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まだまだわからん石見銀山 第51話 龍源寺とはどんな寺か

 龍源寺間歩の名前の由来である龍源寺。付近にそのような寺院があったと思われますが、実はそのお寺についてはよくわからないのです。どの場所にあったのか、何宗に属していたのか、だれが創建したのか、いつまで存在したのかなど記録に残っていません。『石見銀山百ヵ寺』(三瓶古文書を読む会、1995)にも出てこない謎のお寺です。

 

 しかし、古い時代から龍源寺上墓地という場所があったようなので、そのようなお寺が存在していた可能性は高いと思います。龍晶寺、龍澤寺という曹洞宗のお寺が存在したように、「龍」が付く寺院の名前から推測すれば、龍源寺は禅宗系の寺院だったのでしょうか。よくわかりません。

 

 ちょっと話は逸れますが、江戸時代には寺請檀家制度が布かれ、各地各集落に寺が存在していて人々の日常とよく結びついていました。また寺には宗門人別帳が備えられ、今の戸籍に相当する檀家の戸別住民明細が登録されていました。今では葬儀だけでお世話になる寺院ですが、江戸時代には葬儀、法要だけでなく、檀家各戸の身元の証明、旅手形(≒パスポート)の発給などの住民管理や、寺子屋など住民の教育指導などに活躍していたと思われます。

 

 なお、江戸時代、佐渡金銀山では江戸から移送された「無宿人」が就労していたと言われますが、この無宿人とはいわゆるホームレスのことではなく、故(ゆえ)あって地方地元の宗門人別帳から抹消されて江戸に出て来た人々のことでした。

 

 話を戻して、大谷にも多数の住民がいたものと思われ、高橋家より西にも西善寺、本経寺、徳善寺、上徳寺、荒神寺など少なくとも5寺が古地図に残っています(古地図にはないが、龍源寺を加えると6寺)。(Ng)

| ガイドつれづれ日誌 | 00:27 | comments(3) | - |
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コメント
 Ng氏は、上記に、『今では葬儀だけでお世話になる寺院ですが、江戸時代には葬儀、法要だけでなく、檀家各戸の身元の証明、旅手形(≒パスポート)の発給などの住民管理や、寺子屋など住民の教育指導などに活躍していたと思われます。』と、しるしておられます。

 令和の現在、都会地では、葬式や四十九日の法要までは、各家族で行われるにしろ、初盆・一周忌・三周忌・七回忌などになると、色々な宗派の垣根を超えて、合同葬としてみんなが集まり、法事が執り行われているようです。

 江戸期の頃は、やはり、葬儀・法要、あるいは浄土真宗などでは報恩講なども各家庭で個別に行われていて、寺院の財政基盤はあったのかな、と私は思います。

 令和の現在、新型コロナの関係の経済対策の一環として、国から個人へ特別給付金が給付されましたが、これには、例え、「マイナンバーカード」を持っている人がネットで申請をしても、市役所や町村役場の職員の方々が、「住民基本台帳」と照合した上で、支給されたと聞きます。
 
 つまり、江戸時代に、寺院がこうした市役所の市民課のような仕事をしていたとすれば、奉行所・代官所から寺院に、補助金が支給されていたのかもしれません。

 令和の時代、島根県には、島根県パスポートセンターがあるようです。
 また、島根県庁パスポート窓口と東部県民センター雲南事務所以外に、一部地域ではパスポートの発券業務を市町村への権限移譲を行っており、各自治体でパスポートの申請・受取の窓口が開設されているようで、これら自治体には事務の委託費が出ているのでしょう。

 ところで、江戸初期には、宣教師などによって、この日本にも、活字印刷の技術がもたらされたようで、一般庶民まで本を読む機会がもたらされたようです。だから、子どもたちもお寺に通い、お坊さんからひらがな・漢字などの文字を習ったのでしょう。

 そうしてみると、私には、江戸期における寺院の役割は大きかったのだ、と思われます。
| 沢村俊介 | 2020/08/03 2:31 PM |
 江戸時代の寺院と民衆の生活との係わりについて述べたつもりでしたが、一方で不可思議な(筆者にとって)事実もあります。

 明治6年に出された政府からの御触れに「自葬を禁じ、神官又は僧侶に託すべし」とあります。自葬とはどういうことなのかはっきりしませんが、とにかくそれまでは神主さんやお坊さんが関与しない埋葬が行われていたと思われます。

 これはどの地方のことを言っているのかわかりませんが、こういうこともあったということ、つまり物事は単純ではなありません。江戸時代の葬儀の実情は多様で、調べると奥が深いようです。
| Ng | 2020/08/03 7:14 PM |
 筆者のNg氏は、上記に『明治6年に出された政府からの御触れに「自葬を禁じ、神官又は僧侶に託すべし」とあります。自葬とはどういうことなのかはっきりしませんが、とにかくそれまでは神主さんやお坊さんが関与しない埋葬が行われていたと思われます。これはどの地方のことを言っているのかわかりませんが、こういうこともあったということ、つまり物事は単純ではありません。江戸時代の葬儀の実情は多様で、調べると奥が深いようです。』と述べておられます。

 さて、以下は私の個人的な所見です。
 令和の現代においては、氏子が少なくなって神社の経営が苦しくなり、また、檀家が少なくなってお寺の経営が苦しくなっていると、私は思います。
 神社にしろ、寺院にしろ、建物としては普通の民家より大きく、屋根瓦・壁の修復など、その建物維持にもお金がかかることでしょう。

 ところで、神社はそれこそ、その地域に住む人々が執り行う「お祭りの中心」にあったと思います。
 確かに、1945年の太平洋戦争終結後、アメリカのGHQは、極端な天皇と神道への崇拝が、戦争に突き進む要因になったとして、国と神道との分離を目的として、「神道指令」を出したようです。これにより、公務員として身分が保障されていた神職は失職し、神社廃止案も出たそうですが……。
 
 私個人としては、少なくとも昭和の時代までは、神社そのものの存在が、地域社会に住む人々の心の安寧や、その地域の産業の発展・安定などに、寄与していたように思います。
 
 江戸期の石見銀山において、狭い穴の中で岩石を削って、銀鉱石を採取する仕事では、粉塵を吸って、肺の中にそれらの粉が溜まり、「気絶え」(じん肺)という病気で、働き手の男性は三十歳くらいで亡くなったと聞きます。

 それに、じん肺の場合は、進行癌や脳卒中のように病に罹ってあまり期間を置かずに亡くなるというよりは、多少の療養期間を置いて亡くなるということが多かったろうと推察するのです。
 というのも、じん肺にかかった者の療養援助のため、代官所から、お米や味噌の支給があった、と聞くからです。

 江戸期の当時としての平均寿命よりは早く、しかも、家族が介護をしつつも、その甲斐もなく、肉体的な苦しみと戦いながら亡くなっていった人々がいたとすれば、家族としては、死直後の弔い、死者たちのあの世での魂の安寧を願わざるを得ず、お寺さんを頼りにするところは、令和の現代よりずっと大きかったのではないかと、私は推察するところです。
| 沢村俊介 | 2020/08/04 11:07 AM |
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