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まだまだわからん石見銀山 第37話 南蛮貿易がもたらしたもの

 石見銀山産の銀が輸出された南蛮貿易の副産物として、ポルトガル人を通じて鉄砲が伝来したこと、また宣教師の来航によってキリスト教の布教が始まったことは有名です。またコンペイトウやカステラ、カルタが日本に入ってきたこともよく知られています。

            F. ザビエル

 

 日本を含めてそれまでの東アジア社会は西洋のことを知りませんでした。ヨーロッパ側も、東洋の事情はマルコポーロが書いた以上のことは知りませんでした。大航海時代になりポルトガル人の手で日本の銀が輸出されると、多くの西洋人が来航し東西の交易が始まりました。いわば、石見の銀が西洋と東洋の間にあった扉を開きました。石見銀山は東西の交流の媒体としての役割を果たしたのです。

 

 ポルトガル人によって、ニンジン、ジャガイモ、薩摩芋、かぼちゃなどの新しい食べ物が日本に入り日本人の食生活の変革をもたらしました。またメガネや望遠鏡が入り日本人に新しい視界が開けました。信長は宣教師から地球儀の献上を受け世界を知りました。西洋の医術も入りました。

 

 先に鉄砲のことに触れましたが、それでは鉄砲に使われた火薬はいつごろ日本に入ったのでしょうか。当時の日本の工芸技術水準からして鉄砲は日本で容易に複製できたといわれていますが、火薬の加工技術はどうだったのでしょうか。その後日本国内の戦の形態が激変した訳ですが、この火薬の技術についてはいつどのように入ってきたのかについてはあまり着目されていません。研究があると思われますので、明らかにしてほしいものです。なお、火薬の原料の一つである硝石は中国からの輸入に依存した訳で、毛利元就は石見銀山の銀と交換に硝石を手に入れたことがわかっています。

 

 ただし、この南蛮貿易はこうしたプラス面だけでなく、タバコの導入や梅毒の浸入という負の面もあったことも事実ですし(註)、歴史には表裏があるということを知っておくべきだと思います。(Ng)

 

 (註)梅毒が日本で初めて流行したのは1512年だったと言われています。つまり、梅毒は南蛮貿易が始まる以前に日本に入っていた可能性があります。しかし、その来源はやはり大航海時代の西洋でした。

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コメント
 戦国期において、ジャンク船に乗って日本にやって来た明の商人たちが、三国の港に入り、鉄砲50挺、火薬10樽、鉛20箱を、越前の大名朝倉義景に売ったという記録があるようだ。
(その記録の書物は、「朝倉始末記」というらしいが、私は直接読んでいない。)
 
 とすれば、最初の頃は、原材料の硝石単品ではなく、硝石・硫黄などを混ぜた火薬そのものを買っていたと思われる。
 
 その後、火薬の原材料となる硝石は、ポルトガル商人もしくは中国の明の商人から買い、硫黄や木炭は国内のものを使ったのかもしれない。
 つまり、池上裕子氏が言われるように、硝石は当時、国内では採掘されず、タイやベトナムでしか採掘されていなかったらしいからである。

 黒色火薬の材料は、硝石、硫黄、木炭であり、かつ、その調合の割合率は、硝石75%、硫黄10%、木炭15%であったようだ。
 文献を見たわけではないが、こうした火薬の原材料及び混合率というものは、ポルトガルの宣教師たちか、もしくはジャンク船に乗り込んでいた明国の商人たちから、日本に、もたらされたのではないかと私は推測している。
| 沢村俊介 | 2020/06/15 12:22 PM |
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