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井戸公顕彰俳句大会
 この地にサツマイモを導入した第19代代官井戸平左
衛門が笠岡で亡くなられたのが5月26日と言われてい
ます。毎年、この時期には大森で井戸公の遺徳を偲び俳
句大会が開かれています。

笠岡市にある威徳寺 井戸公の墓
偶然にもガイド仲間が5月27日に訪れました。
案内板

今年は5月28日(日)に第30回大会が開催されまし
た。30回ということで、今年は石見銀山資料館の仲野
館長をおよびして、「石見銀山と俳諧事情」という演題
で講演していただきました。

また、広島県府中市上下町から上下歴史文化資料館の守
本館長をはじめ26名がかけつけて下さいました。俳句
会に先立ち、上下町の皆様には、安立会長と筆者が町並
みをご案内致しました。上下町の皆様方はほとんどがリ
ピーターでしたが、ガイド付きの見学は初めてとのこと
で、大変喜んでいただけました。町並み見学のあと、交
流センターで「いも娘会」のメンバーによる当会名物「
芋粥」をご賞味いただき、大絶賛でした。  

今までの石見銀山に関する研究は、江戸幕府の鉱山経営
とその組織機構や天領下における武家と商家のつながり
など経済に主眼をおいたものが大部分でした。今回の仲
野館長の江戸時代の俳諧事情のお話しを通して、石見銀
山が地域の文化交流の拠点であることがわかりました。

文化的側面から石見銀山を語られたことは大変面白く、
新鮮でした。 さて本題の俳句大会に話題を戻します。
今回の大会賞には次の句が選ばれました。

 銀堀りの絵図生き生きと青葉風 大田市 森山美穂  

間歩のなかで働く鉱夫の過酷な仕事ぶりが絵図に示され
ています。その息苦しい労働から解放された瞬間を、青
葉風という季語に託した作者の鉱夫への思い入れが評価
されたのでしょう(O)。
| ガイドつれづれ日誌 | 01:28 | comments(2) | trackbacks(0) |
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| - | 01:28 | - | - |
コメント
 井戸公は60歳の老境(あの頃は60歳といえば後期高齢者ですね)に至って、辺境の石見に単身で赴任されました。幼少のときに養子に出されたり子息に先立たれたり、また年老いて遠方の地に赴き、そこで家族にみとられることなく死を迎えました。彼は自分の人生をどのように見ていたのでしょうか。興味あるところです。あの時代は、そんなものは当たり前で、どうということはないかもしれませんが。

 彼の人柄とともに、彼の人生観といったものに関心があります。それに、石見赴任前の事績についてはあまり語られていません。どなたか教えていただくと、有り難いです。
| iso800 | 2017/06/01 7:44 AM |
 井戸公の事績について、一つ書き漏らしていました。

 井戸公の経歴や石見での事績(これらの事績が後に潤色された部分があるのではないかということを含めて)は、銀山資料館学芸員の藤原雄高さんが、『代官井戸平左衛門の事績と顕彰』(世界遺産登録10周年記念「石見銀山の社会と経済」ハーベスト出版 2017年のなかに集録)で史実に基づきコンパクトにまとめています。是非参照してください。

 それにしても、井戸公は享保14年に幕府の検見添役として石見に来たあと、享保16年9月に大森の代官に任命されて、同年10月に江戸を出発し石見に下向しました。しかし一旦江戸に帰って子息の死に遭遇し、家系を継ぐため養子縁組を決めますがそのための幕府からの許可決定を待たないまま享保17年夏には大森に着任しています。

 それから、結果的に最後の旅路となった享保18年4月の笠岡への出発までの一年内に、それこそ休むことなく領内のあちこちをまわっています。大飢饉の視察と検分のためでした。また彼の足は領内だけに止まらず、出雲や備後、備中、それに伊予にまで及んでいます。そういうご苦労が重なったのか、享保18年5月26日笠岡の陣屋で亡くなるのです。凄いパワーというか熱意というか、驚きです。
| iso800 | 2017/06/07 8:13 PM |
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