牛のいる風景(4)
2017.07.20 Thursday
前回、中国山地脊梁地帯に今でも残る草原景観とたたら
製鉄について述べました。それでは、近世石見銀山領内
での山の利用はどうなっていたのでしょうか。
元禄時代における石見銀山領内での山の利用は、
山林が13.1%、竹山が0.5%、荊山が5.7%、草山が44
%、草山入会地(共同利用地)が36.2%で、およそ8割
が草山であったようです (仲野)。
江戸時代には、全国的にみても山野の7〜8割が草山と
いわれています(日本の草地面積の変遷、小椋)。苅敷
といわれる春先の若い養分の多い草木類の田畑へのすき
込みや、堆肥づくり、牛馬の飼料の確保のために田畑の
10〜12倍の採草地面積が必要であったと試算されていま
す。
安藤広重の版画や銀山絵巻など昔の絵をみると、ほとん
どがハゲ山だったことが肯づけます。ハゲ山というのは
実は適切な表現ではなく、実体はハゲではなく草山です
ね。
このように、近世農山村における農産物の生産は、草山
と人や家畜の排せつ物の循環に多くを依存していました。
その他に生活のための燃料用の木柴の取得も不可欠でし
た。農産物の生産性は、農薬や化学肥料に頼っている現
在のそれに比べ、相当低いものでした。しかし、生態系
の物質循環という視点からみると、当時の農民は最高レ
ベルの再生可能農業技術を駆使していました。
江戸時代の中期以降、3千万人といわれるわが国の人口
を、化石燃料を一切使わずに支えていたのです 。
今、放棄され、荒れ果てた山林原野(再生可能エネルギ
ー)をみるたびに、もったいない、何とかならないもの
かと思ってしまいます(O)。