<< August 2020 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

カテゴリー
最新の記事
最新のコメント
最新のトラックバック
月別の記事
リンク
サイト内検索
その他
美味しんぼ 109 (ビッグ コミックス)
美味しんぼ 109 (ビッグ コミックス) (JUGEMレビュー »)
雁屋 哲
著名なグルメ漫画に『日本全県味巡り 島根編』が登場しました。石見の食の幸も色々紹介されています

国銅〈上〉 (新潮文庫)
国銅〈上〉 (新潮文庫) (JUGEMレビュー »)
帚木 蓬生
天平の世、大仏造営の命を受けて奈良へと旅立つ青年の苦難の人生を軸に、当時の人々の生き様が素朴で力強く描かれた良書
SPONSORED LINKS
MOBILE
qrcode
<< 「Go To トラベル」キャンペーン | main | ガイドがオススメ >>
まだまだわからん石見銀山 第48話 間歩の掘り方(二)

 坑道の形状も時代によって変化が見られるといいます。久間英樹氏(松江高専教授)の研究では、坑道の断面は戦国時代以前には「三角型」だったが、その後戦国時代から江戸時代にかけて「かまぼこ型」になり更に江戸時代以降は「矩形型」になったと発表されました。

 

 坑道の大きさは、戦国時代、近世とも横は0.5〜0.8辰箸箸討盒垢、また標準的な高さも0.5〜1 辰曚匹反佑一人やっと通れるほどの細長いものでした。江戸時代の石見銀山の間歩も同様で、高さは3〜4尺程度のものが多く、江戸時代の人々の身柄が歴代で最も小さいといっても立って進めなかったと思われます。

石銀地区の住居遺構。画面中央に1号間歩がある(前面に柵があるところ)。久間教授によれば、この間歩(1500年代中期採掘)は高さ0.9叩

断面形状:三角形、平均斜度-35度の𨫤追掘斜坑だという。

 

龍源寺間歩の坑道。江戸時代の採掘なので断面形状は

矩形型である。

 

 そうなると、坑内の往来に支障をきたし生産性が落ちます。どうしてそんな小さな坑道なのか疑問が残ります。もちろん坑道を拡げればその分採掘コストがかかります。もっとも、坑内を立ってぶらぶら歩く者などいなく、どの坑夫、運搬人とも鉱石や灯火など何かを背負ったり持ったりしながら前屈みで進むのでそれで十分だという考え方だったのでしょう。明治以降の近代になると、発破工法が主流になったため横5尺×縦7尺の矩形断面形状に移行しました。これには坑道内に鉱石運搬用のトロッコを導入したこととも関係しているでしょう。

 

 坑道の傾斜は基本的には排水を考慮して水平ないしやや前上がりに掘り進んでいます。もちろん採鉱条件によってマイナスの傾斜角を持った坑道も多いのが実情です。

 江戸時代以前の採掘手段は手掘りでした。火薬や削岩機を導入して採掘するのは明治期以降のことです。それでは、一日どの程度掘り進んだのかということですが、掘り進む断面積によりますが、だいたい1尺程度ではなかったかと言われています。これは、江戸時代に代官所が間歩の採掘入札に際して見積り用に山師たちに提示した条件です。もちろん岩盤の固さや出水事情、鉱石の含有実態によって変わったものと思われます。

 

 江戸時代の採掘作業は五交替を基本に設定されていました。これも繁忙状況と労働の需給関係によって柔軟に運用されたものと思われます。また、江戸時代後期の作業者の勤務事情を見ると毎日採掘作業に就労しているのではなく、適宜休日をはさみながら作業させていたこともわかります。また、坑夫は採鉱を専門に担当していたのではなく、鉱石の運搬を担当することもあったようです。もちろん上記のように鉱山の繁忙状況や就労者人数などによって変わることは当然ですし、作業の種別によって支払う賃金を変えたことも事実です。

 

 江戸時代の坑内(「敷内」)で働く坑夫(「稼人」)の種類をまとめると、銀堀、手子、柄山負、入手となります。銀堀は「堀子」とも呼ばれ坑道を掘り、切地では鉱石の採掘に従事しました。手子は10歳前後の子供で、坑内と坑外との連絡や銀堀の呼び出しなどの雑用を行い、柄山負もまた主に12歳前後の子供が従事し荷(鏈の叺)・柄山(廃石の叺)を背負い坑外へと運び出しました。入手は文字通り鏈(くさり=鉱石)や廃石を叺(ダツ=かます)という袋に入れる作業を担当しました。(Ng)

| ガイドつれづれ日誌 | 00:26 | comments(1) | - |
スポンサーサイト
| - | 00:26 | - | - |
コメント
 『江戸時代の石見銀山の間歩も同様で、高さは3〜4尺程度のものが多く、江戸時代の人々の身柄が歴代で最も小さいといっても立って進めなかったと思われます。』
と、筆者(Ng氏)は書いておられますが。
 
 深川江戸記念館で、江戸時代の男女の実物大に作られた人形を見たことがあります。江戸時代の人は、今より背が低かったのだと思った記憶があります。ちなみに江戸期において、男性の平均身長は155cmだったようです。
 
 現代の家では、天井が高くて、いい環境ですが。江戸期では、丁稚奉公に入ると、商家の二階から梯子階段で屋根裏に上がり、そこが丁稚たちの部屋だったようです。ここは多少の広さはあっても、丁稚三人が雑魚寝。しかも天井は低く、4尺(1.2メートル)もなかったようです。

 『江戸時代の坑内(「敷内」)で働く坑夫の中で、手子は10歳前後の子供で、坑内と坑外との連絡や銀堀の呼び出しなどの雑用を行い、柄山負もまた主に12歳前後の子供が従事し、荷(鏈の叺)・柄山(廃石の叺)を背負い坑外へと運び出しました。』
と、書いてありますが、江戸期には、大工・左官になる場合、そこの小僧にしてもらえるのは12歳くらい。商家の丁稚奉公に入るにしても12歳くらいから。いわば、現代で言えば小学校6年間を卒業したらすぐに働きに出るのだから、昔の子どもたちは大変だったのだと思います。

 『入手は文字通り鏈(くさり=鉱石)や廃石を叺(ダツ=かます)という袋に入れる作業を担当しました。』と上記にありましたが、「入手」のことは、はじめて私は知りました、ありがとうございました。
| 沢村俊介 | 2020/07/24 11:41 AM |
コメントする