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牛のいる風景(4)

前回、中国山地脊梁地帯に今でも残る草原景観とたたら

製鉄について述べました。それでは、近世石見銀山領内

での山の利用はどうなっていたのでしょうか。

 

元禄時代における石見銀山領内での山の利用は、

山林が13.1%、竹山が0.5%、荊山が5.7%、草山が44

%、草山入会地(共同利用地)が36.2%で、およそ8割

が草山であったようです (仲野)。

 

江戸時代には、全国的にみても山野の7〜8割が草山と

いわれています(日本の草地面積の変遷、小椋)。苅敷

といわれる春先の若い養分の多い草木類の田畑へのすき

込みや、堆肥づくり、牛馬の飼料の確保のために田畑の

1012倍の採草地面積が必要であったと試算されていま

す。

安藤広重の版画や銀山絵巻など昔の絵をみると、ほとん

どがハゲ山だったことが肯づけます。ハゲ山というのは

実は適切な表現ではなく、実体はハゲではなく草山です

ね。

 

このように、近世農山村における農産物の生産は、草山

と人や家畜の排せつ物の循環に多くを依存していました。

その他に生活のための燃料用の木柴の取得も不可欠でし

た。農産物の生産性は、農薬や化学肥料に頼っている現

在のそれに比べ、相当低いものでした。しかし、生態系

の物質循環という視点からみると、当時の農民は最高レ

ベルの再生可能農業技術を駆使していました。

 

江戸時代の中期以降、3千万人といわれるわが国の人

を、化石燃料を一切使わずに支えていたのです 。

今、放棄され、荒れ果てた山林原野(再生可能エネルギ

ー)をみるたびに、もったいない、何とかならないもの

かと思ってしまいます(O)。

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