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まだまだわからん石見銀山 第63話 休谷の間歩−新切間歩

 約1,000箇所もあった間歩。名前が知られている主な間歩をこれから順に紹介してみます(龍源寺間歩は既に書いたので、それ以外の間歩を筆者の好みで選びました)。江戸時代、石見銀山にあった間歩は代官所に登録されていて(「間歩改帳」が作成された)、識別するためにおそらくすべて名前が付けられていたと思います。その名前も山主が命名し、ときには鉱山(やま)が栄えることを願って縁起のよい名前や盛山への想いを込めた名前にしたと思います。まずは、休谷の新切間歩(間歩番号:600)から紹介します。

 

 休谷にあって、標高約170鍛賄世龍篁垣遒里垢伊気帽8が開いていて南進しています。この間歩が休谷〜大谷では最も標高の低い地点に掘られたものといいます。

                  新切間歩

 

 江戸中期(正徳5年=1715)代官鈴木八右衛門重政のときに代官所が水抜き目的で掘りました。その目的は、休谷から新しい間歩を開削し、落盤や水没に陥っている間歩を復活させ採鉱を可能にすることにありました。つまり他の間歩の30〜45嘆爾鮑侶,垢襪海箸農腑了柿澗里凌緘瓦の役割を担わせたのです。ここから大本鉉(おおもとつる)まで450尋(約675叩砲魍発しあわせて新しい鉱脈に切り当たることも狙いました。大本鉉がどの位置にあるのか筆者にはわかりませんが、450尋掘り進んだとなると仙ノ山地底の奥深くまで掘ったものと思われます。

 

 果せるかな、この新たに開発された間歩は諸間歩の排水を可能にしたばかりでなく、思惑どおり幾重もの鉱脈に切り当たり、銀山全体で産銀量の増加をもたらしました。現在この間歩の上方に蔵本坑、福神山間歩などの間歩を目にすることができます。それらの坑内からも新切間歩に地下水道でつなぎ水を抜きました。

 

 この間歩は二重穴構造となっていて現在見えている坑口は「水道」と表示されていますから、実際にはもう一本本坑に相当する坑口(大切四ツ留)が付近にあるのですが、発見に至っていません。現在は坑口付近で水の排出が確認できないので、この間歩は水抜き目的としてはもはや機能していないと言えます。(Ng)

                 新切間歩の内部

| ガイドつれづれ日誌 | 00:23 | comments(3) | - |
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コメント
 筆者(Ng氏)、休谷の「新切間歩」について紹介しておられます。
 そして、筆者は、『「新切間歩」は、休谷にあって、標高約170鍛賄世龍篁垣遒里垢伊気帽8が開いていて南進しています。この間歩が休谷〜大谷では最も標高の低い地点に掘られたものといいます。』と記し、さらに、『他の間歩の30〜45嘆爾鮑侶,垢襪海箸如∪腑了柿澗里凌緘瓦の役割を担わせたのです。』としるし、新切間歩の果たした役割を明示しておられます。

 私が推察するに、標高170メートルの銀山川と同じ標高で掘り始めた、ということは、坑内で発生した水を、銀山川に流すのには適していたのではないか、と思います。
 つまり、銀山川の標高より高ければ、排水された水を再度汲み上げて、川に流さなければならないし、他方、低ければ、銀山川が梅雨開け直前の大雨であふれ、その川の水が坑内に流れ込む恐れがあるからです。

 次に、筆者(Ng氏)は、『(新切間歩を掘るについては、水抜きのほか) 大本鉉(おおもとつる)まで450尋(約675叩砲魍発し、併せて新しい鉱脈に切り当たることも狙いました。』としるし、さらには、『この新たに開発された間歩は、諸間歩の排水を可能にしたばかりでなく、思惑どおり幾重もの鉱脈に切り当たり、銀山全体で産銀量の増加をもたらしました。』と記述しておられます。

 私が思うに、休谷より、450尋(約675叩砲盞,蠖覆鵑世箸覆襪函∪腑了鈎歪譴留深くまで掘ったわけで、これは坑夫さんたちにとっても相当な労力がかかったことが推察されます。
 但し、新切間歩という、一筋のしっかりした水抜き用の間歩があったからこそ、掘り進めるうちに、あちこち試掘ができ、幾重もの鉱脈にぶち当たることができたのではないか、と私は推察します。

 もっとも、筆者(Ng氏)が、『思惑どおり幾重もの鉱脈に切り当たり』と記しておられますが、新切間歩を掘り進める前から、排水効果のみならず、新しい鉱脈にぶつかりうるという可能性を確信していたとしたら、それは過去の鉱脈の、縦・横・高さの「三次元」絵図から、事前に、新鉱脈の位置を見通していた、ということになるのですが……。

 江戸中期(正徳5年=1715)の代官である、鈴木八右衛門重政は、知行高は150石でした。
 初代奉行の大久保長安の2万石や、第二代奉行の竹村丹後守の1,000石に比べれば低いと思われます。

 芋代官で有名な井戸平左衛門代官は、在任二年で備中笠岡にて、亡くなられました。
 新切間歩を掘られた、鈴木八右衛門代官は、在任三年で、やはり石見にて、亡くなられました。

 人は誰でも、自分と家族が食べるために働きます。
 でも、石見銀山代官所には、己れ自身の出世のためだけでなく、領民のために尽くされた代官がおられたことを、私自身は誇りにしたいと思います。
| 沢村俊介 | 2020/09/14 2:42 PM |
 コメント、有難うございました。
 私のこの一連の記事は、これまで発表された記録、史料を基にレポートしていますが、一方でいろいろな疑問を感じながら書いているのも事実です。

 ご指摘の新切間歩の坑口の位置ですが、確かに銀山川の平常水面からわずか2〜3辰旅發気靴ないところに設けられています。増水時にはどうするのかという疑問もその一つです。当時どういう事情があったのか、どういう考え方であの位置に決めたのか私も知りたいところです。

 代官鈴木八右衛門の知行高は200俵だと思います。この知行高の低さもその職責の重さから考えると、なかなか理解しがたいですが、石見銀山に来た代官はだいたい150俵前後が多かったようです。井戸平左衛門も150俵でした。最も低い人は、第41代勝田次郎充でなんと20俵3人扶持でした。
 当時幕府の「勘定」の家禄水準とのバランスが必要で、本人たちの受け止め方は今私たちが受ける印象とは少し異なるのかもしれません。当時旗本は150俵で「御目見」となったようですから、そのあたりも考慮して判断する必要があるかもしれません。

 もう一つの私の疑問は、新切間歩が鉱脈にあたったといいますが、標高170辰膿緤森F擦魴,辰燭箸垢譴弌△修里△燭蠅隆霹彜笋狼徑層のはずです。久利層に鉱脈が形成されたのかという疑問があります。
 しかし、仙ノ山の地底は単純ではなく、あの標高にも仙ノ山溶岩の噴出物があったりデイサイトが複雑に貫入して鉱脈を形成していて、それに当たったということかもしれません。
| Ng | 2020/09/14 7:55 PM |
 上記において、私は、「銀山川の標高より高ければ、排水された水を再度汲み上げて、川に流さなければならない」と書いておりましたが、「銀山川の標高より高ければ、排水された水を、滝のように上から、川に流さなければならない」と、お詫びし、訂正いたします。

 ところで、筆者(Ng氏)は、「代官鈴木八右衛門の知行高は200俵だと思います。」と書いておられます。

 江戸時代の武士の収入には「石」と「俵・扶持」の表記がありますが、領地を与えられてそこから収納する石高の年貢を収入とする、上・中級階層の武士が「石」で表され、一方、領地を持たず、米の現物支給を受ける軽輩の武士の収入が「俵・扶持」で表されたようです。

 例えば、石見銀山代官所に務める同心は、軽輩の武士の中に入り、15俵2人扶持をもらっていた、とも聞きます。
 もっとも、テレビの時代劇などに登場する、江戸の北・南町奉行所に務める定廻り(じょうまわり)同心は、30俵2人扶持だったようですが、それはやはり江戸の町の方が、山陰道の石見地方より物価が高かったからでしょう。

 それでは、次に、上・中級階層の武士の収入を考えてみます。
 例えば、天領の税率が「四公六民」だったとすれば、知行1石(=10斗)からは、税金として、4斗を公に納め、6斗が武士の収入となります。

 江戸時代の1俵は、おおむね2斗から5斗の間で、時代・土地ごとに異なり、例えば幕府は1俵を3斗5升としたが、加賀藩の1俵は5斗であったようです。
また、そもそも俵自体にも、4斗俵や6斗俵などいろいろなサイズがあって、規格が一定していなかったようで、俵が単位として統一されたのは明治時代になってからで、このとき、一俵は4斗と定められたようです。

 そこで、仮定計算をします。つまり、一俵は4斗と、仮りに置きます。
 知行高が150石(=1500斗)としても、税率が「四公六民」なので、代官の鈴木八右衛門は、そのうちの4割の600斗は幕府に納め、6割の900斗が自らの収入となります。
 つまり、900斗の手取り収入は、225俵ということになりそうです。
| 沢村俊介 | 2020/09/15 11:57 AM |
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