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まだまだわからん石見銀山 第15話 大内氏の伝承

 これまでは、石見銀山の「発見」までの動きを、修験者を中心に紹介して来ましたが、ここからは元に戻って大内氏に伝わる伝承を追ってみたいと思います。

 

 大内氏の勢力が石見国に入ってきたのは第24代大内弘世の時代。弘世は貞治三年(1364)に石見国守護に補任されています。それ以降大内氏は地元の有力者益田氏を巧みに懐柔しながら石見国での地保を固めました。

 

 その大内氏には、石見銀山にかかわる伝承として「北辰の神」の話がありました。それは次のような話です。延慶二年(1309)、大内弘幸が不思議な夢を見た。大内家の守護神北辰の神が枕元に立ち「石州の仙ノ山に宝有り。汝銀をとりて外敵を排せよ」との仰せがあった。当時大内氏は鎌倉幕府執権の北条氏と対立していて蒙古に援軍を乞うが、その後急転直下北条氏との和睦が成立したものの今度はその蒙古軍の撤退の扱いに困り石見銀山の銀を蒙古軍に渡して撤退を実現させたという話です。しかし、このうち「北辰の神」は大内家の守護神として同家に古くからあった伝承かもしれませんが、それ以外のことは作り話だろうと思います。

 

 それでは、なぜ大内氏はそんな話を作ってまで、石見銀山に係わろうとしたのでしょうか。もちろん真相はわかりません。しかし、大内氏は早くから日明貿易に乗り出していて、銅や銀の取引を行っていました。だから、石見銀山には早くから目を付けていたのだと思います。そのために大内氏は石見銀山の権益を確保するため守護神として崇めていた北辰の神を持ち出して、権利を主張したのだと思います。仙ノ山には観世音菩薩がおられると言われているのに、北辰の神を持ち出したところは何故なのかわかりません。

 

 大内氏はその後一旦石見国守護を取り上げられたものの邇摩郡に拠点を残したまま、石見銀山エリアを事実上支配していたのですから、現在の感覚ではこのような小細工は必要ないと思いますが、やはり古い時代にはそういう権威付けが必要だったということでしょうか。その石見銀山エリアの実際の領有関係については次話で再論します。(Ng)

国宝瑠璃光寺五重塔(山口市)、大内義弘の供養塔といわれる。1442年落慶。

| ガイドつれづれ日誌 | 00:17 | comments(4) | - |
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コメント
 島根県益田市に、医光寺というお寺があり、僕はJRの益田駅からバスでそのお寺に行き、そこの庭園を見たことがあります。この庭園は雪舟という画聖が、文明年間(1469〜1487年)の頃に作られたものだと聞きました。
雪舟という人は、石見の三聖人の一人らしいです。雪舟は、周防山口の守護大名の大内政広の招きで京都から山口へ移り、やがて大内氏が建造された遣明船に乗って中国本土に渡り、中国という本場で墨絵を勉強し、文明元(1469)年に帰国された、と聞きました。その時、僕は、室町幕府の一地方の守護大名が、そのような海外貿易ができた背景がわかりませんでしたが……。やはり、石見銀山の銀という、財政的な基盤があって大内氏は日明貿易が可能であった、ということなのでしょうか。

| 沢村俊介 | 2020/03/30 2:49 PM |
 大内氏は開明的な守護大名でした。自分たちの出自を百済にあると自ら言うように、元から国際的な感覚を持っていたと思います。日朝貿易や日明貿易でも、細川氏とともに主役を演じた大名でした(このことは後の話で述べます)。

 ところで、石見銀山の銀を財政的なベースにして日明貿易に乗り出した訳ではありません。大内氏は15世紀半ば以来日明貿易においていろいろな物資の取引で大きな富を築きました。その当初の重要な取引品目の一つが銅の輸出だと見ています。こういう取引での実績が重なって、16世紀石見銀山の銀の輸出につながったと思われます。
| Ng | 2020/03/30 7:57 PM |
 現在、島根県津和野町にあり、江戸期には石見銀山領の飛び地となる笹ケ谷銅山は、弘安年間(1278年〜1288年)に発見されたようです。この頃は津和野城主の吉見氏のもとで、堀新左衛門がここで銅を掘っていたらしいです。

 そして、周防の大内氏が勢力を拡大し、周防・長門・石見の守護に任じられると、津和野城主の吉見氏は、大内氏に従うようになったようです。つまり、大内氏の被官となることで、吉見氏はその見返りとして在地領主の地位を確立しようとしたようです。

 一方、中央に目を転ずれば、1404年に室町幕府の足利義満は、勘合符を基にして明との貿易をはじめました。

 明との勘合貿易については、はじめは室町幕府が主体でしたが、応仁の乱(1467〜1477年)後は、有力な守護大名の手に移っていったようです。
 大内氏は博多商人と、細川氏は堺の商人と手を結んで明との貿易を進めたようです。この頃、輸出品は銅・刀剣・硫黄で、輸入品は銅銭・生糸・絹織物だったようです。

 とすれば、大内氏と博多商人が扱った輸出用の銅の中には、笹ケ谷銅山で掘られたものがあったのではないか、と僕は推量しています。

 1523年、大内氏と細川氏とが勘合貿易の権益をめぐり、中国の寧波(ニンポー)において争いを起こしますが、勝利を収めた大内氏が1551年まで、この勘合貿易を独占することになるようです。

 1527年には石見銀山で銀が掘られるようになりましたが、大内氏による明との貿易において、石見銀山の銀がどのような働きをしたのか、僕は個人的に興味があるところです。

 筆者が3月30日のコメントされたごとく、「15世紀半ば以降の日明貿易では、輸出の大きなものが銅であり、そして16世紀の輸出の主なものは銀である」というのは納得のいくところです。
| 沢村俊介 | 2020/04/01 10:01 AM |
 沢村さん、ご明察のとおりです。
 笹ヶ谷銅山は大規模な鉱山だったようで、江戸時代幕府はその鉱山を石見銀山領の飛び地にして支配下に置いたくらいです。筆者もガイドの会の研修旅行でその鉱山を訪ね、特別な許可を得てその一部の坑内に入りました。長い坑道はすごかったです。

 ところで、初期の日明貿易で日本からは銅が輸出されていますが、残念ながら、関係する史料には「備前、備中産」の銅となっており、石見産とは書かれていません。しかし、笹ヶ谷鉱山にせよ都茂鉱山(益田氏美都町)にせよ、山口から近いことからそこからも輸出されたと考えても不思議ではありません。
| Ng | 2020/04/01 1:12 PM |
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