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まだまだわからん石見銀山 第50話 龍源寺間歩はいつごろ掘られたのか

 龍源寺間歩:間歩番号500番。江戸時代には代官所の直営で「五ケ山」の一つと言われました。代官所にとっても重要な間歩だったのでしょう。明治期にも引き続き採掘され、大正12年の休山まで供用されていました。

               龍源寺間歩坑口

 

 明治期の写真を見ると、坑口前には建物があります。何をした建物だったのでしょうか。江戸時代には坑口前に四ツ留役所が置かれていました。坑口に向って右側には役人の詰所があり、左側には鏈置場(くさりおきば=鉱石を保管する小屋)がありました。詰所には山方掛3人、同心1人、山附(やまづき)などの役人が詰めていて、坑内作業を監督し夜は山方掛1名が宿直して見張りは厳重だったといいます。

 

 案内板には「江戸中期」(正徳5年=1715)に開発されたと書いてありますが、正しいのでしょうか。もっと早い時期に開発されたのではないかと思います。なぜなら、『銀山古事覚書』(山中家文書)に元和9年(1623)のこととして、「先年柑子谷主税横合水道切抜高御運上請候間歩七口之事」に「銀千三百枚 大谷龍玄寺山(ママ)」とあります。これは運上として幕府に納められた鉱石を製錬業者に売却した代金を言っています。つまり、柑子谷から水抜き用に主税横相坑道を開削した結果、龍源寺間歩からこのような銀鉱石が売却できたとするものです。したがって、江戸初期から稼動していて、相当量の銀の産出があったことがわかります。

 

 『元禄四年万覚書』にも元禄4年(1691)ごろ「龍玄寺山」と記述されており、清水源左衛門が山主で、行地(奥行き)180尋(約320叩法敷下(下方への採掘)45長だとなっています。そして寛文6〜7年(1666〜1667)ごろが大盛りで、前年(1690)から運上不能という報告も付されています。

 

 その後開発が進み、現在では奥行き600辰凌緤森F擦箸覆辰董△修留で中瀬鉉、佐藤鉉に届きました。さらにその鉉(つる=鉱脈)に沿って100嘆縞にあった永久坑道に向って垂直方向に掘られました。その垂直開削距離は約400叩この間歩の標高が海抜200辰舛腓辰箸任垢里如底部は海面よりはるかに低いということになります。

 

 現在では坑口から160辰泙埜開されています。その先193鍛賄世罵酥廚砲茲衒頂匹気譴討い襪箸。(Ng)

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コメント
 Ng氏によれば、『江戸時代には坑口前に四ツ留役所が置かれ、山方掛3人、同心1人、山附(やまづき)などの役人が詰めていて、坑内作業を監督し夜は山方掛1名が宿直して見張りは厳重だった』ということです。

 故・石村勝郎氏の著作にて、私は、『石見銀山領の重要な場所には、口留番所(=駐在所のようなものか)が置かれ、そこに詰めていた役人たちが、灰吹銀の抜け売り監視や、番所を通過する商品に掛けられる運上金(=税金)の取り立てに当たっていた』ことは知っておりましたが。

 坑道の入口(=四つ留)にも、代官所の支所のようなものが置かれ、役人たちはそこに詰めて、坑道から運び出された銀鉱石が盗難に遭わないよう監視していたのですね。

 次に、Ng氏は、『元禄4年(1691)ごろ、龍源寺間歩は「龍玄寺山」と記述されており、行地(奥行き)180尋(約320叩法敷下(下方への採掘)45長だとなっています。……(中略)……その後開発が進み、現在では奥行き600辰凌緤森F擦箸覆辰董△修留で中瀬鉉、佐藤鉉に届きました。さらにその鉉(つる=鉱脈)に沿って100嘆縞にあった永久坑道に向って垂直方向に掘られました。その垂直開削距離は約400叩この間歩の標高が海抜200辰舛腓辰箸任垢里如底部は海面よりはるかに低いということになります。』と書いておられます。

 中瀬鉉・佐藤鉉などに沿い、100嘆縞にあった永久坑道に向かって垂直方向に掘られた時点で、仮に、その縦穴と永久坑道とが交わったのなら、そこまでの地下水は、山すそから水平に掘られた横相掘りの永久坑道を通して、排水することも可能だったかもしれません。

 しかし、『その垂直開削距離は約400叩戮箸△蠅泙垢ら、永久坑道から下の300辰凌眥廠削穴において湧き出た地下水はどのようにして、外へ運び出したのでしょうか。
 
 明治時代頃ならば、地下水を電気ポンプで永久坑道まで吸い上げ、そこからは水平に走る永久坑道を通して、外に排水する、というようなことも可能だったかもしれませんが……。
 
 しかし、電気モーター式のポンプがない江戸時代であれば、竹の中の節をくり抜いた竹筒の中に、差し棒を通し、手動でそれを引き上げることによって、地下水を上へと吸い上げる、水吸い揚げ機(=排水ポンプ)を使用するしかなかったのでしょうか。
| 沢村俊介 | 2020/08/01 4:09 PM |
 私なりの理解の中でお答えします。間違っていればどなたか訂正してください。

1)口留番所と四ツ留番所とは異なります。口留番所は銀山「柵の内」境界の要所に置かれたもので、柵の内とその外との出入りを管理しました。四ツ留番所は御直山の坑口に設けられ坑内の出入りを管理しました。

 四ツ留番所は、出入りの管理のほか鏈分けの業務を担っていました。つまり、運上(納税)を鏈(くさり=鉱石)で行ったケースがあって、そのための分別業務と鏈の保管をしていました。

2)龍源寺間歩の奥で400嘆縞に掘っていますが(当然永久坑を突き抜けた)、そこまで掘り下げたのは明治期だと思います。しかし、江戸時代には100嘆爾留糞弭には届いていました。江戸時代に永久坑標準以下どこまで掘ったのかは私にはわかりません。

3)永久坑標準以下の採掘には排水問題が出てきます。電動ポンプなどを使う揚水ができなかった江戸時代には、人力で排水したにせよ当然そこには限界があったものと思われます。したがって、永久坑標準以下はあまり掘り下げていなかったのではないかというのが私の推測です。

 永久坑の構造や採掘実態については、この後第61話「永久鉱床」と第72話「永久坑」で詳しく説明します。
| Ng | 2020/08/01 8:53 PM |
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