玉川上水を頼みとする武蔵野新田の村々に深刻な被害をもたらした寛保2年(1742)8月の玉川の大氾濫―――。大岡越前守はすぐさま、代官・上坂安左衛門に対策を命じました。さらに時の将軍・徳川吉宗公は
「かの川崎平右衛門に調べさせよ!」
御直々のご指名があったのです。ところが折悪しくこのころ平右衛門は病を得て療養中。平右衛門の出仕を待つわけにも行かず――。
「てなわけで、大岡様は腹心の上坂様に『玉川普請の目論見を早く出すように』とお命じになったのよ」
「なるほど、玉川地区の水道復旧工事の予算書を提出せよ、とこういうわけですね」
「まあそういうこった。で、上坂様が『大体これくらいかな〜』と出した目論見が9,000両。一方、勘定奉行の配下で井沢弥惣兵衛様の出した目論見も6,000両ときたもんだ」
「いずれにしてもすごい金額ですよね?」
「そりゃあそうだ、わしら庶民にゃ『両』だの『小判』なんてさっぱり縁がないからなあ。ほれわしの小遣いもこの通り、紐に通した一文銭。六文ありゃあ蕎麦が食える」
「確か一文銭1000枚で1貫、4貫文で1両だったっけ。わあー大変だ」
「まったくでえ、一生かけても食いきれねえや……っと、蕎麦の話じゃねえ。上坂様が9,000両、井沢様が6,000両と目論んだ、そこへ登場したのが病い癒えてようやく大岡様の元に参上した川崎平右衛門様よ」
「いよっ、待ってました!」
「川崎様はなんと開口一番こうおっしゃったそうだ、『玉川普請の儀、私めは4,000両と見積もります』とな」
「えっ、それ上坂サンの見積もりの半分以下じゃないですか。都の予算も逼迫して我々も苦労してるって言うのに。これだからお役人は全く…ブツブツ」
「いや上坂様も決して無能なお方じゃあねえんだが、それだけ川崎様の力量と才覚が優れてたってことだろうな。しかも川崎様は『余裕の出たぶんを向こう3年間の修復料としてお取り置き下さいまし。さすれば今後20年間は一切普請の要らぬようにしてみせます』とこうもおっしゃったそうだ」
「へえ。で大岡越前はもちろん、」
「もちろん、川崎平右衛門様にお任せになったとも。明くる寛保3年(1743)正月から5月までの大工事、見事に川崎様が差配なさった。しかも玉川がしゃんとすれば近在の百姓衆も『これだけ水利が整うならば張り切って新田を作ろうか』とこうなるわな。大岡様によれば『平右衛門は4,000両を使って1万両余に見える普請をやってのけた、誉めてやりたい』と」
「川崎平右衛門サンのこと、もっと知りたくなってきましたよ、源次郎さん」
「そうかえ、じゃあ次のわしの非番のときに、花見にでも連れてってやろうか」
「え、花見?もう9月ですよ、それに川崎サンと花見に何の関係が……」
「まあまあ、行けばわかるって。わしに任せておきな」
お話は次回に続きます。