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まだまだわからん石見銀山 第39話 大久保長安の行政能力

 大久保長安にはいろいろな事績があります。石見銀山や佐渡金銀山、伊豆金山で大きな功績を残したことが有名ですが、筆者は彼の行政能力についても高い関心を持っています。具体的に何をしたのか筆者が理解できている訳ではありませんが、その後の家康から受けた処遇から察すると、成功裡に成し遂げたのだなと思います。

           大久保長安像

 

 その一つ二つを紹介しますと、まず1582年(天正10)武田家の蔵前衆(代官に相当する在地支配職)だった長安は武田氏が滅亡した後、家康に召し抱えられて甲斐の民政担当となっています。いわば武田家の遺臣として戦後処理を命ぜられ適格に遂行しています。これは敗戦処理ですので、決して容易なことではなかったと思います。

 

 もう一つは、それから8年後の1590年(天正18)今度は家康の関東入国に従って関東代官頭(の一人)となっています。これも難しい仕事だったと思います。検地を成功させたことが後の記録に残る訳ですが、大名の入国とはそれまでいた領主の所領を取り上げて、今度は入国に付き添った家臣にそれをうまく配分するという仕事(いわゆる「関八州の知行割」)を伴ないます。取り上げられる側、新たに「あてがわれる」側とも、当事者には生死とその後の命運がかかっています。配分される領地の場所、配分割合など利害が真っ向から対立して、おそらくそれを指揮した長安は関係者から大きな恨みをかっただろうことは容易に想像できます。もちろん長安だけでやったのではありませんが、彼はその実行責任者の一人でした。

 

 それやこれやをうまく処理したが故に、1601年(慶長6)石見銀山の支配を任され、更には1603年(慶長8)には佐渡金銀山の支配を加えられた。そして、同年従五位下石見守に任ぜられたのだと思います。(Ng)

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コメント
 筆者(Ng氏)は、『大久保長安の行政能力についても高い関心を持っています。具体的に何をしたのか筆者が理解できている訳ではありませんが、その後の家康から受けた処遇から察すると、成功裡に成し遂げたのだなと思います』と書いておられます。

 そして、その分析として、筆者(Ng氏)は、『まず1582年(天正10)武田家の蔵前衆(代官に相当する在地支配職)だった長安は武田氏が滅亡した後、家康に召し抱えられて甲斐の民政担当となっています。いわば武田家の遺臣として戦後処理を命ぜられ適格に遂行しています。これは敗戦処理ですので、決して容易なことではなかったと思います』とも上記にしるしておられます。

 以下、筆者には大変失礼ながら、作家・齋藤吉見氏の書かれたものから、簡易引用したものを書かせていただく次第であり、平にご容赦願いたい。

 天正10(1582)年3月、武田勝頼が亡くなる。同年6月には、本能寺の変で織田信長が亡くなった。

 甲斐の国において、領主であった武田氏が滅びてからは、織田の武将であった河尻秀隆が甲斐の領主になっていたが、後ろ盾の信長が亡くなり、領内の農民一揆に苦しんでいた。 この農民一揆の背後には駿河の北条氏政がいて、とうとう河尻秀隆は甲斐の国を逃亡せざるを得なくなった。
 
 そこで、徳川家康は、支配者がいなくなった甲斐の国に、徳川家譜代の大久保忠隣(ただちか)を送る。この大久保忠隣(=30歳)を支えたのが、元・武田氏の猿楽衆・蔵前衆であった大久保長安(=38歳)であった。
 
 織田信長は、徳川家康に「武田勝頼の遺臣、武田の残党は漏れなく殺せ」と厳命していたが、家康は能力のある人物は生かして使いたい、と思っていた。
 
 大久保長安は、武田氏の支配下にあった地方について、よく知っていた。
 ゆえに、大久保長安は甲斐の国の武士団を破壊せず、武田時代の組織や機構を利用しようと心がけた。そして、そのことが、甲斐の武士の上級から下級、さらには地侍までが、自らの土地の面積と年貢の量を進んで申告する、というきっかけとなり、徳川家康は長安の行政実務に一目置くことになったのである……。
| 沢村俊介 | 2020/06/22 12:26 PM |
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