不言城は温泉津町福光、9号線からも見える位置にあります。
登り道の途中にある、岩屋の中のお地蔵様。
やがて、番所跡へ到着しました。
三の丸、二の丸を通り、登り道を歩くこと、20分で本丸跡へ到着しました。
眼下にはるか日本海、そして街道、福光の街並みを見下ろし、石見吉川氏がここに城を移した訳を考えました。
瑞泉寺から大森へ向かう温泉津沖泊道を、降露坂(ごうろざか)へ向かって1kmばかり進むと、左手にかっての西田分校跡の石碑が見えます。(分校跡には民家が建っています)
その分校跡の民家の左手から小道を10分ばかり登って行きますと、かって毛利元就の危機を救ったという「渡辺 通(かよう)」の墓があります。
かつては字が刻んであったかもしれません。
地元の方が大切に墓守をしておられます。
(わかりにくい所なので、地元の方の案内を頼んだ方がよいと思います)
毛利元就の危機を救おうと、身代わりとなって、元就と鎧兜を交換し、「我こそは元就なり」と走り去り、討たれたと伝えられている所は「七騎坂」と呼ばれています。
七騎坂は、渡辺 通の墓から車で15分ばかり、温泉津警察署の近くです。
看板の建っている所は、山陰本線のトンネル上です。
渡辺 通ら七人が討たれた年については二つの説があり、看板も2種建っています。
さて、本当はどちらだったのでしょう。
1543年、元就が尼子の月山富田城(安来市広瀬町)を攻め、敗れて逃げかえろうとする時か、
1559年、石見銀山を取り戻そうと山吹城(大田市大森町、世界遺産エリア内)を攻めたが、余儀なく撤退中、本城経光軍に追撃された時か、
いずれも渡辺 通らは、降露坂付近で兜を換え、幟を押し立てて、身代わりとなって進んだようです。
石見銀山、中でも銀山公園周辺の梅は、今ぞ、とばかり咲いています。
銀山公園の梅木。2011年3月10日。銀山公園にて。
銀山公園から龍源寺間歩へお客様をご案内していますと、よく言われます。
「石見銀山って梅の木が多いわね」と。
そうなのです。
石見銀山と梅の木には深い意味があるのです。
江戸時代も終わり頃のことでした。
鉱山病対策に頭を悩ましていた代官は、岡山から「宮 太柱」という若い医者をよびました。そして、鉱山病対対策に取り組んで貰いました。
宮太柱が考案した対策の一つが梅マスクです。
「鉄の枠に(針金)に絹を張って、絹には柿の渋を塗る。そして、絹の間に梅肉を入れたらよいと。梅肉マスクですね。
梅マスクは効力を発揮したようです。梅マスクを使用すると、一日たっても呼吸ができるが、梅マスクがないと、早く息苦しくなってきたそうです。
宮 太中が考え出したものは、梅マスクだけではありませんでした。
つづく。