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ガイド研修その4〜不言城へ上る〜
「 吉川経家最後の手紙」の経家の城、不言城はフゲンジョウ又はモノイワズジョウと呼ばれています。

不言城は温泉津町福光、9号線からも見える位置にあります。

登り道の途中にある、岩屋の中のお地蔵様。


やがて、番所跡へ到着しました。


三の丸、二の丸を通り、登り道を歩くこと、20分で本丸跡へ到着しました。



眼下にはるか日本海、そして街道、福光の街並みを見下ろし、石見吉川氏がここに城を移した訳を考えました。
| - | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
ガイド研修その3〜渡辺 通の墓と七騎坂

瑞泉寺から大森へ向かう温泉津沖泊道を、降露坂(ごうろざか)へ向かって1kmばかり進むと、左手にかっての西田分校跡の石碑が見えます。(分校跡には民家が建っています)
その分校跡の民家の左手から小道を10分ばかり登って行きますと、かって毛利元就の危機を救ったという「渡辺 通(かよう)」の墓があります。


かつては字が刻んであったかもしれません。
地元の方が大切に墓守をしておられます。
(わかりにくい所なので、地元の方の案内を頼んだ方がよいと思います)


毛利元就の危機を救おうと、身代わりとなって、元就と鎧兜を交換し、「我こそは元就なり」と走り去り、討たれたと伝えられている所は「七騎坂」と呼ばれています。
七騎坂は、渡辺 通の墓から車で15分ばかり、温泉津警察署の近くです。
看板の建っている所は、山陰本線のトンネル上です。

渡辺 通ら七人が討たれた年については二つの説があり、看板も2種建っています。
さて、本当はどちらだったのでしょう。




1543年、元就が尼子の月山富田城(安来市広瀬町)を攻め、敗れて逃げかえろうとする時か、
1559年、石見銀山を取り戻そうと山吹城(大田市大森町、世界遺産エリア内)を攻めたが、余儀なく撤退中、本城経光軍に追撃された時か、
いずれも渡辺 通らは、降露坂付近で兜を換え、幟を押し立てて、身代わりとなって進んだようです。

| ガイドおすすめのスポット | 19:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
ガイド研修その2の続き〜瑞泉寺山門と大イチョウ
温泉津町西田の「三明山瑞泉寺」の山門は、1751(宝暦元)年に落慶法要が行われました。


大きな山門には、言われがあります。

落慶法要の数年前のこと、今でいう大田市仁摩町琴ケ浜で、松江藩の御手船「源徳丸」が沈没しました。その様子を、仁摩町馬路・琴ケ浜で毎年開かれる伝統の盆踊りの歌、題して「源徳丸」口説きでは次のように伝えています。

前略
一夜走りて夜の明け頃に
着いた所は石見の国の
音に聞こえた琴ケ浜沖で
気色(けしき)かわりて はえにし となる
山の落としを裏帆にもろて
舳先のおやじがどんすをかけて
引けどしゃくれどおもかじきかず
綱もイカリも役にはたたず 

中略

やがて浄土の港に入る
さらばさらばと相果てました

この源徳丸の材を使って、山門は建てられたと伝えられています。

境内には樹齢350年と言う大イチョウがあり、毎年たくさんの実をつけています。
| ガイドおすすめのスポット | 22:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
ガイド研修その2〜温泉津「瑞泉寺」〜
大森から龍源寺間歩の前を通り、さらに登って行くと、坂根口番所跡へ着きます。そこから、道を登っていきますと、頂上の降露坂(ごうろざか)に到着。今度は下りです。やがて、五老橋に 到着。更に下っていきますと温泉津町西田の集落に至ります。
この道が、温泉津沖泊道(世界遺産)で、かって毛利元就が整備した道と言われています。

その西田に三明山瑞泉寺という浄土真宗の寺院があります。
庭には樹齢350年と言われている大きなイチョウの木がそびえています。

午前中「西念寺」を見学したガイドの一行は、午後、西田「瑞泉寺」見学をさせて貰いました。

瑞泉寺の開基は、およそ1300年頃と伝えられています。
元は、真言宗の寺院でしたが、天文9(1540)年に浄土真宗に改宗されました。その当時は「瑞泉坊」と称していたということです。慶長9(1604)年に坊号から寺号となったようです。

歴代住職の中に、第12代に自謙和尚(1751年〜1846年)、第15代に範嶺和尚(1853年〜1925年)がおられます。
自謙和尚は市木(現在の島根県邑智郡邑南町)の浄泉寺で修業後、本願寺へ移りました。そこで、本願寺の最高学階の「勧学職」初代を務めた後、西田の瑞泉寺住職となりました。

自謙和尚が瑞泉寺の住職となった後、天保の大飢饉が村を襲いました。その時、自謙和尚は、村人に吉野葛の製法を伝え、飢えに苦しむ人々を救いました。
この葛の製法は今に伝えられ、今も村人は冬の寒い中、雪の山に入り、葛の根を掘り、持ち帰って叩いてさらし、葛を作っています。この西田の葛は、一般には販売されていませんが、その美味なること有名です。

松江の和菓子やさんがこの葛を使って、「瑞泉」という和菓子を作っておられます。その和菓子屋さんは、何年かにわたり、葛を作っている現場に足を運び、じっと見ておられて「瑞泉」を作られたということです。

また、西田の「ヨズクの里」では、事前予約をすれば、「葛がゆ定食」を作って貰えます。
(事前予約。10人前以上。1人前1000円。葛がゆ定食は粥だけでなく、西田の特産物や山野草を使った料理もあり、好評です。)

さて、その瑞泉寺に、自謙和尚が住職の時、かの有名な「博多の仙崖さん」こと、仙崖義梵和尚がこられ、3年間も逗留なさったそうです。瑞泉寺は浄土真宗で、仙崖義梵和尚は禅宗の臨済宗です。当時の住職は自謙和尚でした。瑞泉寺は宗派を問わず、訪れる僧を迎えられたようです。
仙崖さん(以下、愛称で書きます)は、博多でもそうだったようですが、ここ西田でも酒が飲みたくなると絵を描いてお金に換えておられたようです。

瑞泉寺には、仙崖さんゆかりの品があります。
今回は、16羅漢像図と掛け軸(仙崖さんの描かれた自謙和尚の墨絵肖像画、賛は自謙和尚)を拝見しました。
これらは寺宝で普段は拝見できません。今回特別に拝見させて貰いました。

16羅漢像図の一部。仙崖さんの彩色の絵は珍しいそうです。
この絵が描かれている布は、袈裟を作る為の品だそうです。






| ガイドおすすめのスポット | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
ガイド研修〜温泉津「西念寺」毛利元就手植えの梅〜
温泉津港の近くに「龍燈山西念寺」があります。
22日、ガイド研修で訪れました。

西念寺は、毛利元就が九州の立花城を攻めた際に手柄があったという 然休上人を開祖とする浄土宗の寺院です。
元亀2(1571)年に建立されたものです。

西念寺の境内は、もともと狭かった谷の岩盤を、毛利家の手勢が手掘りで切り拓いたと伝えられています。その頃の本堂は、今の本堂から見て、右方向へ向いていたそうです。
その昔、寺院の傍を通る往還道は沖泊にと続いておりました。寺院のすぐ前の道には「駒つなぎ岩」も残っています。付近には、銀山役人だった松浦氏の宝篋印塔などの石造物が残されています。

西念寺横往還道の「駒つなぎ岩」

(往還道や駒つなぎ岩は分かりにくいので、近くの方にお聞きになってください)

往還道は今は産業道路によって分断され、途中までしか行けませんが、石垣をめぐらした建物跡や畑跡が残っています。

西念寺の中庭には、毛利元就手植えと伝えられる紅梅の老木があります。
老木の根元近くから芽をだした枝が延び、そそと、しかしはれやかに花を咲かせています。
今、盛りです。


| ガイドおすすめのスポット | 19:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
石見銀山で名残の梅を楽しむ
お客様から「石見銀山は梅が多いですね」とよく言われます。
銀山公園から龍源寺間歩往復の道傍には、梅の古木がたくさんあります。何本あるのでしょうね。
今日は天気もよく、梅は陽に映えてつつましく、名残の花を咲かせ、通りがかりの人々の足を止めていました。


かたや、桜のつぼみが膨らんできました。
4月2周目の終わり頃には満開になるでしょうか。
「さくら吹雪 代官所門前 江戸模様」(銀山かるたより)

満開もよし、銀山川に散りゆく桜もよし。お楽しみください。
| その他 | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
温泉津町の4小学校は統合して温泉津小学校へ
大田市温泉津町には、4つの小学校と1つの中学校があります。
今年3月、4つの小学校が統合し、4月より新たな温泉津小学校となります。統合後の校舎は、現福波小学校校舎を使用します。

閉校式がありました。
3月19日には、湯里小学校 ・温泉津小学校
3月20日には、福波小学校・井田小学校

各小学校の閉校式にも、午後の閉校記念イベントにも、地域の方々が大勢参加なさって、大変賑わいました。

世界遺産・石見銀山を有する大田市にも過疎化の波はどんどん押し寄せてきています。
| その他 | 23:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
イズモコバイモ
東北地方太平洋沖地震から10日が経ちました。
亡くなられた多くの方々のご冥福を改めてお祈りするとともに、被災者の方々が一日も早く笑顔を取り戻されるよう、復興の進展をただただ願うばかりです。

テレビニュースなどでご覧になった方も多いと思いますが、国内はもとより、海外からも100を超える国や地域から救援の専門家や支援の申し出が届いているそうです。本当にありがたく、ひたすら頭が下がります。

石見銀山が2007年に世界遺産登録を決めた思い出の地ニュージーランドも、いち早く駆けつけて下さった国のひとつでした。つい半月ほど前の2月22日、自らが大変な震災に見舞われ、自らの復興で精一杯であるはずの地からです。

現地入りしたヘルメット姿のNZの救護隊の方が、テレビインタビューの中でこう話しておられました。
日本に恩返しできることを誇りに思う。しかし、 こんなに早く恩返ししたくはなかった
またクライストチャーチ市長は
いま一番あなたたちの気持ちが分かるのは我々です
とマイクに向かって話しかけられました。

 

イズモコバイモの花です(邑智郡川本町で撮影)
非常に希少な植物で、地元の住民の方々が大切に保全運動をしているおかげで、毎年どうにか確認できている種です。

自然は恐ろしく、荒れくるい、予測すらままなりません。その一方では、こんな時でも決して春を忘れず、小さな花を咲かせます。 イズモコバイモの花をみて、なんとも言えない気持ちになりました。
| その他 | 21:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
被災者の皆様へお見舞い申し上げます
東北地方太平洋沖大地震の報に接し、言葉もありません。

お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、ご家族の皆様にお悔やみ申し上げます。
災害にあわれた皆様に心よりお見舞い申し上げます。

どうか一日も早く余震がおさまり、安心して暮らせる日がきますようお祈りいたします。
| その他 | 09:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
石見銀山は今、梅が真っ盛り

石見銀山、中でも銀山公園周辺の梅は、今ぞ、とばかり咲いています。

銀山公園の梅木。2011年3月10日。銀山公園にて。


銀山公園から龍源寺間歩へお客様をご案内していますと、よく言われます。
「石見銀山って梅の木が多いわね」と。
そうなのです。
石見銀山と梅の木には深い意味があるのです。

江戸時代も終わり頃のことでした。
鉱山病対策に頭を悩ましていた代官は、岡山から「宮 太柱」という若い医者をよびました。そして、鉱山病対対策に取り組んで貰いました。

宮太柱が考案した対策の一つが梅マスクです。
「鉄の枠に(針金)に絹を張って、絹には柿の渋を塗る。そして、絹の間に梅肉を入れたらよいと。梅肉マスクですね。
梅マスクは効力を発揮したようです。梅マスクを使用すると、一日たっても呼吸ができるが、梅マスクがないと、早く息苦しくなってきたそうです。

宮 太中が考え出したものは、梅マスクだけではありませんでした。
つづく。

| その他 | 22:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
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