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船表番所

 我が家の前の道路は車社会の今では少々狭い道路ですが、これでも明治22年に出来たときは直線的で目を見張る大道路でした。当時は山陰道として県の主要道路でした。その南側にやや狭い道路がありこれが江戸期の山陰道で、慶応二年の長州討伐には松江藩の兵士が移動した旧道です。

民家の脇にひっそりと「石見銀山鳥井番所跡」の石碑があります。これは寛政3年(1791)ここに船表番所が設置された跡です。江戸期の絵図(嘉永5年(1852))を見るとかなりの規模の施設のようです。ではなぜこの時期に何の目的で出来たのでしょう。

右が江戸期の山陰道、左が明治22年の新山陰道

 当時の日本の状況は?11代家斉の時代です。家斉と言えば在位50年と最も長く(因みに子供の数も最も多く50名を超えた由)政治は経済中心の田沼意次が失脚変わって出たのが松平定信の寛政の改革が始まり質素倹約、当時の流行り狂歌に「白河の(定信のこと)清きに魚もすみかねてもとの濁りの田沼こいしき」「世の中に蚊ほど(定信のこと)煩きものはなし、文武、文武と夜も眠れず」等と風刺されるほどでした。定信の理想主義は家斉とも合わなくなり彼は失脚します。家斉の贅沢三昧は反面江戸文化の活発化に拍車、となり文化文政の爛熟期を迎えます。

文化文政江戸庶民文化イメージ

 そんな中、日本を取り巻く情勢は変化していました。日本が鎖国をしている中、ヨーロッパでは「産業革命が起こっています、(産業革命って分かりやすく言えば日本の高度成長期を思い浮かべればよいと思います)。これにより、世界はヨーロッパ人による植民地化します。そして極東に位置する日本も欧米から見ると最後のターゲットとなり、ロシア船が北海道・厚岸(あっけし)に来たのを皮切りに異国船が日本近海に出没し始めました。海の管轄は代官所です。その一環で鳥井船表番所が寛政年間に設置されたとみることが出来ると思います。江戸後期の代官所にどこそこに大砲があったとか、有事の際の食糧藩の旗などがありますが、長州に備えたのかなと勘違いされる方も無きにも有らずですが、これ等も想定は異国船に対する物です。

異国船イメージ

 江戸後期日本では教育が盛んにおこなわれています、庶民は「寺子屋」、武士は「藩の塾」。彼の有名な「松下村塾」でも兵法学や異国の脅威が論じられ、そんな中、井伊大老の開国に端を発した攘夷(異国を打つ)論が生まれ、明治維新へと流れるのですが、奇怪なことに攘夷から始まりいつしか倒幕になった新政府は攘夷などどこ吹く風、開国し、すべて西洋に右へ習えしながら富国強兵を押し進め徐々にアジアから西洋をも追い払いました(国力をつけて攘夷を行ったとみるべきでしょうか)。世界の中で無視できなくなった日本もやがて欧米より警戒され太平洋戦争にまで実は一本道だったのです。何げない路傍の石柱より此処まで思いをはせるのは、やり過ぎかな?(銀爺)

鳥井船表番所跡石碑

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:03 | comments(0) | - |
井戸公頌徳碑から見えたこと

石見銀山の代官様と言えばこの地域で最もよく知られた名代官「井戸平左衛門正明公」です。石見代官としては僅か2年足らずの石見代官在籍ですが、その功績は民衆に大きく評価されています。井戸公の頌徳碑は大田市だけでも100基中国地方では800基位はあるとか聞きます。しかも、明治維新の「廃仏毀釈」運動で、石碑に戒名が彫られていたため数百基が破壊されたとも云いますから、ただ一人の代官の頌徳碑としては異例中の異例かもしれません。また知名度も高く、大田市の小学生に聞いても大森代官と言えば「井戸平左衛門」とたちどころに答えてくれます。通称「芋殿さん」と親しまれこの地域で最も著名な歴史上の人物です。

井戸平左衛門・木像

その頌徳碑が勿論我が町内にもあります。そこで今回は、私の町「鳥井町」の頌徳碑を検証しそこから見えてくる事を紹介します。それによるとこの頌徳碑が建設されたのは井戸公が亡くなって百年余り後のことです、百年前の人物の頌徳碑が何故この時建設されたのか興味涌きますよね。

石碑に刻まれている文字は

  「本邨鳥井挙里黔首等拝首秫旨顙謹建」

         要するに、この村、鳥井の里あげて民衆たち謹んで建設しました。と云う事でしょうか。

 

       この中に「秫旨顙」がよく分かりませんが、秫(もちあわ)は米以外の穀物ですのでこれが「薩摩芋」を表しているのかもしれません。(どなたかご存じの方教えてください)

鳥井町の井戸公頌徳碑

 問題は、建設の時期です。実は天保4年(1833)〜天保10年(1839)は江戸期の4大飢饉「天保の大飢饉です。天保10年大飢饉が終息しこれから良くなるよという節目がこの日でした。「苦しい、苦しい大飢饉を乗り越えられたのは薩摩芋の御蔭でした、ありがとうございます。」と云う事になります。

 因みにこの天保の飢饉中「大塩平八郎の乱」、また江戸近辺には農村を離れた無宿人が増え治安が悪くなっています。石見銀山では、疫病もはやり大勢の人が亡くなり人手不足から一時佐渡に習って無宿者を使用しましたが上手く行かず、銀山の働き手は銀山でと云う事で「養育米制度」(2歳から10歳まで一日1.5合の米の支給)が出来るきっかけになっています。

 また、井戸平左衛門公が関わった、享保の飢饉には我が鳥井村には年貢の免除を受けています(田圃のみ)。今も各地で命日には「芋殿法要」がおこなわれています。(銀爺)

享保17年(1732)の鳥井村に対する年貢割り付け

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:21 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-25

☆銀流出の規制☆

 石見銀山開発の当初は日本国内で銀の需要はありませんでした。言い換えれば銀に貨幣の価値があるとは誰も思っていなかったのです。と云う訳で、当初の銀は海外貿易用でした。その後徐々に貨幣価値が認められ金と並んで高額決済用貨幣の役目を負うようになりました。江戸時代には「三貨制」で西日本を中心に銀が貨幣として使われます。一方銀の国外流出はとどまることなく、江戸期前期の100年で国内生産の75パーセントの銀が、25パーセントの金が流出したと云われます。

 糸割符制は春先に輸入値段が決まり、その後一年はその値段で取引がなされていました。当初はそれなりに銀の流出を抑えましたが、相手もさるもの春先には少量の絹を持ち込み品薄状態にして絹の値段を釣り上げその後大量に持ち込むなどうまく機能せず50年ばかりで廃止します。その後自由貿易となり銀の流出が増します。長崎貿易は色々あって、金銀流出を抑える銅や俵物(ナマコ、アワビ、フカヒレ等いずれも高級中華料理の材料)での決済を進めました。石見銀山でも当初銅は副産物として自由に販売していましたが、銀と同様幕府の買い上げとなりました。銀の産量が落ち込む中銅の生産は増し実質銅山でした。

干しアワビ、干しナマコ、フカヒレ、俵に詰めたものです

 文化年間(18041818)に銀輸送の負担が大きい事から、銀山街道の赤名宿から「赤名訴訟」という訴訟事件もありましたが、実はこの時代銅の輸送が大きく牛馬が大量に使われたのでした。当時(文化年間)銀の生産量は年間100~200貫で一頭の牛馬が20貫運びました。

 以上のように、16世紀半ばから17世紀にかけ日本は世界が注目した銀の国であったのです。需要があるから供給があると云う事です、一言でいえば、石見銀山が光り輝いたのは、中国()の事情と云う事ですかね。

これにて25回に及ぶシリーズを終えます。ありがとうございました。(銀爺)

ありがとうございました。引き続きよろしく願います。

 

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:01 | comments(2) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-24

☆ポルトガル追放☆

 ポルトガルが南蛮貿易出来たのは、マカオに拠点が出来「明」(中国)の良質の絹を主力商品として日本に来ることが出来たからです。この当時日本はポルトガル人もあきれるほど中国製の絹を買ってくれました。ところが、絹の値段は、「あそう、その程度の値段なら他に売るよ」的な感じで値を釣り上げ暴利を得ていたのです。これに対して家康は1604年京都の豪商「茶屋四郎次郎」を筆頭にした株仲間を作らせ限られた御用商人に一括して買い入れる「糸割賦制」を導入し、此処から一般の商人に販売する仕組みにしました。

 これにより銀の余分な海外流出を抑えました。御用商人は商売繁盛、幕府は御用商人からまとまった税が入ると云う事です。

茶屋四郎次郎木像

 ポルトガルと同盟国であるスペイン、対立する新興国のオランダ、イギリスなどの日本貿易争奪戦は激しく色々な事件もあって、紆余曲折しながらも、イギリスの撤退、スペインンを来航禁止、オランダも数年間国交が途絶えたりしましたが、寛永14年(1637)勃発した島原の乱は決定的で寛永16(1639)のポルトガル船入港禁止、いわゆる鎖国です。幕府はその前にオランダに対して絹等の入荷が可能かどうか確かめています。

 オランダは連合東インド会社を設立、(会社と云うよりも海上帝国的な感じです)敵対するポルトガル・スペインを退け勢力を拡大します。当初はスペインやポルトガル船を襲い積み荷を確保自力では入手困難な中国製の絹まで商品として持ってきますがその後台湾に進出絹の入手が可能になりました。

VOC、オランダ東インド会社船(複製)

 こうしてみると、石見銀山の銀は、当初は朝鮮の木綿に、後には中国の絹になったと云う事になりますね、外国人の目から見るとなんとおしゃれな民族と云う事になっていました。(銀爺)

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:09 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-23

☆ポルトガルからオランダに乗り換えのきっかけ☆

 関ヶ原の戦の少し前オランダ船「リーフデ号」が大分県に漂着しました。当初ポルトガルから海賊船と告げられ五大老の筆頭である徳川家康に身柄を預け取り調べされます。色々あって結局「こっちの方(オランダ)が良いじゃん!」となりいわゆる鎖国へと変化し、ポルトガル等は締め出されることとなりオランダ貿易となります。その最大の理由はカトリックキリスト教の存在です。スペイン、ポルトガルは国の方針で商と布教は切っても切れない両輪です。一方オランダやイギリスなど新興国はプロテスタント国で(ローマ・カトリックに対して、それ違うんじゃないの的な新しいキリスト教)そしてオランダは、この時期スペインから独立の「80年戦争」の最中です。この地方は毛織物等経済的には盛んな地方ですがカトリックの教えでは利益は教会に吸い上げられます。それって、おかしいじゃあないの、と云う事で宗教改革つまり反カトリックのプロテスタント、と云う事です。

復元された「リーフデ号」

 さて、その「リーフデ号」は日本に漂着の2年前に5110名で船出、西回りで太平洋を渡って日本に漂着したときは、1隻、24名内10名は重傷で亡くなり生き残りは14名です。その中には家康に召し抱えられた「三浦按針」や「耶揚子」もいました。結果的には乗組員110名は全員本国には帰国できませんでした。大航海時代は、一見夢と男のロマン的なイメージですが、その実態は予想以上に過酷で悲惨な「大後悔時代」であったのかもしれませんね。(銀爺)

リーフデ号船尾にあった「エラスムス像」

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:02 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-22

☆世界一周・マゼラン、実は…☆

 大航海時代、バスコダガマ、コロンブスとくれば、次は「マゼラン」でしょうね。ポルトガルの航海士「マゼラン」は色々あってスペイン王の命で世界一周を目指したのは、1519年5隻237名でスペインを出立します。マゼラン海峡を発見し太平洋に出て1521年フイリッピンに到達、此処で実は周辺の島民に強引な布教活動をして島の酋長の反撃で戦死したのです。

 マゼランは酋長同士の争いに巻き込まれたのではなく、フイリッピンの人々に仕掛けた戦争であり、反撃を甘く見た結果という説です(1989年朝日新聞社刊「マゼランが来た」より引用)。マゼランは隊員60名でマクワン島に上陸島民1500名のゲリラ戦により毒矢が足に当たり戦死し、残された乗組員は命からがら本船に逃れた由。

マゼラン

 残された3隻はモルッカ諸島で丁子や肉ズクを大量に積み込みスペインを目指したが船は2隻のみとなり、一艘は東航路でメキシコ湾を、一隻となったビクトリア号は、マゼラン亡き後「エルカーノ」の指揮のもと、

無寄港で喜望峰を回り約2か月の間乏しい食糧で乗組員の半数以上が死亡、15229月スペインに帰港したときは1隻・18名であった由。5隻・237名で出発した船団、帰港したのは118名とはいかに無謀な行為であったかがうかがえますね。

マゼラン隊の後を引き継いだ「エルカーノ」船長

 1522年7月9日(水)、マゼラン亡き後やっとたどり着いたアフリカ西海岸で不思議なことに気が付きました。帰港した18名の中の「アントニオ・ピガフェッター」は毎日欠かさず、航海日記をつけてきました。しかし、現地の日付は10日(木)と丸一日の違いがあったのです。現地の日付も、航海中の日付も間違いないのに。この矛盾が後に日付変更線になります。

日付の矛盾から、後に日付変更線のきっかけの「ピガフェッター」

 と云う訳で世界一周を成し遂げたのは、「マゼラン」ではなく、「エルカーノ」等18名でした。(銀爺)

初めて世界一周を成し遂げた18名のレリーフ(スペイン・サンルーカル)

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:07 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-21

☆極悪非道のコロンブス・世紀の勘違い☆

 コロンブスは大西洋を西に行けばアジアのインドに辿り着くと思っていました。そして1492年コロンブスがバハマ諸島の「ワトリング島」(サン・サルバドル島)に上陸しインドと勘違いしました、現地人を「インディオ(インド人)」とおもったのです。実はこの時からアメリカ大陸の悲劇がはじまります。コロンブスは、従順で友好的なうえ頑丈な体つきの原住民を見て奴隷にするには申し分ないと報告しています。

コロンブス、サン・サルバドル島上陸の図

 スペイン人が金や宝石を求め土地を物色し始めるとさすがに現地人の反発をかいますがサーベルと鉄砲で容赦なく虐殺、鉱山や農地の奴隷労働者として使います。その上スペイン人の持ち込んだ疫病もあり、僅か10年足らずの期間で彼等原住民は絶滅という酷さです。後に(17~18世紀)イギリスの三角貿易(アメリカから農産物がイギリスに、アフリカから黒人奴隷をアメリカに、イギリスから武器をアフリカにの図式で特にイギリスはこの三角貿易で資金を得これが「産業革命」や大英帝国の資金になったことは否めないですね。

奴隷狩り

 話を戻して、コロンブスの後、ポルトガルの航海者・「アメリゴ」によりそこがアジアではなく新大陸であるとされたのが1507年でコロンブスの死後ですので、コロンブスは死ぬまでこの地がアジアのインドであると信じていたことになります。というわけで、コロンブスがたどり着いた地域を現在でも「西インド諸島」と呼び、アメリカ大陸の原住民を「インデアン(インド人)」と呼び後に間違いが分かると「アメリカインデアン」等と訳の分からない呼び名になってしまいました。もうお気付きと思いますが「アメリカ」の呼び名は「アメリゴ」からきていますし、「コロンビア」の国名は勿論「コロンブス」由来と云う事です。

「アメリゴ」とアメリカインディアン

、ヨーロッパから移住した欧州民族は、アメリカ大陸において、原住民を追い払い、虐殺をなし、金銀財宝を略奪、鉱山で原住民を酷使、アフリカからは、奴隷を持ち込み農業に牛馬代わりに等やりたい放題の暗黒の時代に入っていったのです。

 追伸、南米の鉱山経営に比べると、作業は過酷であったものの石見銀山をはじめ日本の鉱山経営は評価できますね。今巷ではコロナ、コロナでマスク姿が普通ですが、石見銀山では、マスク(「福面」と呼びました)を使用した由、ひょっとしてマスク発祥の地かも。(銀爺)

江戸後期、石見銀山で使用された「福面(ふくめん)」日本最古のマスク?

福面(ふくめん)の図から再生したもので、絹製、中に針金があって空間が出来ることで呼吸がし易く設計した有ります。

 

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:24 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-20

☆マルコポーロ伝説・黄金の国ジパング☆

 当時、朝鮮半島から流れ出た石見銀等は東アジアの経済活動を刺激していました。当然アジアに進出したポルトガルにもその情報が入ったことでしょう。「そうだ、マルコポーロ伝説の黄金の国ジパングに行こう」的な感じで、幻の黄金の国を目指し種子島にたどり着いたのが、天文12年(1543)の「鉄砲伝来」だったのです。

突然ポルトガル人が日本に来たのです。話は全く通じることはありません。実はこの船は中国(明)の密貿易船、つまり「倭寇船」であり乗組員は中国人でした。(後期倭寇の実態は中国人が主でした)言葉は通じませんが文字(漢字)を書くことでそれなりに意味が通じた由。

 「種子島時尭(たねがしまときたか)」は当時16歳でしたが実質家督の継承がなされていたそうです。ポルトガル人の持っていた鉄砲に興味津々、2丁を高価で購入操作や火薬の作り方など学んだ由。国産化をなしています。

時は戦国時代、その後鉄砲は、堺、国友、根来などで大量に生産され、戦国大名は競って導入し始めることになりました。

種子島時尭(たねがしまときたか)

 鉄砲伝来の数年後、かの有名な「ザビエル」(スペイン人)も来日、彼はイエズス会の宣教師いわゆる「バテレン」です。そうなんです、ポルトガル、スペインはキリスト教(カトリック)の布教は欠かせないのです。続いて、「フロイス」(ポルトガル人)、「ヴァニャーニ」(イタリア人)とバテレンの来日などで大友宗麟等戦国大名をはじめキリスト教信者増えてゆきます。又、天正遣欧使節団として、4人の若者がイタリアローマに派遣されます。彼らが持ち帰った「グーテンベルク印刷機」活版印刷(キリシタン版)が行われました。しかし彼等が帰国したとき国内は豊臣政権下で、キリシタン追放令の後でした。ザクっと云うと、信長はキリシタンを歓迎、秀吉は交易は歓迎するもキリシタンを警戒、家康は弾圧と云う事になります。

天正遣欧使節

 秀吉、家康はキリシタンの何を恐れたのでしょう、一言でいえば国を揺るがす一揆と云う事になります。過って一向一揆に手を焼いた秀吉、家康ですが、一向一揆は一般民衆でしたが、キリシタンが一揆を起こせばキリシタン大名も加わることになりこれら勢力は無視できません。現にその後島原の乱では、幕府も手を焼いています。(銀爺)

天草四郎

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 05:42 | comments(3) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-19

☆ホップステップジャンプ・目指すはインド☆

 ポルトガルは西ヨーロッパで強力な中央集権政権を一早く確立、王命でインドへの航路を模索します。イスラム圏を回避しアフリカを迂回するとインドにたどり着くに違いないと考えたのです。勿論目的は香辛料です。

 ポルトガルはまずアフリカ西海岸へのルートを築き、次にアフリカ南端「嵐の岬」(当初ポルトガル船がこの地に来た時嵐で海が荒れていて先に進むことを断念したことで「嵐の岬」と呼ばれたが後にポルトガル王が、東方への航路発見に希望を抱き「喜望峰」としました)、そしてついにバスコダガマにより、目的地インドのカルカッタへのルートを開拓します。そうです、インドについたのです。

 ポルトガルは、インドの「ゴア」を占領し、「総督府」を建設しアジアでの拠点とします。せっかくはるばるインドに来たのだからもっと東にも行ってみようよ的な感じで、東南アジアに進出します。マレー半島の「マラッカ」、そしてモルッカ諸島(香辛料の産地)を占領。その後なんと中国の「マカオ」に居住権を獲得したのです。

香辛料の産地モルッカ諸島

 ポルトガルは当初中国(明)に国交を申し込みますが、明はポルトガルの商品には全く興味を示さなかったのです。我が国と交易したかったらもっとましなものを持って来いよ、例えば銀だよ。的な感じで相手にされなかったのです。当時の明は「北虜南倭」という頭の痛いことがあったのです。銀の需要は高まっていました。そして、この時期倭寇のやりたい放題に苦慮していました。

 実は、この時期の倭寇は、日本人主体の前期倭寇と異なり、その中身は中国人主体の密貿易商人(時には海賊行為も行う)これらが横行したのは、他でもない明自体の「海禁政策」(中華思想による朝貢貿易でのみ貿易できる)による密貿易の多発がもとなのです。頑丈なポルトガル船はこの煩い倭寇を撃破することで明(中国)の信頼を得マカオでの居住権を得たのです。以来インドの「ゴア」が返還されたのが20世紀半ば、中国の「マカオ」が返還されたのは20世紀末でどちらも長くポルトガルの植民地でした。(銀爺)

聖ポール天主堂跡(マカオ)

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:01 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-18

☆大航海時代の幕開け☆

 「だいこうかい」と云っても、前日調子に乗って、遅くまで梯子酒、二日酔いで頭が「ガンガン」鳴りながら飲兵衛が出勤するときの「大後悔時代」の話ではありません。

 肉を主食とするヨーロッパでは、古くから東方貿易によりアジアからコショウなどの香辛料が不可欠でした。

元々北イタリアの商人はインドから香辛料を輸入していましたが、15世紀オスマン帝国が地中海東岸を占領、ヨーロッパ人の東方貿易を阻害し、香辛料の価格は高騰します。又それより以前にはマルコポーロによる「東方見聞録」により、黄金の国・ジパング(日本)伝説も無視できません。一方技術の発展もありました、羅針盤の実用化、キャラベル船やキャラック船など丈夫な大型の造船技術などにより遠洋航海が可能になったのです。

とはいうものの、船を出すのは、超ハイリスク、超ハイリターンで簡単ではありません。

 初期の航海は、難破、遭難、外敵の襲撃、疫病、はたまた内部抗争等で乗組員の生還率は非常に低かったようです。当に、大航海時代の幕開けは、大後悔時代でもあったようです。

例えば造船費用や乗組員の給料、食料、医療用具等々。個人の力では到底かないません。これを成し遂げるには、強力な中央集権国家でなければ成し遂げられないのです。そして遠征が成功し、新航路を開拓し新領土が出来ると莫大な利益が得られ富と名声が得られるのです。いち早くこれを成し遂げたのが、強力な中央集権国家のポルトガルとスペインだったのです。

「キャラック船」

今一つ、16世紀初頭の宗教改革により、相次ぐ「プロテスタント諸派」の勢力拡大も見逃せません。カトリック国家であるポルトガル、スペインは航海には宣教師を同伴させ獲得した領土の民に布教活動をさせたのです。

つまり、日本に最初に来たポルトガルは、国の政策である商いとキリスト教の布教という二刀流外交だったのですね。(銀爺)

カトリック宣教師(バテレン)「フランシスコ・ザビエル」(と伝えられている)

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:11 | comments(0) | - |
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