卒業生は3人、在校生は21人です。3人の卒業生を主人公に据えた素敵な卒業式でした。
校長先生の式辞も在校生全員によるお別れの言葉も、卒業生一人一人の思い出、エピソードなどが、飾らず、気持ちのこもったもので、温かい気持ちになりました。それに答えた卒業生の言葉も力強く、筆者は1年生の頃から知っているので、その成長ぶりに、胸に迫るものがありました。
小規模校ならではの卒業式だと思いました。大規模校と小規模校の優劣を考えるものではありませんが、改めて大森小学校の統廃合問題も考え、存続の方法はないのかという思いも浮かびました。
3人の卒業生を送り出した大森小学校は、4月には8人の新入生を迎える予定です。5年前、全校児童9人だった大森小学校は、来年度は29人になり、翌年度は34人になることが予想されています。
子どもたちが増えていくことで、町も元気になっている気がします。(A)
追記
「子育て まち育て 石見銀山物語」が、NHK総合テレビで明日(20日)、23時から放送されます。
昨日ご案内したお客様も、昨年、この番組を見たと話されていました。
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戦国時代から江戸時代、明治、大正にかけて石見銀山には坑夫をはじめとして多くの人々が暮らし、そしてみんな死んでいった。坑夫のように社会の下層に生きた人たちはどのように弔われてどこにどのように埋葬されていたのだろうか。大久保間歩ツアーなどでガイドをしながら、多くの人々が銀山で暮らしていたことを話すと、客の中からその人たちはみんな死んだはずだが、どこにどのように埋まっているのかという質問が出る。残念ながら、明確に答えることができない。
実はわかっていない。石見銀山の石銀、休谷、御崎谷、栃畑谷、昆布山谷、大谷や柑子谷を歩くと、なるほど集落や寺院があったとみられる場所の上方部斜面や尾根沿いにたくさんの墓地跡が見られ、墓石あるいは墓石片が散乱している。しかし、その墓石に刻まれている死者の名はいずれも江戸時代後期以降の人々が多い。それでは、それまでに生きた庶民たちはどこにどのように埋葬されたのだろうか。時代が遡れば、時間の経過とともに墓石が風化し朽ちて墓所がなくなっていくことは容易に理解されるが、その跡形もないとなればそれは不思議なことだ。
これまで石銀、本谷、於紅ヶ谷地区については石造物調査がかなり進められてきて、当地区での実態が幾分わかってきている(註)。そこでは紀年銘のある墓石が調査されて、戦国時代以降の墓石も多数見つかった。しかし、石塔など墓石を持てたのはごく限られた階層の人々であろうし、大多数の庶民層の墓所には石塔はなくまさに名もなき人たちだったのである。その人たちはどのように埋葬されたのだろうか。そこがわからないのである。
仙ノ山山頂の石銀(いしがね)地区。戦国時代以降「石銀千軒」といわれる程密集した集落があった。周辺に見える竹藪などの茂みは墓地跡といってもよい。
昨年(2023年)11月26日、令和5年度の「ここまでわかった石見銀山」調査研究成果発表会(大田市教育委員会主催)と石見銀山研究会(若槻真治代表)第4回例会が合同開催された。今年度は石見銀山とその周辺の石造物、中でも墓石の実態調査報告が中心テーマだった。
そこでは、墓石の実態については報告があった。江戸時代に墓石(石塔)を造れたのは身分的あるいは経済的に上層に属する階層の人たちに限られただろうし、坑夫たち庶民が石塔を持った墓地に埋葬されるのは、ずっと後になると見られる。(ここで誌面が尽きたので、庶民層の埋葬のあり方の変遷については以降のブログで気の向くままに述べてみたい。)(Ng)
(註)石銀地区の石造物調査については、『石見銀山遺跡石造物調査報告書15』(島根県教育委員会・大田市教育委員会 2015年5月)を参照している。
]]>3番線に渡る「跨線橋(こせんきょう)」が懐かしい、最古の跨線橋とも聞くが、定かではない。
レトロ感いっぱいの大田市駅「跨線橋」
ホームには待合室があって中は暖房で快適、(駅のホームは吹きっさらしで寒い物であったがこれはありがたい、やがて定刻に以前に比べてカラフルな二両編成の列車がくる、昔はSL機関車で車両は黒っぽい物でした、客車の編成は大体6両、7両が多かったように思います、機関車は「貴婦人」の別名を持つ「C57」等C型が客車用でした。
C57「貴婦人」(駆動車輪が大きくてボイラがスリムなのが特徴)
又その頃の物流は国鉄(JRの前身)の貨物が主流で駅からは、同系列の「日の丸トラック」の出番だったようです。当時長久町の田園風景の中国鉄の貨物列車をよく見かけ、今日の貨物は何両編成かコンテナの数を数えたものです、50両前後の長い貨物列車でした、これを引っ張る機関車は愛称をD51(デゴイチ)と呼ぶ貨物用の機関車でした、因みに最初のアルファベットの「C」や「D」は駆動車輪の数でC型は3對の駆動車輪で「D」型は4対の駆動車輪と云う事です。
迫力満点、重量感溢れる「D51(デゴイチ)」
当時の長久町は見渡す限りの田圃でした、遠くの列車を見るのに途中遮るものはなく、家並みは山の麓に並ぶ見渡す限りの田園風景でした、そこに昭和30年頃田んぼの中に出来たのが今は空き地となっている「大田自動車学校と道路を挟んだ住宅地でした。
車窓から景色が後ろに飛んでゆくのもおつな景色です、沿線の見慣れた風景も車窓から見るとまた一味異なる風景を楽しませてくれます、波根駅を過ぎて田儀駅まではトンネルの数が7つもあります、いずれも短いトンネルですが下関から京都の5府県を結ぶ山陰本線では最もその数が多い区間でしょうね。
またこの区間は時々見える日本海の絶景が素晴らしい区間です、日本海の荒波が岩肌に打ち付けられてできた絶景です。
各駅に昔設置されていた駅名の大型看板が姿を消していました、駅名はホームの柱に小さな看板うっかりすると見落とします、これは絶対に昔の方が親切でしたね、駅名も変わっていました、元々出雲市駅は「今市」でした、そしてその西隣が「知井宮駅」でした、と言う事で、誰かが下手な駄洒落を言った時「それって知井宮だよね」、つまり「イマイチ(今市)にも届かない一つ手前のチイミヤ」という事です。また知井宮駅のホームには例の駅名看板があり「ちいみや」と記されていましたが、逆さに読むと「やみいち(闇市)となるのも面白かったものですが、駅名がその後「大社口」となり観光客の不評を買い(出雲大社にアクセスするのは出雲市駅が有利)今は「西出雲駅」となっています。
この手の看板良かったと思うけどナー
出雲市駅の今は線路が高架になり駅が広く使え、出口が北と南に出来、駐車場も広くなりました。(銀爺)
出雲市駅前(北口)
つけたり
自動車免許証を返納して、大田市って高齢者に冷たいよね、と感じました。
私の町には個人商店が殆どありません、食料品は一軒ありそこそこ間に合いますが、日用品(文具や乾電池など)はすべて隣町の長久町まで行かねばなりません、然るに土日祭日はバスが来ないのです、これって不便ですよね、足腰鍛錬に歩けっていうの?大型バスでなくてよいから運航してもらいたいです。
]]>時々このブログに登場しますのでよろしくお願いいたします。
タイパという言葉がZ世代で使われるようになり、世間にも浸透してきた感じです。
タイパとは「タイムパフォーマンス」「時間対効果」の事です。
若い人達は、YouTubeやセミナー映像等を1.5倍とか2倍のスピードで視聴するそうです。
私がそれをするなら全集中が必要で、クタクタになってしまいその後のパフォーマンスに影響が出そうですが・・・
そういえば、最近の曲は「イントロ」が短いですね。昭和のあの長いイントロ。思い出の曲はイントロを聞いただけで胸がときめいたりしました「TRUE LOVE」とかね。
さて、旅行となるとどうでしょうか?
せっかく島根の方まで行くから、津和野から鳥取砂丘まで・・・とか考えませんか?
いけんですけ〜(意味:ダメですよ)300km以上ありますよ。
石見銀山にいらっしゃる時は、タイパはさておき、ゆっくり時間を使って五感で石見銀山を感じていただきたいです。
これからの季節は新緑の中、鳥のさえずりを聞きながら間歩まで。町並みをあるいて「文化的景観」そして町の息遣いを肌で感じてください。焼き立てのパンの匂いや元気な子供たちの声や姿もみえるでしょう。これこそが石見銀山の魅力だと考えています。
もちろん時間がない中、アクセスの悪い石見銀山に来て下さることには感謝します。
3月9日に山陰道の一部つながりアクセスが少しよくなりました。タイパです!
これからの季節は、梅や桜と花盛りは少々?過ぎたガイドが皆様のお越しをお待ちしています。待っとるけ。
銀山公園の梅 今年は少し遅めでしょうか。。。
(まるまるまる子)
]]>国道375号線、大田市の中心部から南下し、三瓶方面に曲がらずにさらに少し南下すると西側に小さな盛り土があり、その陰に川合神社があります。川合神社は物部神社の境外社で「川合神社」と彫り込んだ石碑があるだけです。しかし以前は小さな鳥居があったそうです。
川合地区の圃場整備工事で掘削される場所について、大田市教育委員会が発掘調査を始め、調査対象となった区域は約1ヘクタールあり、遺跡全体としてはその数倍はあると推定されます。3月末まで調査し、その後は農用地として利用されます。
遺跡の時代は、飛鳥、奈良時代を中心として、古くは縄文時代から新しくは鎌倉、室町時代に至ります。
発見された遺構は、建物跡がおよそ四十数棟、地面を掘りくぼめて屋根を設ける竪穴建物、掘立柱建築などが確認されました。
出土品には、縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器など多くの土器の他、中世の青磁が出土しています。
縄文土器は、川合神社の石碑の南側を中心に見つかりました。年代は今からおよそ3000年前の頃のものです。
次に注目されるのは古墳時代の初めごろの建物跡です。建物跡は住居跡と判断され、集落があったとみられます。
古墳も見つかりました。埋葬部分などは失われていましたが、円墳で、周囲に廻らせた溝から5世紀末ごろの須恵器が出土しました。
遺跡の主体であった時代は飛鳥時代と奈良時代後半です。なおかつ良好に残存していたことは注目されます。古代の遺物では丸い形をした硯、円面硯(えんめんけん)が発見されました。筆で字を書くための硯の存在は、文字を必要とした役割のある場所であるということです。やや「公的」な機関がこの場所にあったのかと想像が膨らみます。
そのほか鎌倉時代の武士たちが珍重した青磁の発見とその時代の建物跡もあり、この場所が大きな災害や地形変化もなく連綿と利用されていたことも示しました。それだけ居住に適していたと考えられます。(I)
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梅まつりのあった3月10日に、久しぶりに中学生(2年生)の修学旅行生を案内しました。私のガイドでもっとも相性がいいのは、アメちゃんをポケットにしのばせている大阪のオバちゃんですが、この時はあまり得意でない中学生、とくに女生徒ばかりでした。それもそのはず、この学校は私立の女子中学校でした。中学校から男女が分かれているのは珍しい。と思いきや、ミッションスクールや独特の教育方針を掲げた男女別学中学校が都市部にはずいぶんありますね。私が育った岩手県とか、今住んでいる島根県など田舎県(失礼)では、中学校はほぼ公立で、男女共学が当たり前でした。
最近、お客さんにはNHKのEテレの「子育て、町育て、石見銀山物語」を宣伝することにしています。この日も、「皆さんが今日歩いているこの町が、丁度今晩の6時、Eテレで全国に紹介されますよ。是非みてね」。その反応は「えー、その頃きっと萩のホテルで食事の真っ最中です。あっ、家に電話して録画してもらいます」と生徒たち。
彼女らが旅行から帰った後、このビデオを見ながら親子でこの大森の町について何らかの会話がはずむといいですね。
ガイドのおわりに、「この町に、将来住んでみたいと思う人、手を上げてみて」手を上げる生徒はいませんでした。それもそのはず、一時間ちょっとのガイドでは、伝えたい情報の1割も話すことができませんでした。それに、田舎に住んでいる若者ほど都会に出たがっているこの時代、東京のど真ん中にある杉並の中学に通っている中学生が、将来ここに住みたいと思うはずがありませんね。実は、手を上げた人が一人だけいたんです。生徒たち「あっ、先生だけだ」
ガイド中、私の話を初めから終わりまで熱心に聞いていた人が一人だけいました。生徒と同じような服装をしていたので、生徒の一人だと思っていましたが、実は先生だったのです。先生、ごめんなさいね。この修学旅行のガイドは、自分的にはこの先生一人に手を上げていただいただけで大成功です。
この修学旅行にガイドが12名参加しましたが、皆さん口をそろえて、「みんないい孫たちだったね」(O)。
]]>福引や福袋、福豆、鉱山関係では福石、福石場など「福」の字を見て怒る人はいません。誰もが好きな「福」の字は、右から分解して並べると「一・口・田・ネ(ひとくちだね)」と読めます。江戸時代の寺子屋では「一口の幸せに感謝し、よく噛みしめ、深く味わって食べましょう」と教えたそうです。
当ブログの趣旨から少し外れますが、男性でも簡単に作れて、食育にも繋がる一口の幸せを感じるほど美味しい、江戸時代の銀山でも食べたと思われる壬生菜(みぶな)を使った漬物料理をご紹介します。
「壬生菜」のルーツは長野県信州の高原野菜とも言われていますが、壬生菜は水菜の変種のひとつとされ、江戸時代後期に自然交雑によって生まれた説が今では有力となっています。京都市内の壬生地区で栽培されていたことから壬生菜という名も付いたと言われています。
また、江戸時代の農業に関わる百科事典「成形図説」には「壬生に産するもの」として「壬生菜」の語が使われていて、この頃から水菜と区別するようになったと考えられています。
壬生菜の植え付け
壬生菜と水菜の違いは葉っぱの型です。壬生菜の葉は単純な丸いへら型で、水菜の葉は切れ込みのあるギザギザ型をしています。
壬 生 菜
水 菜
壬生菜の漬物は、初心者でも自宅で簡単に作ることができます。壬生菜の旬は12月下旬〜3月なので、旬の時期に自分で壬生菜の漬物を作ってみるのがおすすめです。材料も壬生菜と塩、昆布、少量の水、ビニール袋、それだけで良く非常にシンプルです。
壬生菜が大きい場合は、株元を少し切り半分に割いて水洗いしておきます。ビニール袋を用意して壬生菜と塩、あれば細切りにした昆布、少量の水を入れて、空気を抜いて1日ほど冷蔵庫に入れておくだけでOKです。冷蔵庫に入れておくと少しずつ壬生菜がしんなりしてきます。途中でビニール袋の中の空気を抜いてやるのが美味しく作るポイントです。1日たったらビニール袋から取り出して食べやすくカットして完成です。
壬生菜の漬物の場合は、みじん切り又は細切りにして、そのまま(又は醤油を少量かけて)食べるのがおすすめです。
細 切 り(壬生菜の漬物)
壬生菜の栄養価には、ビタミンC・E、β-カロテン、食物繊維などがあるようです。中でもビタミンCは、美肌効果や免疫力を高める効果があることはよく知られています。またカリウムやカルシウムも豊富で、骨の健康維持への効果が期待できます。
人に良い、人を良くするとも読める漢字が「食」でもあります。片寄ったり食べ過ぎたりして「ショック」にならないように、食生活にも気を付けたいものです。超高齢社会となって、男性も色々な料理に挑戦してみてはどうでしょうか。(te)
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20日(水)23時〜NHK総合テレビで放送される「23年度総集編」が楽しみです。
さて本題です。
3月10日、石見銀山公園で第28回梅まつりが開催されました。
楫野大田市長の来賓あいさつ。右端は当会の長尾共同代表。
江戸時代、短命だったと言われる坑夫たちの健康を守ろうと、梅肉を使ったマスクが考案されたことにちなんで、第1回の梅まつりが開催されたのは1985年(昭和60年)でした。2006年〜2011年は中断しましたが、2012年に復活し、コロナ禍のため中断していましたが、今回5年ぶりに第28回梅まつりが開催されました。
好天に恵まれて、町内外からたくさんの参加者があり、梅干しの種飛ばし大会や、大屋神楽などのステージでの出し物や、グルメコーナーなどで、一日賑わいました。
当会は、国学院久我山中学校の修学旅行やその他通常のガイド活動もしながら、準備、後片付け、餅つきなどに協力しました。
餅つきでは、町のみなさんと協力して、男性は餅つき、女性は持ちを丸めたり販売したりしました。甘いウメをつきこんだほんのりピンク色の「梅もち」は、毎年好評で、45?の餅は今年も完売でした。
梅まつりが終われば、石見銀山は本格的な春を迎えます。ガイドの申し込みもたくさん届くようになりました。
今年も、たくさんの方においでいただければと思います。(A)
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名護屋城復元模型(名護屋城博物館常設展示から)
豊臣秀吉によって召集され全国130以上の大名の陣屋跡が名護屋城周辺にあった。集まったのは大名、武士だけでなく百姓、商人までも動員されていて、周辺の人口は総勢20万人になったと言われている。つまり、名護屋城は、慶長3年、1598年8月秀吉の死によってその役割を終えるまで幻の巨大都市だったのである。
名護屋城は「文禄・慶長の役」(韓国では「壬申・丁酉倭乱=イムジン・ジウォンユウェラン」という)の拠点だった。言うまでもなく、朝鮮侵略の拠点となって無実の朝鮮の人々を多く殺害した。それは秀吉の野望と妄想がもたらしたものだったが、日韓両国にとっては歴史に残る汚点となった。この野望の資金には石見銀山の銀も使われたのではないかと言われている。
当日は強風が吹いて生憎の天候ではあったが、城郭のスケールの大きさを体感するに支障はなかった。他国侵略基地だったということから、筆者は現地では複雑な気持ちになった。なお、現地には専属のガイドさんが約10名いて、予約すれば40分200円でガイドしていただけるということだった。
佐賀県立名護屋城博物館
また、城跡の入り口付近には佐賀県立名護屋城博物館があった。とても立派な博物館だった。学芸員が配置されていて、館内には秀吉の黄金の茶室が復元されていたり、展示にはさまざまな工夫が見られたりビデオでの説明もあった。我が世界遺産の見せ方とは比べるのも恥ずかしいと感じた。今回の旅でほかの遺跡や博物館にも足を運ぶ機会に恵まれたが、どこともこの10年余りで展示などの充実ぶりが目についた。石見銀山の関係者も殻に閉じこもらずに、やはり見聞を拡げるべきだと思った。(Ng)
]]>戦後十年ばかり経って生活水準も少し良くなってきたころ、少年少女向けの月刊誌がどんどん出版され、一冊85円くらいだったと記憶しています、但し当時の百円は子供たちにとって大金でした、それでも百円でおつりがあるのは良かったですね、やがて一冊の値段が百円を超える時代になりました。
人気月刊雑誌・少年画報
月刊誌は、過当競争、とにかく付録が豪華でした、当初は手作りの模型などが主流でしたが、やがて別冊と呼ばれるちょっと小ぶりの小冊が何冊も付録についてきていました。仲の良い友達同士、君は「少年」、君は「少年クラブ」、私は「少年画報」と割り振りして、互いに回し読みしたものです。
当時の漫画は、「いがぐり君」「赤胴鈴之助」「鉄腕アトム」等福井英一、手塚治虫、と漫画界の両巨匠がいましたね。
左・福井英一:イガグリくん 右・手塚治虫:鉄腕アトム
雰囲気が違ったのが「馬場のぼる」で個人的には好きなタイプでした。
馬場のぼる
赤胴鈴之助は、幼くして父親を亡くし優しい母とつつましく暮らす天才少年剣士です。
赤胴鈴之助親子
「酒賀好兵衛」にだまし討ちになった、父の形見の赤胴を身に付け剣の修行をしながら成長する主人公です。
天才少年剣士・赤胴鈴之助
鈴之助の前に立ちはだかる、最強のライバル「稲妻雷之進」の得意技“イナズマ切”は天下無双の必殺技でした。
鈴之助のライバル「稲妻雷之進」
鈴之助はこれに対抗して、捨て身の技“真空切り”をあみだし、雷之進に立ち向かうという、ワクワクドキドキの世界にはまり込んだものです。
真空切り対稲妻切り
つけたり
12月には新年号が発売されます、新年号は他の月に比べ豪華版であったような気がしました、そんな中私が違和感を感じたものがあります、それは海から昇る初日の出の画像でした、日本海で育って日本海と馴染んでいる私には、海の太陽は夕日なのです。どうしても受け入れられませんでした、その後成人して太平洋から昇る朝日を初めて見たとき、薄暗い夜明けから徐々に明るくなる光景が、頭では理解できるけれど何とも奇妙に感じたものです。(銀爺)
初日の出、私的には夕日のイメージでした
]]>石見銀山ガイドの会(当会)は去る2月21日に会員総会を開催し、以下のような機構改革を議決しました。これは、会員の高齢化による退会や活動休止、さらには出動可能回数の減少が現実問題として生じている一方、新規会員の補充がままならない現状からやむを得ない措置として決定したものです。
1,会員数の減少と高齢化にともない少し活動範囲を縮小します。このため、これまでどおりガイド依頼には最大限お応えしていく所存ですが、当会の現状が上記のような状況ですので、場合によってはご不便をかけることになるかもしれません。ご理解賜りますようお願いします。
具体的には、山ガイド、街道ガイドなどこれまでお受けしていたガイドの受入れ形態を見直します。龍源寺間歩コースほかのガイドも一日の出動回数を少し抑えることになります。ワンコインガイド(龍源寺間歩コースと大森町並みコース)は従来どおり催行します。ガイドのお申込みにあたって不明な点はガイド事務所にご相談ください。
2,会長・副会長制を廃し、共同代表制に移行します。これによって、役員の責任分担・作業分担を決めてその範囲で会を代表します。
なお、共同代表制への移行にともない、運営組織を次の3つの組織に分けます。
・ガイド事業運営部門
・内務部門
・渉外部門
当会は現在正会員37名、准会員2名、顧問3名で運営しています。引き続き、世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の普遍的な価値の喧伝に努めます。
また、新規会員を引き続き募集します。石見銀山のガイドに関心のある方は、気軽に声をかけてください。難しく考えないでください。私たちは楽しいガイドを目指しています。いつでも応募、受入れ可能です。お客様にガイドできるようになるまで養成講座を開きます。今後ともよろしくご理解とご支援をお願いします。(Ng)
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オキザリスとは酢漿草(カタバミ)の総称とされ、世界で850種類もあるという。雑草であり、道端や畑にはびこる。石見銀山の山中にも生えていて、深山(ミヤマ)カタバミというやや大きめのカタバミである。葉はハート形で、大久保長安公墓所、大久保間歩管理棟周辺や龍源寺間歩近くで見かける。3月には白い花をつける。人家周辺のものは黄色い花が多い。カタバミは片喰(カタバミ)で、夜に葉が閉じて半分喰われたかと思わせることからの命名である。カタバミの実は触ると勢いよく弾けて種を遠くまで、なんと2mも飛ばす。種子には蟻の好む成分がついているので、蟻が更に遠くまで運んでいくという。広がるわけだ。
鏡草とはカタバミの別名である。鏡草を別名とする植物は他にもあるが、カタバミが鏡草といわれるのはシュウ酸を含み、カタバミで銅製の鏡を磨くと、シュウ酸で銅のくすみが取れ鏡がきれいになるからである。一所懸命に磨き、ピカピカになると鏡の向こうから想いの人の顔が浮かんでくるという。95%の銅を含む十円玉もカタバミで磨くと輝き出す。酸葉(スイバ)やほうれん草にもシュウ酸があるが、カタバミでの輝きが一番良い。
子供の頃、腹を空かせ口さみしくなると道端のカタバミや酸葉の茎をかじっていた。食えるのである。カタバミは薬草としても使えた。皮膚病や虫刺されにきく。江戸末期、医師宮太柱が鉱山病対策に通気管という送風装置を考案した。農具の唐箕を改良し清浄な空気と蒸したカタバミや樟などの蒸気を間歩で働く鉱夫達のところへ送ったのである。石見銀山で送風機であり空気清浄機が使われていたのであった。
ほうれん草をゆがくと灰汁となって浮くのがシュウ酸である。そのシュウ酸がカタバミに備わるのは、虫によって葉を食べられないようにするためだという。
silver vine とは、マタタビのことである。中国山地の高速道路を走っていると緑と白のまだらな蔓葉が樹木の上をはっているのを見かける。銀山でもいたるところで見ることができる。silver vine は日本語で“銀の蔓”となるから、銀山にふさわしい植物である。白と緑の葉がまだらになって木の上をはうのだから遠目にも分かる。葉の白さが銀を思わせるのであろうか。
梅に似た花を咲かせ、夏から秋にかけて実をつける。花の咲く時期に葉の一部が白くなり、虫たちに開花を教え呼び寄せる。葉の下の花に虫が取りつき受粉となり葉は再び緑に戻る。実はドングリの形をしており、キウィの仲間なので食べられる。マタタビ酒は元気回復剤である。どんなに疲れていても、“また旅に“出る元気を与えてくれるのだという。
猫に与えると猫踊りという猫の特異な行動が見られることでもしられている。犬はダメで、茂みに隠れて獲物を狩る習性を持つネコ科ならではということである。蚊などの虫除けの成分がマタタビにあって、その成分を体にこすりつけることがネコ科の脳に刻み込まれているようだ。葉をかんだり折ったり傷つけるとその成分が増えるという。
虫を忌避させる成分は、虫からの食害を防ぐためだという。
金山草とは、ヘビノネゴザという名の羊歯植物である。昨年春の直木賞受賞の歴史小説の題名『しろがねの葉』はこのヘビノネゴザという金山草をいう。銀鉱脈などの存在を教えてくれる特別な植物で、山師たちはその特性を知って、鉱脈探しの目安にした。邑南町の久喜・大林銀山、兵庫県の生野銀山などにも群生していることが知られている。石川県の金沢城の石垣に生えているという。金沢城石川門の屋根瓦は鉛でできているところがある。雨で溶け出た鉛が近辺に染み込み、そこにヘビノネゴザが生えたのである。ヘビノネゴザは地中の重金属、鉛や銅、カドミニウムなどに耐性があり、体内に吸収し取り込みながら成長する。重金属のある土地は植物にとっても有害で繁茂しにくい場所である。重金属に耐性を持ち吸収もするヘビノネゴザにとっては競争相手のいない有利な土地である。また、有害な重金属を取り込むと昆虫などの外敵の食害から身を守ることができるのである。
植物は動物と違って、獲物を追ったり、外敵から逃げることはできない。根づいた土地から動くことはできない。身を守り、子孫を残すために、動物とは異なった生存戦略を持っているのである。銀山とゆかりある深山カタバミ、マタタビ、ヘビノネゴザも生き抜くための戦略を持ち、その術がまた、石見銀山との関わりを深めたのである。
(苺の熊さん)
]]>好評のNHKEテレのシリーズ番組 『子育て まち育て 石見銀山物語』(本年度第6作−最終編)が次のとおり放送されます。
(放送日)3月10日㈰ 18:00〜18:30。
(再放送日)翌日3月11日㈪ 13:30〜14:00。)
(放送チャンネル)NHKEテレ
(今回のタイトル)「出会い 旅立ち 春よこい」
NHK Webから。
すっかり有名になったこの番組です。心待ちにしていた方が多いと思います。
のびのびと育っている子どもたち、その成長した姿が見られるはずです。今回は小学校卒業を控えた女の子、結婚を機に町に移り住んだ大工の男性、いろいろな人たちが門出の春を待つ物語です。日本の原風景を味わってください。
3月20日(水)NHK総合テレビでは、 23:00〜23:45、「子育て まち育て 石見銀山物語〜笑顔いっぱい きらめく日々〜」が放送されます。(Ng)
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ゆるキャラ集合「石見銀山のらとちゃんは右から4番目」
宅野子ども神楽団による「獅子舞」
宅野子ども神楽団による「獅子と天狗の舞」
大人の「恵比寿舞」
道の駅「ごいせ仁摩」で賑わう飲食ブース
その他にも、山陰道の本線上イベントとして、サイクリング、マラソン、ウォーキングが開催されました。静間道路の一部区間であったウォーキングには、約千人の参加者があり、道路からの自然風景を満喫し楽しまれていました。
往復4.6kmのウォーキングを楽しむ参加者
山陰道から見る「静間川の河口」
国立公園・三瓶山
遠方の中腹に「銀山・仙ノ山」が見える
開通記念プレイベントも盛大に終わり、いよいよ3月9日(土)午後5時から山陰道の12.9kmが新たに開通します。石見銀山(世界遺産)への交通アクセスが良くなります。多くの皆さまのお越しをお待ちしております。
(te)
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メイン会場の大森町づくりセンターでは、来訪者へのプレゼントの紙びなが用意されています。
さて、本題です。
大田市教育研究会小学校国語部が出版している「ねんぶこ」(2023年度版)に掲載されている大森小学校の児童の作文を紹介します。
大森の好きなところ
大森小 四年 松場 結子
私の大森町の好きなところは、たくさんあります。まずは、自然がいっぱいあるところです。わたしは、もともと緑いっぱいで自然がいっぱいあるところが好きです。さらに、わたしが好きなところは、大森の人たちが、私の好きな自然の風景を大事にしているところです。大森町の人たちは、風景を大事にしながら、建物や乗り物を取り入れています。私は、大森を大事にしようとする大森の人たちが、とても好きです。
今年の総合的な学習の時間では、大森町の「世間遺産」を調べました。その中で、大森町の人の「つながる力」も、大森町の良さだということに気付きました。大森町を良くしようと、たくさんの人たちが協力していたり、石見銀山のいせきを守る愛護少年団活動を五十四年間続けて、過去から未来へ活動を受けついだりして、大森にはいろいろな形の「つながる力」があることが分かりました。
わたしは、そんな大森のよさを、みんなにも知ってほしいです。
三年生になってから
大森小 三年 河合 朔也
ぼくは、神楽が大好きです。そんなぼくは、三年生になってから、川本神楽団でねんがんの神楽を習い始めました。
初めて練習に行った日は、あまり本かくてきな練習が出来なかったけど、団の人と仲良くなれました。次の練習の日には、ぼくにも役がもらえました。それは、「高麻呂」という役で、やっとぶ台に出られると思うととてもうれしかったです。
それから毎週金曜日に練習に通いました。家でも舞や口上の練習をつみ重ねました。
ある日、ついに衣しょうを着て練習ができました。衣しょうを着ると、気持ちが高まってニヤニヤが止まりませんでした。
そしてついに本番の十一月二十五日。いとこ、先生、さらに広島の「桑田天使神楽団」の方も来られて、出番まですごくきんちょうしました。
ぶ台に出ると、む中でまいました。きんちょうしたけど、たくさんの人の前で、大好きな神楽を舞い切れてよかったです。
和歌山県高野町の富貴小学校は、児童数減のため2020年3月に廃校になり、同年4月、高野山小学校の分校として存続し、現在の児童数は8人。本校までは片道車で1時間。小学校のある地区は人口363人、そのうちここ6年間の移住者が62人。移住者の保護者たちを中心にして富貴小学校復活の運動がおこり、今年4月の復活が決まりました。
松場さん、河合さんの作文を読んで、大森小学校の存続を改めて思いました。(A)
追記
?「ねんぶこ」は、この地方の方言で「めだかのこ」。
?児童文集「ねんぶこ」は、筆者が小学生の時にも発行されていて、筆者が6年生の時の作文も掲載されました。
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