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まだまだわからん石見銀山 第43話 大久保長安の処断理由 続きの続き

 最後に、に堵神癲

 大久保長安の妻は信長の家臣であった池田家につながる人でした。長安の息子も池田家、石川家、伊達家などにつながる人を妻に迎えていました。また長安自身も家康の六男松平忠輝の家老職(「附家老」)を勤めるなど忠輝に近い位置にいたと言われました。

 

 長安が死去する慶長18年(1613)ころはまだ徳川家の政権基盤が安定していたとはいいがたく、家康は依然として織田・豊臣の残党勢力をかなり警戒していたと言われます。また家康は六男忠輝を敬遠していたばかりでなく、長安が忠輝を通じて伊達氏や青山氏と姻戚関係を結ぶことにも快く思っていなかったと思われます。慶長年間という豊臣系大名に対する警戒がまだ必要な時期において、このような長安の系譜は家康において大きな危惧を抱かせたと思われます。

 

 一方長安は石見、佐渡、伊豆での鉱山支配によりその財力は極めて大きなものでした。また各地に領地があり、そこに代官・手代・下代といわれる膨大な人数の同志的な配下を持っていました。いわば一国の大名に相当する(あるいはそれ以上の)実力がありました。家康としてはそれらがもし豊臣政権の残党と結託すれば大変なことになると真剣に考えていたと思えます。

 

 また代官頭という強力な権限をもった江戸初期の職制は次の秀忠に継承する将軍政治のためにはやがて克服されるべきものだと家康は感じていました(長安以外の代官頭も次々に失脚や改易等の処分にあっている=長谷川長綱病死、彦坂元正失脚、伊奈忠次病死。長安も病死だが、家康としてはその長男藤十郎に代官頭職を継がせたくなかった)。

 

 長安は確かに功臣ではあるものの、家康は晩年の長安に対して少なからぬ警戒の念をも持っていたと思います。うがった見方をすれば、そのため家康は近くで監視する目的を含めて長安を自分の足元の駿府に住まわせていた、その後何らかの情報に接して(それが事実なのか否かにかかわらず)その死に際して果敢に処断に踏み切ったものと思えます。謀反の疑いとなれば、即刻葬儀を中止させるだけでなく一族の抹殺排除を容認したことも説明が付きます。(Ng)

                徳川家康像

| ガイドつれづれ日誌 | 00:35 | comments(2) | - |
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コメント
 筆者は(Ng氏)は、『大久保長安が死去する慶長18年(1613)ころはまだ徳川家の政権基盤が安定していたとはいいがたく、家康は六男忠輝を敬遠していたばかりでなく、長安が忠輝を通じて伊達氏や青山氏と姻戚関係を結ぶことにも快く思っていなかったと思われます。慶長年間という豊臣系大名に対する警戒がまだ必要な時期において、このような長安の系譜は家康において大きな危惧を抱かせたと思われます。』とし、大久保長安の謀反説に言及しておられます。

 大久保長安の死後、長安に謀反の疑いをかけ、葬儀を中止させるだけでなく一族の抹殺排除を家康は容認したと、私もそう思います。

 大久保家の粛清については、色々な要因があったにせよ、徳川家康が長安の謀反を警戒したゆえに、という理由が最も大きかったのではないか、と私は考えます。

 家康は、建前はどうであれ、豊臣秀頼を例えば紀州に移封し、10万石程度の一大名とすることにも、内心反対をしていたと思います。
 やはり完全に豊臣家を抹殺しておかねば、徳川政権の今後の安定的発展は危ぶまれると、家康は考えていたと私は推量します。

 例えば、江戸の末期から明治維新にかけての頃、徳川家15代将軍の徳川慶喜は大政奉還をし、上野の寛永寺に謹慎し、薩長軍に恭順の意を表わしました。
 しかし、薩長としては、例えば慶喜を水戸か駿府等に移封し、一大名として処遇することは考えていなかったのではと思います。つまり、明治政府は、徳川家の勢いは完全に封じ込めるつもりであったように、私は推測します。

 権力の奪取ということは、それほどまでに凄まじいものだ、というのが私の考えです。
| 沢村俊介 | 2020/07/06 11:33 AM |
 私たちは過去の出来事の結末を知っています。とかくその前提で歴史を見る傾向にあります。しかし、その展開の最中にあった当事者の胸中は全然違うと思います。同じことが慶長年間の家康にも言えるでしょう。

 慶長20年(1615)に大坂夏の陣が起きて、結果として豊臣家は滅びました。しかし、それまで全国には豊臣恩顧大名に加えて、改易で主家を失った牢人がごまんとおり、西日本には禁教の強化で苦しむキリシタンの存在など騒乱の火種はくすぶっていました。つまり、徳川政権は決して盤石ではありませんでした。

 そのような不穏な状況下で、豊臣系の諸大名たちがもし長安を担ぐようなことになれば、どうなるのかわからなかったでしょう。当時の長安の実力と一連の挙動は、たとえ長安自身がどのように思っていたのかは別として、家康には大きな不安を抱かせるには十分だったと思われます。

 よって、彼の死を契機にして一挙にその不安解消の挙に出たものと思います。家康はそれからまもなくの慶長19年に京都方広寺の鐘の銘文に言い掛かりを付けて、いよいよ豊臣本体の殲滅に取り掛かりました。
| Ng | 2020/07/06 7:20 PM |
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