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まだまだわからん石見銀山 第31話 なぜ石銀というのか

 仙ノ山の山頂付近は高原状になっていて、嘗てそこには「石銀(いしがね)」という石見銀山開発初期の鉱山都市がありました。標高470蛋宛紊了馨紊任垢ら、文字通り空中高山都市でした。面積は約20haあり、昔から「石銀千軒」といわれ、相当規模の集落がありました。ガイドはこれを「東洋のマチュピチュ」だといって紹介しています。

             マチュピチュ遺跡(ペルー)

 

 考古学的な発掘調査も進められていて、住居跡、露頭掘跡や間歩、製錬所跡が確認されています。特に、遺物として簪(かんざし)、中国の華南三彩、茶の湯道具などが出土し関係者を驚かせました。これらはいずれも高価な品々でありそれらがあったということは当時相当裕福な人々が住んでいたことを物語っています。また、茶の湯を嗜むような教養人もいたということがわかります。鉱山といえば、全国から欲(よく)とカネ目当てで集る人たちを連想しがちですが、石見銀山の石銀はそうとばかりは言えないところだったようです。

 現在でも現地を訪ねると、寺院跡、多数の墓石と平坦面、窪みを見ることができます。今まで紹介してきた天池寺(後の清水寺)や他の寺院も存在していたものと考えられます。

 

 『高野山浄心院過去帳』からも戦国末期の住民の様子がわかります。それによると、過去帳に石銀(過去帳には「石金」と表示されている)の人が39人載っています。これは何年間の記録かはわかりませんが、高野山の特定の寺院に記録された死者数です。同じく掲載人数で栃畑92人、昆布山58人、銀山55人から比較しても、石銀という鉱山町には当時かなりの人が住んでいたことが推定できます。

         石銀集落復元イメージ図 ©おむらななえ

 

 ところで、「石銀(=石金)」とは、語義としては鉛のことです。黄金(金)、白金(銀)、赤金(銅)、水金(水銀)というように石金は鉛です。どうしてあの場所が「石銀」と呼ばれるのか不思議です。田中圭一氏は、大永年間に(つまり、慶寿による灰吹法の導入の前)はじめて銀鉛錬の製錬をしていた所が石銀ではないかと言われています。

 また、いつから「石銀」と呼ばれたのかもはっきりしません。「石銀」の初見は16世紀後半の毛利家文書『石見銀山納所高注文』にある「八十貫 いし金口役但不定、年ニヨリ候」だそうです。

 

 石銀にあった清水寺は付近で銀が採れたので山号が銀峯山、これに対して大和国吉野にあるのは金峯山寺。吉野付近では水銀(辰砂)が採れました。石銀には吉野と同じように峰の頂に集落が存在し、そこに同じような修験の寺院がありました。石見銀山の住民たちはおそらく吉野を訪れたことはなかったでしょうが、そこに出入した修験行者たちは吉野を強く意識しながら信仰と鉱山に生きた人たちだったと思います。(Ng)

                   吉野の里

 

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コメント
 筆者(Ng氏)は、「石銀」という石見銀山開発初期の鉱山都市があり、そこには「石銀千軒」といわれほどの集落があったことを紹介して下さいました。そこには、住居跡、露頭掘跡や間歩、製錬所跡が確認されていて、特に、遺物として簪、中国の華南三彩、茶の湯道具などが出土し、当時そこには相当裕福な人々が住んでいたのでは、とも書いておられます。

 私は、島根県奥出雲の「たたら遺跡」を見学したことがあります。たたらで働く人々の住まいや絲原家・田部家・櫻井家といったオーナーさんたちの屋敷・蔵・庭などを見学しましたが、石見銀山の石銀地区においても、そういう賑わいがあったのだと改めて認識した次第です。
| 沢村俊介 | 2020/05/25 11:30 AM |
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