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石見銀山最後の御代官様

江戸時代、石見代官(初期の奉行を含む)は延べ59名その最後の御代官様は「鍋田三郎右衛門」です。一説には長州の進軍を恐れ慌てふためいて逃げ出した情けない御代官てきな評価もされているようですが今回この鍋田代官にスポットを当ててみます。

就任は元治元年(1865)〜慶応2年(1866)の2年間

知行高228俵、部下(手附・手代)は、

江戸詰(6名)、大森陣屋詰(5名)、上下陣屋詰(3名)

石見銀山付地役人80

代官所長屋門、現地にそのまま残されているのはとても貴重です。

石見銀山には地役人がいますが、一般には代官所には数名の部下がいるだけです。全く戦いを想定していません。何か騒動があれば、代官様は、身の安全を確保、その後近隣の大名に応援を依頼するのです。ましてや、長州の進出に立ち向かう等無益でしょう。仮に潔く立ち向かったとしたら、大勢の無駄な血を流し、大森の町は戦火で甚大な被害を被ったことでしょう(世界遺産にもならなかったかも)。

陣屋町・大森の町並

この頃石見銀山の産銀は少なく銀山としての魅力はないのに長州は何故この地を占領したのでしょう。それは石見銀山が徳川幕府の直轄地であったからです。幕府の領地を奪う事に意味があったのですね。ゆえに明治維新は石見銀山を占領した事が始まりと見る事も出来るでしょう。

鍋田代官は、80余名の役人と小者を連れ粕淵まで逃れ、大森の幕府貯蔵米を村々に放出する旨の命を出しています。長州戦争によりこの時期物価は数倍から7倍ほどに値上がりしていたそうです。ただ、この代官の計らいも時すでに遅く百姓一揆が勃発しました。一揆の鎮圧、物価の安定も美味しいところは長州軍に奪われます。

一行は、広島県の上下陣屋から倉敷陣屋へと逃れますが、この際銀山役人が1名高齢で長旅を断念切腹されたそうです。地役人は明治になり三々五々大森に帰還しました。

私は、鍋田代官を臆病者でもなければ、がむしゃらな猪武者でもなく思慮深い代官様であったと思います。(銀)

倉敷陣屋跡・現在は、この石碑があるだけです。

 

 

| ガイドつれづれ日誌 | 00:19 | comments(2) | trackbacks(0) |
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コメント
 銀次さんのご意見に賛成します。

 文久二年(1862)に幕府貿易船「千歳丸」が上海に行く訳ですが、その随員のなかに御徒目付鍋田三郎右衛門成憲(52歳)と長州藩士高杉晋作(24歳)の名前が見えます。

 司馬遼太郎によれば、このとき高杉晋作は上海で見た先進文明に驚き、それまでの単なる攘夷的な思想を転換することになったと言います。おそらく鍋田三郎右衛門もこの上海での見聞によって世界の現状を体感したに違いなく、高杉との間で会話だけでなく、何らかな共通認識があったかもしれません。

 鍋田代官は、あの戯れ詩にあるような「力が強い」逃亡者でもなく、また臆病者でもなかったと思います。軍事力を持たなかった代官所が応戦するという無謀な選択に至らなかったことは賢明な判断でした。それ以上に、彼は時代の流れを読みとって行動していたと思います。

 彼の上下陣屋以降の足取りはよくわかりませんが、大森撤退にあたって慌ただしい状況のなかで代官所の勘定をきちんと済ませました。その後も同行した家臣の大森帰還や大森に残した家臣家族の生活維持のためにいろいろ奔走したと思われます。その努力は並み大抵のことではなく、彼のご苦労を偲びたいと思います。
| iso800 | 2018/07/01 10:09 AM |
以下、2016年8月13日付投稿コメント再掲(抄録)。

私は歴史学徒ではありませんし、恥ずかしながら鍋田三郎衛門(注:投稿時ママ。三郎右衛門あるいは三郎左衛門と記すのが正しい)について知るところほぼ皆無です。(略)
ただこの「事件」では
”饌罎望紊っている代官や地役人・同心など当時の「支配層」にスポットを当てるだけでいいのか
代官所中枢に「逃げられた」大森の町方や銀山御料内各村の庄屋・惣代などの中間支配層はこの事実をどう受け止めたのか
もっと言えば天領内身分秩序の最下辺にいたであろう小作農民やその他職制の人たちは、この「四万八千石抛(な)げ捨て」にいかなる社会変動を感じ取ったのか、
が気になります。
代官および下僚群の退去が慶応2年7月。同年11月に大森代官心得の任命よる長州の民政官支配開始。
この間、明らかに「権力の空白」が生じています(進駐長州軍による占領状態はあるにせよ)。
また、御料の辺境では騒動(後世、打ち壊し、一揆などの表現をしている書物もあるが厳密な定義の検証は不詳)が起きてはいても、ほどなく収束。(略)
私がなにゆえに、鍋田代官事件に、歴史のプレイヤー側ではなく「観客側=被支配層」の動きを気にするのか。
わずか71年前にも、この日本全体を巻き込む「権力の空白期」が生じています。一つの国家が交戦中の諸国家に無条件降伏する。
それは、戦争行為の終結だけにとどまらずその後の占領も受入れている(ポツダム宣言受諾)時点で、完全な占領統治が始まるまでは実効権力は存在していないか大きく揺らいでいるはずです。
ただ、当時の日本では被支配層側からの政治的うねりは、結局起きなかった。
終焉間近とは言えまだ「近世」であった、しかも山陰の小さな天領と、堂々たる近代国家である日本の敗戦時の政治状況を一緒くたにして論じるのは、はい、無茶です。
ただ、銀山で起きたいろいろな歴史事実をこうして後代の出来事と関連付けて考えるのも、石見銀山に関わる醍醐味かとも思っています。(略)

現在の認識もほぼこの通りです。2年も前と、視点も深化も進んでない事に情けなさを覚えます。
が、歴史解釈を補助線として、解釈し批判し見晴しを通すべき「社会の現状」はなお一層混迷を深めているようにも見えます。

結局、日本という国の国民性は、民衆(近世)も、大衆(近代)も、市民社会(現代)も、権威や権力になすすべも無く漂うばかりか、むしろ自発的隷従を繰り返しているだけなのかという一種諦めに似た感慨もあります。

いや、もっと混迷が続き、為政者や社会的上位階層の卑小さと未来に対する無責任さを皆が知る時が来れば、社会的”うねり”が出て来るのだと信じてはいます。
ただ、その時には公共的インフラも社会的諸制度もズタズタになっていない事を祈るばかりですが。




| どっと・かめ | 2018/07/02 12:06 PM |
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