秋ですねえ
2009.08.25 Tuesday
毎日いいお天気が続いています。
残り少ない夏休みを、御家族で楽しんでおられる方が多い毎日です。
昨日はさやさやと風が吹き、あ〜もう秋なんだなあと思いました。
今朝などタオルケットでは寒く、毛布を出しました。
今日も風があり、日向にでると暑いですが、日蔭は涼しい一日でした。空には、イワシ雲がたなびいていました。
夜空を仰ぐと、昨夜は鎌のような白い三日月でした。「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという山中鹿介の姿が目にうかびました。日々衰えていく尼子氏を支え、苦難の日々の中でも、三日月がやがて満月になるように、明日を信じて苦闘した鹿介だったのではないでしょうか。
鹿介は、尼子氏に仕えた勇士でした。一時は中国地方を傘下に入れた尼子氏でしたが、力をつけてきた毛利元就に攻められ、尼子の本城「月山富田城」(がっさんとだじょう)は落城。1566(永禄9)年、城主「尼子義久」は囚われの身となり安芸へ、そして長門へと送られました。
浪々の日を送った鹿介らは、京都は東福寺に潜んでいた尼子勝久を盟主に抱き、再び出雲の地を奪回せんと1569(永禄12)年、立ち上がりました。尼子再興戦です。
しかし、それも、翌年、毛利の大軍と戦い敗れ、再び出雲の地を踏むことはありませんでした。
その後は、織田信長の命を受けた秀吉軍に入り、播磨國「上月城」を死守せんと励みました。
しかし、1578(天正6)年、毛利の大軍に城は囲まれ、遂に降伏しました。尼子勝久、切腹。鹿介は囚われの身となり、備中高梁に護送されました。備中高梁の城では、毛利輝元が鹿介の到着を待っていました。
7月17日、城をまじかにした備中高梁「合いの渡し」で鹿介は突然切りつけられ、殺されました。
今は、その近くの橋のたもとに山中鹿介の墓がひっそりと立っています。誰が鹿介暗殺命令を下したのか、謎のままに。
今夜の月は少し膨らんでいて、花王石鹸を思い出しました。
明日もよい天気のようです。
残り少ない夏休みを、御家族で楽しんでおられる方が多い毎日です。
昨日はさやさやと風が吹き、あ〜もう秋なんだなあと思いました。
今朝などタオルケットでは寒く、毛布を出しました。
今日も風があり、日向にでると暑いですが、日蔭は涼しい一日でした。空には、イワシ雲がたなびいていました。
夜空を仰ぐと、昨夜は鎌のような白い三日月でした。「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという山中鹿介の姿が目にうかびました。日々衰えていく尼子氏を支え、苦難の日々の中でも、三日月がやがて満月になるように、明日を信じて苦闘した鹿介だったのではないでしょうか。
鹿介は、尼子氏に仕えた勇士でした。一時は中国地方を傘下に入れた尼子氏でしたが、力をつけてきた毛利元就に攻められ、尼子の本城「月山富田城」(がっさんとだじょう)は落城。1566(永禄9)年、城主「尼子義久」は囚われの身となり安芸へ、そして長門へと送られました。
浪々の日を送った鹿介らは、京都は東福寺に潜んでいた尼子勝久を盟主に抱き、再び出雲の地を奪回せんと1569(永禄12)年、立ち上がりました。尼子再興戦です。
しかし、それも、翌年、毛利の大軍と戦い敗れ、再び出雲の地を踏むことはありませんでした。
その後は、織田信長の命を受けた秀吉軍に入り、播磨國「上月城」を死守せんと励みました。
しかし、1578(天正6)年、毛利の大軍に城は囲まれ、遂に降伏しました。尼子勝久、切腹。鹿介は囚われの身となり、備中高梁に護送されました。備中高梁の城では、毛利輝元が鹿介の到着を待っていました。
7月17日、城をまじかにした備中高梁「合いの渡し」で鹿介は突然切りつけられ、殺されました。
今は、その近くの橋のたもとに山中鹿介の墓がひっそりと立っています。誰が鹿介暗殺命令を下したのか、謎のままに。
今夜の月は少し膨らんでいて、花王石鹸を思い出しました。
明日もよい天気のようです。