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まだまだわからん石見銀山 第36話 銀の需要

 明は1402年に第3代皇帝成祖永楽帝が即位すると、彼は積極外交に転じました。モンゴル親征や鄭和を通じた海洋進出などが進められました。特に、モンゴル対策では長城を築き、多くの兵士を北方に駐留させました。これが国庫の枯渇と通貨の銀への転換につながりました。つまり、北方に軍事物資を現物で送るという物流方式から北方に銀を支給し現地で現物に変える形態に変えることで、銀の需要が生まれました。

            明成宗永楽帝

 

 国庫の枯渇により政権の財政基盤が弱くなるとそれまで発行していた銅銭や紙幣の信用力が落ちます。そうなると、人々は再びより信用力の高い銀を志向するようになります。政権にも銀を必要とする上述のような事情が加わり、1433年(宣徳8年)には遂に江南で税の銀納付が要求され始めました。こうして、明は銀経済へと大きく転換していくことになります。そして、1540年(嘉靖36年)には一条辦法という法律が施行され、それまで複雑だった税制度が一本化され、税も銀納に統一されました。このように、銀の需要はますます高まることになったのです。

 

 そのころ、偶然なのかわかりませんが、1527年石見に銀山が「発見」されたのです。当初石見の銀は博多商人を通じて直接あるいは朝鮮を経由して中国に輸出されたと考えられますが、やがてポルトガル商人が介在して本格的な銀輸出となります。1550年にはポルトガル船が初めて平戸に入港しました。更に1557年にマカオ居住を認可されます。こうしてマカオを拠点に南蛮貿易が本格化しました。(Ng)

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コメント
 明の成祖、永楽帝の皇帝在位は、1402年から1420年までだったようです。
 室町幕府の第三代将軍足利義満は、1394年に将軍職を足利義持に譲って太政大臣になりますが、1408年に没しています。

 筆者Ng氏の記述に、
『1433年(宣徳8年)には遂に江南で税の銀納付が要求され始めました。こうして、明は銀経済へと大きく転換していくことになります』とあります。

 一方、その頃、日本は、どのような経済情勢であったのでしょうか。

 日本では、鎌倉時代においては「三斎市」ということで、月に三回市場が開かれていたようです。

 しかし、次の室町時代になると、「六斎市」(ろくさいいち)と呼ばれるようになり、月に六回も市場がたつようになったらしいのです。
 
 しかも、郡内に五つの村で市場が開かれるようになると、例えば、○○郡内の大森村で一・六の市、水上村で二・七の市、久利村で三・八の市、川合村で四・九の市、長久村で五・十の市が開かれていく、ということになりますが。
 長久村まで行くと、○○郡内では、元の村に戻り、大森村で十一・十六の市、水上村で十二・十七の市、久利村で十三・十八の市、川合村で十四・十九の市、長久村で十五・二十の市がたっていきます……。
 
 こういう順番が繰り返され、三十日に最後の長久村で、市場が持たれるまで続くことになります。
 つまり、商売をする人は、毎日、どこかの市に行けば、商品を売ることができる、ということになります。

 このように、市場がいつでも、どこかの村で開かれることによって、村の隅々にまで貨幣が浸透していくことになります。
 日本も室町時代には、銅銭の需要が大いに増していった、ということでしょうか。
| 沢村俊介 | 2020/06/12 11:43 AM |
 すみません。室町時代の経済事情についてよく承知していません。

 本題からはずれますが、室町時代の当地農村を敢えて小説風に描くとすれば、私のイメージは次のような感じかな、です。

 戦乱がない限り庶民の購買力は徐々に伸びてはいたもののまだまだ初歩の自給自足経済だった。人々は藁葺のあばら家に住み、泣く子も黙る地頭と過酷な領主の目を気にしながら、一方で盗賊や人さらいから身を守るための自衛をしながら、しかししたたかに生きていた。農民たちはいつも天災や人災と隣り合せで、土地にはあまり執着していなかった。いつでも逃げれる状況だった。

 商売する方も、信長が楽市楽座を開くまではいろいろギルトのようながんじがらめの規制と因習があって自由ではなく、移動するにも各所に関所や障害があってままならなかった。中世はこんな社会のイメージです。

 ただし、日明貿易でいろいろな物を買えたのはこのような庶民ではなく、領主層や富裕層の欲求が高まったためでした。銅銭がこういう農村にまで普及したのかはよくわからないけれど、あってもちょろりちょろり程度でしょうか。
| Ng | 2020/06/12 2:29 PM |
 鎌倉時代、室町時代の農業、商業の私的考察を書かせてもらいます。

 14世紀には、農民たちが個別の荘園領主に「年貢を減免して欲しい」という要求をつきつけたようです。
 その時、農民たちの、逃散とか強訴とかの実力行使もあったようです。

 むろん、これらの背景としては、「惣」という村としての組織化の中から連帯意識が芽生え、一つの要求運動を起こすエネルギーに転化される素地があったようですが。

 15世紀になると、戦う相手は土倉や酒屋などの高利貸資本とか、その後ろ盾の室町幕府となり、徳政一揆と言われ、打ちこわしや質物の強奪といった実力行動もあったようです。

 こういう農民たちの実力行使は、貧しい生活から出た、と見る見方もあるでしょうし、一方では農村に「惣」というまとまりができ、貧しいながらも集団の力を発揮し、生活を変えようとする意思が農民のあいだに芽生えていた、と言えるような気が私にはしています。

 そして、中世において、農業にしろ、商業にしろ、現代のわれわれが考える以上に、発達していたのではないか、と今のところ、そう私は考えています。

 ところで、現代において、ドルと円の為替相場だとか、外貨準備高(=国が保有する外貨や証券などの合計額で、外貨建ての借入金の返済など対外的な支払い能力)などは知っていても、「江戸時代に為替はあったのか?」という、昔のことになるとなかなかわかりません。

 しかし、そういう経済のしくみは昔にもあったようなのです。

 例えば江戸時代のことですが。
 江戸の町は金本位(金遣い)。大坂の町は銀本位(銀遣い)だったようです。

 江戸時代のある時期、小判1両は銀60匁に換算されていた時期もあったようです。
 そうなると、小判1両の重さは4匁7分だから、同じ支払いをするとしたら、銀だと金の10倍以上の重さが必要になります。
 
 ですから、こういう重い物を運ぶというデメリットを解消するため、大坂の商人たちは現物の貨幣ではなく、手形を使うようになったらしいです。

 またさらに過去に遡って、考察してみると、鎌倉時代にも商取引での遠隔地間の決済には、銅銭の代わりに、「為替(かわし)」という手形なるものが使われていたようです。

 さらに古く、鎌倉時代には、日宋貿易で宋銭が非常に多く輸入され、年貢の一部が銭納化されるようになったらしいです。
 また、鎌倉時代には、荘園の中心地や交通の要地で、月3回の定期市(三斎市)が開かれていたようです。

 鎌倉期には、畿内や瀬戸内地方を中心として、農業では牛馬耕が盛んになり、二毛作で、米と麦の二つが農村で生産されるようになったという背景もあるようです。

 室町時代の農業では、畿内などで、三毛作を行い、米、麦、蕎麦を作り、三河地方では一部ですが、朝鮮から輸入された木綿を栽培するところもあったようです。
 そして、定期市も月3回から6回に増え、「六斎市」と呼ばれるようになったらしいです。

 室町時代以前、平安末期にすでに「座」のルーツはあったようですが、室町時代には、商工業者の同業組合として、「座」が生まれ、江戸期にはそれが「株仲間」へと発展していったようです。
| 沢村俊介 | 2020/06/13 2:37 PM |
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