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武士の給料

下級武士の給料は「蔵米取」又は「切米」と言い直轄地からの年貢で賄われます。春4分の1、夏4分の1、冬4分の2の三回に分けて支給されるので「切米」というとか、江戸の蔵前で支給されますが、受け取るのは「札差」という商人です。武家の米を受け取り運搬、一部は換金して届けるのが仕事です。米の換金は米問屋に売り渡され、それが江戸庶民に流れるという、システムです。

 

一方石見銀山ではどうでしょう。勿論札差などは存在しません、代官所で現物支給という事になります。

大森代官所の年間行事を見ると、

1月に地役人の扶持米の支給(使用人手当)

3月に春の切米支給(4分の1

6月に夏の切米支給(4分の1

11月に冬の切米支給(4分の2

12月に勤励手当(ボーナス)の支給

となっていました。

なんと、ボーナスもあったんですね。また、先日紹介した阿部家の7代目「光格」さんの義父(阿部家6代目)は、20才から72才の50年間勤め退職の際には銀5枚の功労金をいただいた由。(銀)

石見銀山・地役人「阿部家」裏庭

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地役人のサイドビジネス

石見銀山の地役人、303人扶持程度の給金では決して暮らし向きが良いはずはありませんですよね。しかし実際には給金以上の暮らしをしている地役人もいたようです。例えば京都の老舗店舗の高級お茶を取り寄せたとか、長崎でベルベット(ビロード)の羽織やカステーラを求めた、とか高級金魚を求め代官様にプレゼントした等とても303人扶持とは思えないお金の使い方をした由。

CC BYのライセンスを承諾されています。

 

また、金子の貸付等おおよそ30俵程度の給料ではありえない話です。(30俵と言えば、必殺シリーズの「中村主水」様クラスですから)。

実は、給金以外の副収入があったようです。例えば農業収入等、武士ですから表向きは出来ないはずですが、他人名義で行っていたようです。又、銀山町や大森の町に複数の土地を所有している地役人もいて、なかなかどうしてたくましい限りですね。代官様も見て見ぬふりしていたのでしょうかね。(銀)

銀山付役人(地役人)川島家裏庭

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勝源寺墓標から見えるもの

石見銀山には述べ59名の奉行代官がいましたが、在職中に亡くなった代官も少なくありません。代官様のお墓が多く残っているのも特徴です。恐らく、江戸周辺の代官所では現地に代官の墓標が残されていることは無い事から、江戸周辺では代官は現地に居なかったのでしょう。

43番目・前澤代官墓標

 

在職中亡くなったすべてが大森で亡くなったという事ではありません。江戸で亡くなった代官もいます。という事は、石見銀山代官に名があったからと言ってすべての代官様が大森に居たというわけでは無い事が分かります。また、その逆に家族の墓標がある事から家族を連れて赴任する代官もいることが読み取られます。

次の写真は、勝源寺墓標から、40番目・大岡代官母(享年77)の墓標(右)と57番目加藤代官の弟の墓標(左)です。

加藤代官の弟の墓標(左)  と  大岡代官の母の墓標(右)

当然代官手代も在職中に亡くなる者もいたことが墓標から判明します。また、現職代官が亡くなると、代官手附は俸禄が保証されていますが、代官手代は一大事です。雇い主がいなくなることは収入がなくなるという事ですから恐らく、大急ぎで江戸に帰り次の就職口を探さねばなりません、当にリクルート活動です。

代官手代と代官様、相性もあるようで特定の代官について回る手代も居れば、雇い主の代官を次々代わる手代もいたようですし、なかには代官様を叱りつけるほどの強者もいたとか、代官も手代もいろいろ多様化があったようです。(銀)

石見銀山2代目奉行竹村丹後守道清の墓所

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代官所の給料

時代により、あるいは個々により違いがありますが、概ね代官様以下の代官所の給料を調べてみました。(少々乱暴な調べ方ですが代官所のイメージがつかめると思います)

給料は、切り米(本給)と扶持米(家来又は奉公人手当、1人扶持は5俵としました)からなります。

代官所には、代官様、代官手附、代官手代の他にそれぞれの下働きする者がいます。そして石見銀山にはその他に、銀山付役人、銀山付同心、銀山付中間で成り立っています。それぞれの給料から見ると

代官様:旗本、15070人扶持(150俵以上の代官もいます)。

代官手附:御家人、50俵未満(概ね302人扶持程度)

代官手代:お抱え(臨時役人)、205人扶持程度

銀山付役人:お抱え(父籍番代)、303人扶持

銀山付同心:お抱え(父籍番代)、152人扶持

銀山付中間:お抱え(父籍番代)、81人扶持

となります。

これを見ても、代官手附と銀山付役人の格は微妙ですね。ただし、手附や手代と銀山付役人は職種が違いますので普段対立することはほとんどなかったのでしょう、むしろ手附、手代の中には知識人、や文化人も多くお茶や俳句などの手ほどきを受けるなど文化の交流にも貢献したようです。

代官所敷地内の旧稲荷社跡の石灯篭1

代官所敷地内に過って稲荷神社があり歴代の代官及び代官所役人に大切にされていました。その跡地に石灯篭等が見られます、よく見ると献灯者の名が刻まれていました、代官手代又は代官手附の名と思われます。(銀)

代官所敷地内の旧稲荷社の石灯篭2

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代官手附VS銀山付役人

江戸後期の寛政年間(17891801)より、代官手附の派遣がなりました。これは役のない御家人で羽織袴役(概ね30俵以下の小役人、)の救済措置でした。江戸期武士の格と服装は決まりがありました。

羽織

石見銀山にも当然手附が派遣されましたが、ここで問題になったのは代官手附と地役人(銀山付役人)の格付けでした。同席する時どちらが上座に座るかの対立が生じました。代官手附は、我々は天下の直参である、地方の田舎武士とはわけが違う。これに対し銀山役人の言い分では「我々銀山役人のご先祖は「吉岡隼人」「宗岡佐渡」のように将軍家康様に謁見した者もいるこれはお目見え以上ではないか、手附の方々のなかで将軍様に謁見した者はいるのか?いないであろう、ゆえに我々銀山役人のほうが格上だ」的なことを言ったとか。

方や天下の直参、此方銀山付役人、代官様もほとほと困ってしまったとか。文化年間(18041818)上野代官は江戸表に身分の伺い(裁定)をし、代官手附が格上との裁定がなされましたが、服装が問題になりました。銀山付役人は古来より裃(カミシモ)で出仕、仕事中も裃着用でした。一方代官手附は紋付き袴で、裃を着用できません。

 

裃(かみしも)、(左・銀路、右・Tガイド)

羽織袴姿の下座に格上の服装した銀山役人が着席するという異様な光景、これ見よがしに裃姿を誇示する銀山役人、カッカと頭に血が上る代官手附等の光景が想像できますね。結局服装の裁定も“銀山役人も羽織袴で出仕せよ”とのことで一件落着したそうです。この問題はその後も後を引き代官様が交代すると銀山役人は素知らぬ顔して裃で出仕し、あわよくば上座になろうとしたとかしないとか。銀山役人にすれば、過っては、銀も大量に出て銀山役人も羽振りが良かったのに銀は出ない、銀山付役人は軽んじられるそんな思いがあったのでしょうか(銀)

 

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江戸時代のシステム

代官は江戸から遠い地方に赴きます。従って目も届きにくく不正の温床になりかねません。8代将軍吉宗の時期口米の改革が行われました。代官は、年貢の他に口米を徴収それが代官所の経費とされていましたが。徴収率は一定しませんでした。代官次第で高額の口米を徴収することもあり不正の温床となる場合もあり享保10年(1725)口米は一度幕府に納め、改めて各代官所に支給されることになりました。また代官の権限は少なく、任期も数年と短いものでした。権限が大きく任期が長いと、不正やパワハラが起こるのは世の常という事なのでしょうね。

向陣屋跡(代官所前駐車場)から見た代官所門長屋

また、八代将軍吉宗が享保8年(17236月施行した、「足高の制」は、能力はあるが禄高の低い者、家柄が低いためにその役職に就けないという不都合を解消、(江戸期役職にはそれなりの禄高の基準がありました)。在職中はその不足分を支給されました。例えば俸禄100俵の者が代官になるとその期間中は50俵の不足分が上乗せされて150俵が支給されます。従来は加増という形でありましたが、幕府の財政が圧迫されるのを解消する意味もあったのでしょうね。石見銀山の場合、調べてみたら延べ59名中三分の一に近い代官様が該当していました。因みに、江戸の代官自宅は在職中には出張所になり代官手代が数名勤務し地方の代官所と江戸の幕府との連絡などをします。そのため自宅の改築もすることになります。(銀)

内側から見た代官所長屋門

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代官制度の改革

石見銀山では延宝3年(1675)に奉行支配から代官支配に変わりました。よく産銀量が落ちたのが原因と耳にしますが、実は幕府のシステム変更の過程によるものです。

江戸初期は家康の信任のもと実務を取り仕切り、大きな権限をもち、検地、灌漑、治水、鉱山開発等独自のノウハウを持つ代官頭(大久保長安・彦坂元正・長谷川長綱・伊奈忠治)がいて、さらに在地土豪や豪商等の代官がいました。つまり、初期の代官は土地に根ざし代々家職として継承することが多く、それは個人経営的な年貢請負人的なものが多かったようです。石見銀山では、地役人約百名が「大久保長安」から直接指示を受けたようです。

代官頭・大久保長安

代官頭4名はそれぞれ、江戸を取り巻く形で陣屋(本拠地)を構、大きな力を持ちましたが、二代将軍秀忠の頃には幕府の制度も整備され、死亡や失脚してゆく中「伊奈家」はかろうじて代官として業務を狭めて存続するも江戸後期改易、華々しく活躍した代官頭は無用の長物となったようです。生前「年寄(後の老中各)」に名を連ねた「大久保長安」の一族粛清も一つにはこのような流れが影響したのかもしれませんね。

伊那忠治ゆかりの埼玉県伊奈町

彦坂元正のかるた(神奈川県戸塚)

その後、5代将軍「綱吉」の頃には財政支出も増え財政難が出始め代官の監査が強化され代官の大量処罰がなされましたが、一概に代官の不正というより、システムの欠陥によるものと思います。

悪名高い「犬公方・綱吉」は、どっこい、在地と無関係の者を代官として派遣、人事の流動化をし、代官職を、代々引き継がれる「家職」から単なる「職」として位置づけました。この「天和の治」により代官の意味は大きく変わりました(石見銀山が代官支配になったのはそんな流れの一コマだったようです)。「犬公方・綱吉」ちょっと見直してみませんか?(銀)

5代将軍徳川綱吉

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豊栄神社のお話

龍源寺間歩への道中「豊栄神社」があります。(修復中)祀られているのは戦国武将「毛利元就」。

豊栄神社

元々山吹城にあった元就の木像を元就の孫「輝元」が戦火で失われるのを配慮し、「長安寺」を建立ここに移しました。慶長5年(1600)関ケ原戦いで徳川の直轄地となり毛利の手が届かなくなり、寺は荒れ天和2年(1682)智向住職は、木像をもって萩に赴き修復を願い出ましたが、毛利家は幕府への配慮からそれもかなわず、木像も取り上げられ、代わりに画像をもらい供養するようなりました。その後13番目の「井口代官」は、木像の代わりの画像であるという証が無いと寺の領地は認めないと言い、住職は毛利と協議の結果新たに別の木像を造りもらい受けることになり、井口代官はそれを了承、画像と引き換えに新木像が安置された由。

「毛利元就公菩提所木像安置・洞春山・長安寺」の碑

時代は移り慶応2年(18667月長州戦争でこの地を占領した長州軍先鋒隊(第3大隊2番中隊・172名)は、「長安寺」に「元就公」の木像が安置されているのを知り感激、本殿、拝殿、随神門、鳥居を建て、灯篭、狛犬、水桶等を献納。中隊はその後「鳥羽伏見」の戦に赴きます。

「第3大隊2番中隊」が刻まれた灯篭

維新を表す「維歳丁卯秋七月」が刻まれた灯篭

大政奉還の以前で戊辰戦争の前年を表しています

大森役所は「武田伊兵衛」が代官として任務に就きました。明治になり正式に朝廷より「神号」が与えられ明治3年遷宮式が行われたそうです。

時は移り昭和18年未曽有の大水害で神社も多大な被害を受けましたが、神社には氏子もなくまた、戦時中で男手もなく応急手当を余儀なくされたことが今回の平成の調査で確認されました。(銀)

拝殿(ブルーシートは発掘調査用)

 

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石見銀山発見伝説

私たち、石見銀山ガイドの会・ガイドが歴史を語るとき、主に基になっている資料は「銀山旧記」ですが、これには、南北朝時代自然銀を採取したことから、大永年間に博多の商人「神屋寿禎」が日本海を航行中、山が光るのを見て銀山発見・開発そして「灰吹き法」という銀の製錬法を導入、戦国時代のし烈な銀山争奪戦から江戸初期の銀山繁栄の様子が書かれています。しかし、江戸時代後期に編纂されたもので、複数の類本や写本・軍記物語等からできたものでその過程での移し間違い、誇張等が認められます。

「石見銀山資料館」を始め各方面で石見銀山の解明が進む中、当初銀山発見大永6年(1526)が正しくは大永7年(1527)である事が有力視されています。

元大森小学校教諭・丸亀貴彦先生画「山が光った!」

 

銀山発見に注目すると、「おべに孫衛門えんき」には大永6年丁亥(ヒノトイ)「三島清右ヱ門」が鷺銅山・三人の技術者を連れて入山、「神屋寿禎」は三島と連名で山主となり「小田藤左ヱ門」を代官として現地に派遣し、米や銭を入れ銀を購入とされ、寿禎本人は現地に赴いたとは記されていません。同様の記述が「銀山乃初」にも記されていますが、唯一異なるのが、入山の日です。「おべに」では大永6年丁亥(ヒノトイ)で、「銀山乃初」では大永7年丁亥と記されています。これが、江戸中期に書かれた「銀山記」では大永6年丙犬(ヒノエイヌ)とされ、「寿禎」の話を聞いた「三島清右ヱ門」が三名を連れたとあり、ここでは「神屋寿禎」が発見者で、「三島清右ヱ門」が最初の入山となっています。

「仙の山」頂上付近「石銀(イシガネ)地区」

 

因みに、大永6年は丙戌(ヒノエイヌ)であり、大永7年が丁亥(ヒノトイ)ですので、「おべにえんき」が年号又は干支のどちらかを間違えているのです。

これに関しては古文書ではなく「清水寺」の棟札に「或人曰大永7丁亥年以降堀覓」とあることから、「おべにえんき」が大永7年とするところを大永6年とし、「銀山記」で6年として干支を丁亥から丙戌に是正、銀山旧記でこれを採用したとみるべきでしょう。

歴史を解明する時、一つの古文書を鵜呑みにするのでなく、複数の古文書を照らし合わせて判断しなければならないのでしょうね。

今も石見銀山では、膨大な古文書の地道な解読がなされ発表されています。我々石見銀山ガイドはそれらをもとにして、お客様に分り易い表現でのガイド活動に日々取り組んでいます。(銀)

自然銀を含む良質の銀鉱石

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銀山以前は修験の山・銀峯山

伝承ですが、石見銀山「仙の山」はその名の通り「仙人の住む山」で修験の山であったそうです。

仙の山(銀峯山)

今は龍源寺間歩への遊歩道、道中にある「清水寺(セイスイジ)」は元々、「仙の山」の頂上にあったもので、推古天皇28年(620)尊隆上人が清水の山に住む楊命仙人より授かったインドの仏師「毘首羯痺(ビシュカツマ)」作の「十一面観世音菩薩」(高さ約6僉砲鯔楝困箸靴拭崚恵啝」というお寺だったそうで(後十世紀末「行基菩薩」が訪れ、高さ80冤召蠅僚衆賁夢兩げ司郢Г梁瞭發砲修譴鯒爾畤靴燭文翹楝困箸靴燭修Δ任后)

清水寺に伝わる役行者木像

また、こんな話はいかがでしょうか。7世紀後期修験の祖「役行者小角(エンノオヅノ)」が奈良の「金峯山」に対する「仙の山・銀峯山」を訪れた頃

役行者ゆかりの奈良県「金峰山」

銀山と仁摩町大国を結ぶ街道(鞆が浦街道)の谷川沿いに妖怪が現れ旅人を大きな口で一飲みにしてしまい旅人に恐れられていました。

役行者小角

その話を聞いた「役行者小角」は日暮れ近くその場所で妖怪の現れるのを待ち、やがて現れた巨大な妖怪ハンザキと夜通し激しく戦い、明け方近く役行者小角の止めの法力で妖怪を大きな岩に変えてしまいましたとさ。(銀)

役行者に岩にされたげな(されたらしい)鞆が浦街道の「ハンザキ岩」

 

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