歩く」が実現され、とても嬉しく楽しみにしています。

当初の予定を変更しまして、10月29日(土)08:40代官所跡にて出発式を行い、いよいよ銀の輸送ルートウオークです。

そもそも、石見銀山大繁栄の元は、1526年、博多の商人「神谷寿亭」が、日本海沖から山がひかるのを見て、その山、即ち仙ノ山に登ったところ、「露頭銀雪を踏むが如し」と伝えられています。(石見銀山旧記より)

そのおよそ200年前頃に、今の山口県を拠点としていた大内氏が露頭銀を採ったとか、足利直冬が露頭銀を採り尽くしたとも言われています。

今からおよそ500年前、博多の商人・神谷寿亭が仙ノ山の銀を見つけた頃、ここ石見銀山では銀の精錬はできず、銀鉱石を馬に乗せ、馬路(大田市仁摩町馬路)の鞆ケ浦港に運ばれて、そこから博多へ、更に朝鮮半島へと送られ、精錬されていたそうです。

それから7年度、神谷寿亭は「桂(慶)寿・宗丹」という方を、ここ石見の国に招き、伝授して貰ったのが「灰吹法」(灰をつかって鉱石の中から銀を取り出す方法)だと言われています。
それは、1533年(天文2)のことだったと石見銀山旧記に書かれています。

灰吹法が伝授されますと、石見銀山の銀生産量は飛躍的にアップし、外国人の目にもとまりました。

さて、灰吹法とは・・・
| こんな旅はいかがですか | 21:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
水上神社のお祭り
大田市には、水上神社が2社あります。
一つは、温泉津町西田ヨズクの里、もう一つは水上町です。
今日は水上町の水上神社のお祭りでした。

御神輿とは別に町内を練り歩く若者樽神輿が二台


神輿を待っていた地元の人のお接待


水上神社

水上町には御嶽神社・福原八幡宮・荻原八幡宮がありました。昭和45年に3神社が合併して水上神社となり、社殿を現在地(大田市立第3中学校近く)に建立しました。

境内にはこのような狛犬が両脇にガシッと。爪がすごい。
 

後ろ姿も、オーッ。


力石もありました。説明書きによりますと、
「石見銀山最盛期の江戸時代初期、この村には鉱山で働くたくさんの人が住んでいました。建立年代は不明ですが、三久須八幡宮を建立し、鉱山の安全と家内幸福を祈って、春と秋には3日間盛大な祭りが行われたそうです。
これは、そのお祭りの時、力比べをした石で、十八貫((67.5kg)と言い伝えられています。」


水上町は現在人口およそ600人。たくさんの若者が祭を盛りあげている姿に嬉しくなりました。
水上町には平安時代から踊ったといわれている「シッカク躍り」が今も子どもたちに受け継がれています。今日の祭礼でも「シッカク躍り」が奉納されました。

シッカク躍りについては大田市観光サイトをご覧ください。
11月6日(日)仁摩町農村環境改善センターでも披露されます。詳細は、島根大田青年会議所HPをご覧ください。
| その他 | 22:21 | comments(3) | trackbacks(0) |
本日、ヨズクの里は大賑わい
今日のヨズクの里は、フォーラム「これからの村づくり」や葛がゆ弁当、石見神楽など、一日中賑わいました。

基調講演は、安全な野菜や米作りを提唱されてこられた、鹿足郡吉賀町出身の福原庄史氏。過疎化の進む村、ヨズクの里の今後のありように貴重な提言をいただきました。

パネルデスカッション。
コーデネーターは石見銀山資料館仲野館長
パネラーは福原庄史氏をはじめ、ヨズクハデ保存会会長。五郎の会代表、温泉津旅館組合代表、地元婦人会代表。
今後、西田地区の文化と伝統をどう守り続けていけばよいか、熱心な話し合いがなされました。

山里に忽然と現われたような瑞泉寺。右手の、上方が黄色くなっている木は、樹齢3百年の大イチョウ。お寺の前にヨズクハデが並んでいますが、他の田にも立てられています。

 
午後6時からは、かがり火と竹灯籠をバックに石見神楽。
幻想の世界に入り込みました。



待ってました。大蛇(オロチ)の登場です。


かがり火の向こうにはヨズクハデ。
カメラマンも多数おいでになりました。

これからヨズクハデの稲束は次々とおろされ、脱穀されます。
国の有形民俗文化財「ヨズクハデ」は来年秋、再びみることができます。

車で、ヨズクハデをご覧においでになる方へ
〇湯里駅前の道を西田方面に向かうこともできますが、道が狭く、離合困難箇所が多数あります。
〇温泉津「ふれあい館」横から、願楽寺(がんぎょうじ)前を通って、西田へ向かうルートをお薦めします。距離はありますが、バスも通れる道です。カーブが多いのでお気をつけ下さい。
| その他 | 21:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
10月22日(土)23日(日)は三瓶へ行こう!!
三瓶祭を楽しみませんか

10月22日(土)
サヒメル入館無料
〇石見神楽   土江子ども神楽団  
〇移動水族館(アクアスより)移動動物園(トム・ソーヤ牧場より)
〇エコステージ しまね暮らし応援バンド・タソガレン(バンド)
           フロッグマン氏のトークショー
〇イベント広場 地産地消の美味しい屋台、
           出雲科学エネルギーラボ〜自然の力で電気を
                       作ろう〜
〇さんべ大鍋無料サービス(200名様)
〇北の原キャンプ場ぐるめラリー

10月23日(日)
サヒメル入館無料
〇石見神楽   多根神楽団
〇移動水族館(アクアスより)移動動物園(トム・ソーヤ牧場より)
〇エコステージ お仕事戦隊イソガシンジャーショー
〇イベント広場 地産地消の美味しい屋台、
           出雲科学エネルギーラボ〜自然の力で電気を
                        作ろう〜
〇さんべ大鍋無料サービス(200名様)
〇北の原キャンプ場ぐるめラリー

詳細は三瓶自然館サヒメルHPをご覧ください。

| 交通・施設・行事 | 20:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヨズクハデのライトアップ、かがり火の中で神楽を楽しみませんか
ヨズクの里 フォーラムのお知らせ

期日  10月22日(土)
第1部
 10:00〜開会
 10:15〜11:00 基調講演{魅力ある村づくりを考える」
             講師 福原庄司氏(NPOゆうきびと代表)
 11:10〜12:30 パネルデスカッション
             テーマ「これからの村づくりとは」
             コーデネーター 仲野義文氏
                                          (石見銀山資料館館長)
 12:30〜13:30 西田を食す会(有料 葛粥定食 1000円)
 13:30〜15:00 銀山街道・棚田ウオーキング
             (有料 ガイドの会案内 300円)

第2部
 17:00〜19:00 交流会「田舎料理と地酒を囲む会」
             (有料 3000円)
 18:00〜19:00 宅野子ども神楽上演
             (見学 無料)

申し込み 699-2502 大田市温泉津町湯里1720−4
               湯里町づくりセンター
       TEL/FAX 0855−65−3038
問い合せ 大田市地域振興部農林水産課
       TEL 0854−82−1600

*ヨズクハデにつきましては、9月8日〜9月23日までのブログ「西田ヨズクハデ物語」をご覧ください。
*葛粥定食は1000円。100食限定で要予約です。
*このフォーラムが終了しましたら、稲はハデからおろして脱穀します。秋しか見られないヨズクハデ風物をお楽しみください。  
| こんな旅はいかがですか | 22:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
10月16日「銀の道を歩く」 ご案内します「山吹城跡コース」
山吹城は、戦国時代に幾度となく争奪戦が 繰り広げられた山城です。
「山吹城を征する者が石見銀山を征する」
とまで言われました。

石見銀山を入手した大内氏は、1533年の頃、ここ要害山(標高414m)に山吹城を築きました。
その頃、石見銀山をねらっていた周辺の武将「小笠原氏」「尼子氏」「毛利氏」はこの山吹城争奪戦を繰り返しました。
戦いは、1531年から1562年、毛利元就が石見銀山を手に入れるまで続きました。

このツアーでは、まず山吹城大手門口から登山します。

牛の首峠のお地蔵様。
ここで一休み。これから道を左手にとり、長い石段を登って城跡頂上へと向かいます。



やがて、山吹城跡頂上へ。
山吹城祉頂上から四方を眺めると、北に日本海、東に三瓶山、南に仙ノ山・大江高山・矢滝城山、西に馬路高山、そして日本海へ銀を運んだ道など眺望でき、まるで城の主になったような気分に。
下山は搦め手門側へ。

それから、坑夫達はもとより、武士も町人も信仰篤かった佐毘賣山神社へ向かいます。
ここで昼食をとった後、聖なる山「仙ノ山」登山。

石見銀山の歴史のはじまり「石銀(いしがね)」を見学の後、世界遺産センターへと降りて行きます。




| こんな旅はいかがですか | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
10月16日「銀の道を歩く」 ご案内します「鞆ケ浦海上コース」
石見銀山旧記より
(現代語風に表しました。一部削除箇所もあります。)
 
筑前の国博多に、神谷寿亭という人がいました。
船で出雲の国へ行こうと、石見の沖を航海中、南の方の山々を見ると、なんと赫然たる光あり。船子に、
「あれは何と言う山か」
と聞きますと、船子が言うには、
「あの山は銀峰山といいまして、昔から銀がとれると言われています。でも、今はもう銀はとれないようです。あそこには、清水寺という寺があり、観音様がおられます。あの光は、あの山が再び銀を出すしるしかもしれません。」
これを聞いた寿亭は大変喜び、帆をまいて温泉津湊へ入りました。
そして、銀峰山に登り、観音様を拝み、再び出雲へ向かいました。

出雲の鷺浦という湊に着きました。近くには、銅山がありました。寿亭は、銅山主、三島清右衛門に石見・銀峰山の不思議な光の話をしました。
清右衛門は、
「200年も前に、周防(山口県)の国主・大内氏がたくさんの銀を得たという伝説がある。自分もその山に登って、銀か否か確かめたいものだ。観音様も拝みたいし」
といいました。そこで、1526年3月20日、寿亭と3人の掘り子を伴った清右衛門は、光ったという山に登りました。
そして、たくさんの銀を採りました。
その後、石見国馬路村の灘、古龍・鞆岩の浦(鞆ケ浦)へはたくさんの船が来るようになりました。

鞆ケ浦海上コースでは、まず鞆ケ浦港に集合します。


鞆ケ浦のはなぐり岩(舟をつなぐ)


鞆ケ浦の港で小舟に乗り、多くの謎を秘めた古龍に向かいます。
途中、このような洞窟にも入って行きます。(波が高い時は入口付近まで)




さあ、古龍に上陸。
かつて、古龍千軒と言われた湊まちです。

古龍の鼻繰り岩



さあ、その昔、貨幣の元となったという「タカラガイ」を探しましょう。

再び、舟にのり、神谷寿亭の気分で波を越えて進むと、はるか南に、
「あらあ、あそこが仙ノ山
しばし、南の山並を眺望。

そして、鞆ケ浦港へ帰り、上陸。
鞆ならでわの街並みと鏝絵のある風景を散策しましょう。

グループにより、街並み散策の後に乗船ということもあります。

     (10月16日「鞆ケ浦海上コース」ガイド 松浦良彦)
      

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