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シルバーラッシュは何故起きたP-2

☆世界初の紙幣「宗(中国)の「交子」」が生まれた背景☆

 日本にも多大な影響を及ぼした唐の後、中国四川地方に「蜀」と云う国が出来ました(三国志の「蜀」ではありません、五代十国時代の「蜀」です)。経済活動が活発で銅銭が不足したのです、四川地方では銅の産出が乏しく代替えとして産出量の多い鉄で、鉄銭を大量に発行しましたが、銅銭に比べ価値が低く(十分の一程度)持ち運びに難がありました。

 そこで四川の商人が組合を作り重い鉄銭を預かり、代わりに預かり証書を発行したのが「交子」でした。その後これに目を付けたのが「五代十国」の後の政権「宗」の政府で、民間の交子の営業を禁じ宗の政府として「交子」を発行流通させたのです。これにより約束手形ではなく、世界初の紙幣となったのです。そういえば、紙も印刷も中国で生まれたのですから当然と云えば当然なのでしょうね。

左が「交子」、右が元の「寶鈔」

 それは、「宗朝」の後の「元朝」にも引き継がれ、「寳鈔(ほうしょう)」を発行します。宋は、銅銭(宋銭)を大量に発行しますが、経済には追っつきませんでした。元朝は銅銭主義をとらず銅銭を鋳造することはしなかった。結果銅銭は限定的な使われ方をし、元の時代にだぶつき、銅銭である「宋銭」が後に大量に日本に輸出されたのですね。

彼のマルコポーロは、東方見聞録で、元の皇帝は、紙を金に変える当に錬金術師である。と紹介しているそうです。

マルコポーロ

補足

中国の歴史は色々複雑ですが、ザックリと下記の時代の話です。石見銀山が注目を浴びたのは明(後期)の時代です。(銀爺)

              唐☞五代十国☞宗☞元☞明

618907  唐

907960  五代十国

9601279 

12711368 元

13681644 明

五代十国時代の中国地図

次回から510国後の「宗」「元」「明」について順次ザックリと見てみる予定です。

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:29 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-1

 

 石見銀山が世界の注目を集め、シルバーラッシュとなったのは何故でしょう。一言でいえば中国(明朝)の事情、と云う事になりますが、そこら辺をもう少し詳しくできませんか?というSNSでの依頼もあり、少し長くなるので当ブログを使ってシリーズでやってみようと思います。歴史はその一部分を見ただけではなかなか見えてこないことも過去をさかのぼってみると深く理解できると思います。

 まず、結論から云うと、1516世紀中国では「北虜南倭」と云う二つの頭の痛い問題がありました。北虜とは、北の民族モンゴル族の度重なる侵入であり、南倭とは南の海で「倭寇」という貿易商人が私貿易、密貿易、海賊行為等やりたい放題がありました。

一方明朝(中国)の貨幣制度が崩れ、銀の需要が半端なく大きくなり、世界の銀は明に吸い込まれ、当時銀の産出国であった石見銀山が世界の熱い視線を浴びたということです。

明朝を悩ませた、北虜南倭

 これに、当時アジアに進出したポルトガルが直接国交の無い明と日本の仲介し明の欲しがる銀を日本から持ち出し明からは日本が欲しがる明の良質な絹を日本に持ち込んだということです。

では、次回からはそこに至る歴史を述べることにいたします。(銀爺)

南蛮貿易(16-17世紀、狩野内膳画の南蛮屏風より)

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:51 | comments(0) | - |
井戸公頌徳碑

 井戸平左衛門と云えばこの地方では知らない人がいないほど最も親しまれている俗に「芋殿様」と呼ばれる19番目の石見代官です。その頌徳碑の数は大田市で100基、島根県内では500基ばかり、中国地方では800基くらいあると云われます。

 そこで、今回は私の町鳥井町の頌徳碑を調べてみました。そこから見えたものをご紹介します。

大田市鳥井町の井戸代官・頌徳碑

 石碑の背面の文字、維旹(この時)天保己亥之冬至日後糓旦」の己亥(つちのとい)から天保1011月の冬至の吉日と云う事ですので、太陽暦でいえば183912月二十日過ぎくらいでしょうか。

 では、なぜ没後百年以上経ったこの時期に建てられたのでしょうか?

実は、天保4年から始まった天保の大飢饉はその後数年続き天保10年はその終息の年でした。また、天保9年は疫病が大流行したのです。つまり、この未曾有の災害を乗り切って生き延びた喜びと感謝から村を挙げて井戸平左衛門こと「芋殿様」への感謝を表したのです。それが、石碑背面の左に刻まれた文字から読み取れますね。

「本邨(村)鳥井挙里黙首等拝首●●顙謹建」

(注)●印は変換不能の文字です。

石碑に刻まれた文字、天保己亥は天保10年(1839)

 我が鳥井村は享保の飢饉で被害が大きく井戸代官より享保17年の年貢免除を受けていることも見逃せません。

井戸公の頌徳碑の特徴は、建設費用は民がみんなで少しずつ金を出し合って自発的に建てられているのも注目するところだと思います。

 明治維新「廃仏毀釈運動」が全国で起こりました、井戸公の頌徳碑の多くに戒名が掘られていたことから、打ちこわしの対象となり多くの頌徳碑が明治維新の時期破壊されました。恐らく200基を超える頌徳碑が壊されたと聞きます。この状態を憂いた鳥井村の「宮脇玲典」氏は親交のあった川合物部神社神主・金子宮司に相談、金子宮司は出雲大社の千家尊福宮司に話を持ち掛け、井戸神社設立の運びとなりました。この話を聞いた「勝海舟」は「私の先祖は物部と聞く、これも何かの縁、というわけで井戸神社の扁額を書きました。扁額は現在複製した新しいものが井戸神社の鳥居にかかっていますが、本物は石見銀山資料館にあります。(銀爺)

石見銀山・大森町の井戸神社・鳥居に架かる扁額は勝海舟の書と伝わる

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:50 | comments(0) | - |
棄捐令(キエンレイ)って何?

 江戸の武士の給料は米で支払われました。しかし武士が実際に米を受け取りに行かず、「札差屋が支給日に蔵前に出かけ米を受け取り食料以外のコメを換金して得意先である武家に届けます。札差の手数料は100俵につき1分と米の売却料2分で、そうぼろもうけというわけではありませんが、直参旗本や御家人の給料はもともと低く抑えられているうえ基本昇給はありません。物価の上昇、米価の下落は実質武士の収入減となり体面を重んじる武士は借金するしかないのです、そこで米を担保に武士は札差から借金をするということです。当時の金利は高く18%くらいですからこの収入は札差にとってはリスクの無い美味しい商売なのです。一方体面を重んじる武士にとっては、無審査、即日融資で、悪循環、多くの武家がサラ金地獄状態になりました。

 これを救済する目的で、寛政の棄捐令(きえんれい)が発令、5年以前の借金は棒引き、その後の借金の金利は6%と三分の一に抑えられました、また新たな借金は12%に設定され、多くの武家はほっと一息つけましたが、この時の札差による借金総額は江戸幕府の年間支出を上回っていたそうです。その後札差による貸し渋りのため、逆に困窮する武家が多発したそうとか。

 

 棄捐令は、その後も天保、文久にも発布されています。根本的に幕府体制は行き詰まっていたようですね。これは地方の大名家でも同じで、下級武士ほどその影響は大きく、脱藩者が諸国にうろうろしたのも、倒幕の大きな要因なのでしょうかね。(銀爺)

 

 

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:36 | comments(0) | - |
流れ鯨

 江戸期、鯨が上がった場合は、代官所に届けなければなりませんでした。文化723日(太陽暦の181037日)鳥井村に鯨が水揚げされました。それに対し隣の和江漁民より代官所に異議申し立てがあったのです。要約すると、先に見つけたのは和江で、仲間を呼びに行っている間に鳥井が鯨引きを始めていた、その後東の3浦(久手、柳瀬、波根)の漁民と取り合いになり、鳥井から和江漁民に助けを求められ口約束で利益は折版との約束を反故にした、ということです。代官所の裁定は、和江浦の云い分は裏付けが無いということで、手伝った6艘の費用を支払うに止まりました。因みにこの時の代官は、銀山ガイドならば誰もが知っている「上野四郎三郎代官」で、この年別件で罷免されています。

 この事件鯨事件を調べて興味ぶかい事が見えましたので紹介します。

分類

    流れ鯨:沖合に死んで漂流している鯨

    寄り鯨:上記の鯨が浜に打ち上げられたもの

    突き鯨:銛で仕留めた鯨

    値段は、1頭あたり、銀10貫前後

山陰地方は、江戸期流れ鯨が頻繁にありました、何故でしょう?

鯨の漂着頭数を年代別にすると

    1450年〜1650年の200年間では僅か2

    1651年〜1750年の100年間で11

    1751年〜1850年の100年間で22

 1600年代半ばに長門の国(山口県)で捕鯨漁が始まりそれにより流れ鯨が多くなったのです。10隻ばかりの舟で鯨を銛で捕鯨するのですが、手負いの鯨を逃すことも度々あり、その傷ついた鯨が弱って流れ鯨になるのです。大田地方にはその間7頭の鯨が上がっています。(江津6頭、浜田14頭)

物事にはそれなりの理由があるのですね。(銀爺)

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:09 | comments(0) | - |
銀山旧記

  石見銀山を語るときその母体となっているのが「銀山旧記」という古文書です。実はこの銀山旧記なるもの数多く残されています。よく知られているのが、野沢家文書の「銀山要集」で文化13年(1816)に銀山付役人「大賀覚兵衛」が編集したものです。内容はほぼ同じで高橋家文書に「銀山旧記」もあります。

この度思いがけなく「銀山記」の古文書が見つかりました。表題から、文政13年(18305月に因幡屋・米平氏(いずこの因幡屋かは不明)が写し書かれた「石見国銀山記」を、大田町の「山根亀十」氏が嘉永6年(18531月に写した書のようです。

石見銀山古文書「石見國銀山記」(赤文字は実際にはありません)

 37ページからなる内容は、「大賀覚兵衛」のとほぼ同じですが、省略された部分もありまた、最後に歴代の奉行・代官が記されています、文化13年以降、文政13年(1830)までの代官も記されています。

阿久沢代官、大岡代官、蓑代官の名もあります、恐らくこのページが最後であったと思われます。

このページが元本の終わりだったかも「阿久沢」「大岡」「蓑」代官の名が見えます

 最後のページには、山根氏が(おそらく)書き加えたと思われる嘉永6年までの4名の代官が追加されていました、ただしこの間の3名の「預かり」(代官が死亡等で一時的に兼務)代官の名は省略し載っていません。

最終ページ、その後の4名の代官名が見えます「嘉永六・丑正月」に写本されたのでしょう

追伸

 松江城のお殿様「京極忠高」も石見銀山を管理しました。石見銀山3番目の奉行「武村籐兵衛」死去の後石見銀山は当時の松江藩主京極若狭守忠高が預かりました。(銀爺)

赤く囲みに「京極若狭守」の名が見えます

 堀尾家→京極家→松平家と継がれた松江城

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
山師と山相学P2

 金や銀の鉱脈を発見する手段として、植物の状態から探し出す方法があります。石見でも「葱芧」の類や草木の色(状態)等から探したそうです。ねぎ類の仲間は痩せた土地に育成することから、のびる、あさつき、等や茅(かや)の色が変化しているのを始め辺りの草木色、状態の変化も参考にしたそうです。また、「金山草」別名「ヘビノネゴザ」というシダも銀山固有の植物となっています。

龍源寺間歩入り口の「金山草」(ヘビノネゴザ)

 当初は、崖など、地層が崩れた場所などで鉱脈を見つけて採掘します、これを露頭掘りと云います。鉱脈が地中に伸びていれば、そのまま掘り進みます、これを「𨫤押し堀(ひおしぼり)」と云います。これらの採掘方法は鉱石そのものを掘っているため効率は良いのですが地中を掘ると湧き水が出るためその時点で採掘は出来なくなる欠点もありました。石見銀山開発初期はこれらの方法が主流でした。

代表的な露頭掘り「三本露頭」黒っぽい凹んだ部分が銀鉱石採掘跡

 一旦がけ崩れなどで表面に姿を出した鉱脈も長い年月で表面に土が積もり鉱脈が見えなくなっている所は前述したそこの草木の状態で鉱脈の有無を探し当てるのです。

具体的には、霜に注目する場合、霜が降りると草は一面白くなるが、鉱脈の上に生えた草は白くならない。また、立木に注意を払う場合、鉱脈に生えた立木は春になると葉は青みをおびるか鉛色になり、小枝の先は黒みをおびる等不自然な色になるそうです。

これらを、陰陽五行の相生・相克で説明すると、土は金を相生、金は水を相生し、金は木を相克という事になるのですね。(銀)

相生、相克

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
山師と山相学

 「やまし」といえば「いかさま師」を連想しますが、石見銀山では大変優遇された特権階級でした。石見銀山で山師と認められると苗字帯刀が許され、武士に準じた扱いとなります。

一般には、鉱脈の発見、鑑定、鉱石の採掘事業を行う等の他、投機的な事業で一攫千金をねらう投機師的な要素もあるようです。

江戸初期石見銀山で大活躍をした山師・安原伝兵衛

 江戸中期に「佐藤元伯」の「山相秘録」なるものがあります。言わば山師の虎の巻のようなもので、山相学(人相、手相のように山にも山の相がある)の本です。

要約すると、夏の雨上がりの昼間北側から遠目に山を見ると山が光って見える事で鉱山が分かる。これが第一段階で「遠見の法」。

 次に行うのが「中夜望見の法」で眠っている金属の種類を見分ける方法ですが、夏から秋にかけて月のない良く晴れた日の夜繰り返しよく観察すると、金は華、銀は龍、銅は虹、鉛は煙り、錫は霧に似た精気が立ち上る由。

そのメカニズムは、夏季の暖かい雨が地中の鉱物を蒸し太陽は地下に廻って鉱物を熱し、その結果鉱物はそれぞれ特有の精気を空中に発散するのだそうです。

山師の虎の巻・山相秘録

 果たしてこの方法で鉱山が発見できるとは到底思えませんが、山師たちは大切にしたのですね。精気が見えないのは修業が足らないという事なのでしょうね。

 現在は理論を立てその後に結果を見つけますが、江戸期は実態が先に有りその後に理論を当てはめるという事でしょうか。又風水や陰陽五行を当てはめるなど、お見事と褒めたくなるような理論をも当てはめています。そんな中、川下で鉱石を見つけ川をたどって上り鉱山を見つけるような実践向きの発見法もあります。

 いずれにしても山師の山感に頼ることになったのでしょうかね。鉱山を発見すれば文字通り「一山当てる」という事でハイリスクハイリターンの世界である事は否めませんですね。一山当てることは男のロマンだったのでしょうかね〜。(銀)

山組頭・高橋家住宅

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
間歩、銀だけではないよ

 石見銀山には沢山の間歩が点在しています。一般に石見銀山の間歩といえば銀の採掘の為の坑道ですが、実は他の目的の間歩も存在します。今回はそんな間歩を紹介します。

龍源寺間歩に行く道中の中ほどにある「新切間歩公園」ここは秋の紅葉が美しく、トイレ、上水道、そして東屋のある龍源寺間歩への道中一休み出来る絶好のポイントです。ここは文字通り「新切間歩」という公営間歩(御直山)ですが、開発の目的は排水溝でした。そのため山の一番標高の低い位置にあります。他の間歩から出た湧き水をこの標高の低いこの間歩に流し排水溝とするためでした。実際にはこの間歩からも思いがけなく銀が産出しボーナスが支給されたそうです。縁起の良い間歩ですから、龍源寺間歩への道中お参りして御利益いただきましょう。

新切間歩

 他に、間歩は一般に崖などに坑口がありますが、時に平坦地に坑口を空けている間歩もあります。これは「立坑」で現在石見銀山では30っか所くらい確認されているそうです。目的は地下の坑道につながり、坑道内の空気の流れを発生させた空調設備という事になります。石見銀山山歩きする時はルートを外れないよう願います、大変危険です。(ルートは安全です)変わったところでは、水間歩と云うのが存在します。極楽寺本堂裏には水を得るための水間歩があります。ここは「龍女伝説」なるものがあり仙の山の龍がこの地に水を出してくれたとか。

極楽寺の水間歩(仙の山の龍が水を出してくれたとか)

  また、大森小学校隣の「西本寺」の裏にも水間歩があります。普通水を得るには地面に垂直に掘りますが(井戸)言うなれば横穴式井戸とでも言いましょうか、間歩を掘れば水が出るという銀採掘には厄介な問題を逆手にとった知恵ですね。(銀)

西本寺裏にある水間歩

西本寺

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
銀に目覚めた日本

  石見銀山に「灰吹き法」という銀の製錬法が導入されるとその後驚くべき速さで日本国中に銀山開発が伝播しました。実はそれ以前のわが国では銀は貴金属ではありましたが金とは違い通貨という考えは無かったのです。しかし、銀があれば海外の魅力的な物が手に入る事を知ると一変します。戦国大名は鉄砲に使用する火薬の材料「硝石」等を手に入れるため銀への関心が高まりました。

天正3(1575)長篠合戦(鉄砲が大量に使用された)

  兵庫県の生野銀山は天文111542)銀鉱石を石見に持ち帰り有望な銀鉱石という事で石見銀山から技術者がきて開発が始まりました。一方佐渡銀山は同時期に鶴子銀山が開発、慶長元年(1595)には、石見銀山から山師を招き本格的な坑道による採掘始まっています。佐渡の銀山発見伝説が興味深いのです。“越後の商人何某かが日本海を航行中佐渡の山が光った云々”これって石見銀山発見伝説と全く同じ(石見は博多の商人)です。

佐渡金山の「道遊の割戸」

  石見と佐渡はその後もかかわりが深く、江戸初期にはどちらも「大久保長安」が管轄していたため、石見銀山の地役人「宗岡佐渡」も佐渡の代官として活躍しています。また、興味深いのは鉱山関係者のみならず漁業漁師も石見から移住していたそうです。これは、急激に増えた佐渡銀山の食糧不足を解決する手段の一つなのです。また、佐渡には石見から移住した人の子孫らしい、「石見(いしみ)」姓があるそうです。(銀)

石見銀山地役人・宗岡家

 

 

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