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まだまだわからん石見銀山 第29話 佐毘売山神社のこと その三

 佐毘売山神社が旧美濃郡から分霊を受けたという事実を都茂鉱山の技術が移転したと解釈したのですが、果たしてそのようなことが許されることなのかを考えました。想像に想像を重ねる話になって叱られるかもしれませんが、怒らず読んでください。

 

 社伝によると、この分霊は周防国主大内持世が行ったとされています。つまり大内氏の主導のもとで石見銀山に分霊したと言っています。当時(15世紀の中頃)石見銀山のあったこの佐摩の地は、石見国の守護職を没収されたもののなお影響力をもった大内氏の支配下にありました。一方旧美濃郡と都茂鉱山のあった地域は益田氏の支配下でした。それでは、益田氏は職人と技術の移転を認めたのでしょうか。

 

 益田氏の宗家は現在の益田市を本拠としていましたが、多くの分家を抱え、その間の関係はときには抗争したり敵対したりして複雑でした。都茂鉱山のあったところにも、永安家、丸茂家といろいろ支族が存在し利害が複雑に絡む状況でした。このため宗家である益田氏が都茂鉱山を支配していたとは断言できませんが、大内氏と益田氏との間で何らかの合意があって、職人と技術の移転を認めたのだと想像します。認めたとすれば、益田氏にはどのような狙いがあったのか。

 

 益田氏は大内氏との関係を維持するために分霊の申し出を拒むことができなかったこと。いま一つは、益田氏は中世にあって貿易にも活躍した開明的な氏族だということが知られています。ひょっとしたら、都茂鉱山の物流ルートをしっかり掌握していた可能性はあります。この鉱山の産品を自家の販売ルートに乗せることだけでなく、大内氏の持つ販路を利用する必要があったのではないかと思うのです。(Ng)

               都茂鉱山山神大切坑跡

 

| ガイドつれづれ日誌 | 00:23 | comments(1) | - |
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コメント
 益田氏というのは、元はといえば、御神本氏を名乗っていた家柄らしいです。平安末期1185年に、平家と源氏の「壇の浦の戦い」があり、その時の軍功で御神本(みかもと)兼高は石見の押領使となりましたが、その兼高が1192年に今の島根県益田市の土地に移住し、益田氏と称したらしいですね。
 つまり、益田氏はその頃は、名門だったようです。
(むろん、大内氏の一族も、周防の国衙在庁を完全に支配下に置き、鎌倉幕府御家人として、六波羅探題評定衆に任命されているが……。)

 例えば、現在、島根県津和野町には城跡が残っているが、かつての津和野城主の吉見氏も、源頼朝の庶弟である源範頼を祖とする名門。
 鎌倉幕府から、元寇に際して、西国の警備を任され、30年の歳月をかけて津和野城を築きました。

 津和野川のほとりにある鷲原八幡宮は、初代津和野城主の吉見頼行が、鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したもの。さらに吉見氏は、社前の広場に鶴岡八幡宮の馬場を模した流鏑馬の馬場も作りました。
「勧請」というのは、かつては大きな意味を持っていたのかもしれません……。
| 沢村俊介 | 2020/05/18 11:46 AM |
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