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シルバーラッシュは何故起きたP-16

☆南蛮人、紅毛、毛唐、バテレン☆

 石見銀をはじめ日本銀は、海外から熱い視線で見つめられます。種子島の「鉄砲伝来」を機にポルトガル、慶長5年の「リーフデ号」事件後のオランダの登場等々、徳川幕府が始まると家康は「糸割符制」を導入、「茶四郎次郎」等特定の御用商人に生糸の輸入窓口を限定します。当時日本の主な輸入品は中国産の「生糸」でした、日本での生糸の値段は外国商人の思いのままで輸入価格の上昇に閉口していたのです。この日本の商人の競り合いを無くし生糸価格の安定を目的にしたのが「糸割符制」だったのです。

京都の御用商人「茶屋四郎次郎」木像

 処で、「南蛮貿易」とは?「南蛮人」とは?又、「バテレン」「紅毛人」「毛唐人」等その意味は?

当時ポルトガルはアジアに進出していました。日本から見るとポルトガル人は南から来た人です、簡単に言えば「南から来た野蛮な奴ら」ということです。ポルトガルは商いと宗教は一体しています。キリスト教(カトリック)宣教師が「バテレン」と云う事です。

 一方家康に気に入られたのが「オランダ」この国はプロテスタントでその上商業と宗教を切り離して国交が出来家康は面倒くさいポルトガルからオランダに乗り換えたのです。1600年大分県に漂着したオランダ船「リーフデ号」は当初海賊船で悪い奴らとポルトガル人から聞かされていましたが、家康は吟味の結果「こっちが(オランダ)が良いじゃん」的な感じでなんと乗組員の「ウイリアム・アダムス(三浦按針)」と「ヤン・ヨースデン(耶揚子)」は家康に取り立てられ現在の東京「八重洲」は「耶揚子」が訛ったものだとか。ポルトガルやスペイン人を「南蛮人」と呼んだのに対し、オランダ人は「紅毛人」といいます。

復元された「リーフデ号」

 「毛唐人」元は中国人を指しましたが一般に外国人を言います、つまり毛色の違った人と云う事です。これらは、いずれも相手を見下したいわば差別用語としてあります。因みに「白人」は元々肌の色を指したものではなく「白痴な奴ら」であったそうです。異国の文化、技術や知識に目を見張ながら一方で彼らを見下したい気持ちの表れとでも受け取るべきでしょうかね〜(銀路)

南蛮人図(ポルトガル)

 「シルバーラッシュは何故起きた」シリーズもいよいよ次回より最終章になります、最終章では、南蛮貿易がどのような経緯で始まったかを検証する予定です。

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:12 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-15

☆天下の御山☆

 豊臣秀吉は、金銀山は公儀の御山という考え方にします。つまり金銀山は国家(豊臣政権)のものだよ、と云う事です。とはいえ少なからず抵抗はあるはずです。直轄地には奉行や代官を派遣、その他の金銀山からは、金銀山を領有する有力大名に委託する等の形で通常1割程度の運上銀を吸い上げました。秀吉の元には全国から大量の金銀が集まったのです。

豊臣秀吉

 では、石見銀山の銀はどうだったのでしょう、実は石見銀山の銀が秀吉に納められた事実は無いのです。一部の書物には毛利と豊臣の共同経営ともありますが、その事実は無いのです、古文書に書かれているのは、石見新銀山からの銀は確かに納められていたのですが、これは石見銀山を除く他の銀山の銀です(久喜大林銀山等)これらは石見新銀山として石見銀山とは別の銀山なのです。ではなぜなのでしょう、一口で言えば豊臣と毛利の力関係があると思いますが、実は毛利元就は石見銀山を手中に収めたとき、時の「正親町(おおぎまち)天皇」に銀を送っています、この時石見銀山は天皇家の銀山で、毛利はその永代代官と云う形にしていたのです。つまり毛利家の一存ではなりませんよ、的な感じです。

御取納丁銀(元就が扇町天皇に贈ったと云われる石見銀)

 ともあれ、秀吉の元には全国から大量の金銀が入り絶大な権力を握ることになったのです。これは徳川政権にも受け継がれ、石見銀山も例外ではなく、慶長5年の関ヶ原の戦いの僅か10日後には銀山周辺に「禁制」を出しています。内容は、騒ぎを起こすな、放火をするな、盗みをするな、的な意味の簡単なものですが、これにより「石見銀山は徳川のものだよ」ということです。その年のうちに代官頭の「大久保長安」「彦坂小刑部」の大物が使わされています。実は、この時まで家康の領地は東日本に集中し西日本は手付かず状態でした。石見銀山は家康にとって財政的にも地理的にも重要な足がかり的な意味であったのです。これを機に天下統一に拍車がかかりました。(銀爺)

慶長5年(1600)石見銀山領に高札された「禁制」

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:06 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-14

☆銀山を領有するってどういう事?☆

 石見銀山を訪れるお客様には、大内、尼子、毛利等戦国大名が石見銀山を掌握すると、産出する銀はほとんど領主の元に入ると思っておられる方が少なくありません。しかしそれでは銀など採取しても意味がなく誰もそんな苦労はしたくないでしょう。

16世紀後期石見銀山を領有していた「毛利元就」

 銀山を領有すると云う事は、言い換えれば税の徴収権を得たと云う事です。しかし考えてください、顔も見たことのない領主が税を納入しろと云っても誰もはいそうですかとは行かないでしょう。そこで領主は地元の有力者に何某かの位を与え(箔をつけ)彼らに税の徴収をさせるのです。つまり代官(文字通り代わりの官)と云う事です。この方式は17世紀に徐々に近世の代官制度に移行したのです。徳川創成期に活躍した「大久保長安」をはじめとした4名の代官頭は、こうした地方の小代官を束ねていたのですね。それが徐々に近世型の幕臣による官僚型代官制度に移行していったのです。

 延べ59名の奉行・代官で治められた石見銀山領は9番目までが奉行、10番目から代官によって治められましたが、これは銀の生産量が落ち込み代官に格下げ云々ではなく、徳川幕府の制度改革によるものとみる方が的を得ています。

写真上は銀山役人宗岡家座敷

写真下は、江戸時代初期活躍した「吉岡出雲」の墓(旧極楽寺)

 徳川初期に大活躍をした石見銀山地役人の吉岡出雲や宗岡佐渡は、徳川以前は(毛利時代)銀山6人衆で広島毛利に収める税の徴収請負人でした。つまり広島毛利の石見銀山担当者は、吉岡等銀山の代表者に対して、今年はいくらの銀を納めなさいと指示するのです。と云う事は江戸期と違い、毛利家では、石見銀山で生産される銀の量は把握していなかったようです。

 この中世型の税の徴収方式は不正が行われることが多く、17世紀に徐々に近世型の税の徴収に変わっていったのです。

 大久保長安をはじめとした徳川創成期の4人の代官頭が次々と失脚していったのは、旧体制から新体制への過程の出来事と見る方が的を得ているように思えます。

 実は、石見銀山は、現地にいろいろ施設が残されているだけではなく、たくさんの文書もあり、江戸期における中央(徳川政権)の政策が地方にどのように伝わってゆく様がよく残されていて、学術的にも大変重要な世界遺産なのです。石見銀山資料館をはじめとした各部門で今も地道な解明がなされている地域と云えると思います。(銀爺)

https://www.facebook.com/iwamiginzanshiryoukan/

石見銀山資料館

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:13 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-13

☆銀山ってどんなところ?☆

 石見地方は、平野の少ないのが特徴です。このことは米の生産量が少ないと云う事です。そんな環境下に突如として巨大都市「石見銀山」が出現します。当然米の需要が高まります。

さて、米の生産地と云えば、東北秋田新潟などでしょう。広大な平野と、奥地には大きな山脈、冬になると日本海から吹く湿った季節風は高い山脈にあたり上昇、大雪をもたらします。山に積もった雪はすぐには解けず、徐々に溶け地下水となり、やがて麓の平野を潤します。米作りの理想的な地域なのです。

越後平野

 有り余る米は換金せねば意味がありません。船で若狭湾に運ばれ、少し南に運搬すると、おあつらえの琵琶湖があるのです。湖を船で南に運ぶとそこは京都と目と鼻の先「大津」です。京に米を下ろし、残りの米は淀川を下り大阪堺に運ばれると云う事なのです、従って大阪は天下の台所、商業の町となります。

「大阪取引所」前身は五代友厚主導で設立された「大阪株取引所」

 その図式に変化をもたらしたのが、「石見銀山」、「銀山に米を持ってゆくと高値で買ってくれるぞ」、的な感じで、若狭湾を通り越して石見まで運ばれる米も出てきたのです。このルートは後々北前船西回りコースに発展してゆきました。因みに、北前船とは船の形を言うのではなく、商売の形を言うと云う事です。品物を運送して運賃を稼ぐのではなく、自分の裁量で生産地の安い品物を高く売れる消費地に運ぶのが北前商法なのです。ハイリスク・ハイリターンで年1航海が基本ですが、利益は千両と云われています、現在の価格で表すのは問題が多すぎますが、ザックリと1億数千万程度と云っておきます。(銀爺)

千石船

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:09 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-12

☆銀山ってどんなところ?☆

  石見銀山に来られるお客様の中には、銀山は時の権力者が全てを掌握し過酷な強制労働を云々と思って来られる方が少なくありません。時代により違いはありますが、金銀山が国家のもの(と云うより時の権力者)となるのは、豊臣秀吉の時代からで、いわゆる「天下の御山」という考え方です。

 ともあれ、銀山町とはいったいどんなところなのでしょう。銀が産出すると人々は我も一旗、とばかり銀山に集まります。技術や資本力のある人は人を雇います。銀山に行けば仕事にありつけるのです。その様は砂糖の塊に蟻が群がるかの如くでしょう。その事は天文8年(1539)の昆布山谷の流出(一説には天文11年説もあり)で千数百人の犠牲者が出たことからも如何に銀山は人口密集地であったことがうかがえます。

昆布山谷(龍源寺間歩出口からすぐ、佐比売山神社の隣です)

 銀山は急速な勢いで巨大都市化します。しかし、銀山では銀以外の物はありません、つまり生活物資一切は外部から入ってくることになります。周辺の村々では銀山に物を持ってゆけば買ってくれると云う事で物流が生じます。しかしそれだけでは到底賄いきれません。

 そのような特殊な場所京や堺等の有力商人が目を付けない訳もないでしょう、当然出店のようなものをつくり自分のルートで生産地から消費地である銀山に生活物資などを供給したと思われます。と云う事は銀山町では、銀生産に従事する人だけではなく色々な人々で構成されていたのではないでしょうか。

山頂付近の「石銀(いしがね)地区」からは色々な生活物資が出土しています、これに関しては525日の当ブログ(Ngさん担当)も参照してください。

石銀地区・発掘調査

 この石銀地区からは塗下駄等も出土しました。山の上に塗下駄?当然その時代は下駄で歩ける街であったと云う事です。しかも、当時の子供たちは、裸足で走り廻るか、せいぜい草履です。塗下駄をはく子供って恐らく良家の子供であったと思われます。なお出土した色々な下駄は老若男女の存在を証明していると思います。これが、石見銀山の「マチュピチュ」と云われる所以でしょう。

 需用の高い銀が出る→人々が集まる→都市となる→物流が出来る。これはごく自然の流れなのです。(銀爺)

右中・銀山発見伝説をモチーフした塗下駄、右下・掌に収まるほどの大きさの幼児用の下駄

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:13 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-11

☆世界にその名を轟かせた「石見銀山」☆

 16世紀石見銀山が開発できたのは、大内氏の領内であったこと、そして銀鉱石の質が良かったことが見逃せません。大内氏、朝鮮、博多の商人という関係と、今一つ石見銀山の銀鉱石と云う事です。

開発当初は「仙の山」の山頂付近の福石鉱床ですが、ここの岩石は火山の大噴火によって吹き上げられた噴石物が降り積もって出来た「凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)」で形成されています。そこに地下から銀等を含んだ熱水が上がり、ガサガサ状態の岩石にしみこむ形で冷やされ銀の結晶を整形した「鉱染鉱床」と云う事で、輝銀鉱、自然銀等単純な銀化合物と云う事で初期の未熟な技術でも製錬でき、鉱石も、もろく細かくしやすいのが特徴です。このことが他の鉱山と違い「要石(かなめいし)」の上で鉱石を細かくすることが出来たのでしょう。因みに個人的には「かなめいし」は、「かな女石」ではないかな〜と思っています、男の仕事が鉱石を採取する「かな男」に対し、鉱石を砕く仕事は女性の仕事で「かな女」と云う事で…。

「要石(かなめいし)」石見銀山では今もこんな石が沢山見かけられます

 当初は、日本国内では需要も無かった銀も、海外との交易においては必要不可欠と認識され、中でも鉄砲伝来は戦国大名の認識を変えました。鉄砲の普及に伴い、火薬の原料「硝石」や鉄砲玉の鉛を手に入れるには銀が欠かせません。各地の銀山開発が盛んになってゆきます。

戦で大量の鉄砲が使用されたと云われる、長篠合戦(織田・徳川VS武田)

 一方毛利元就は時の天皇「正親町(おおぎまち)天皇」に石見銀を献上、又厳島神社にも銀が納められます。これらの銀は、当然儀式や修理により民間に流れ、その事は、銀の貨幣として流通することに拍車をかけました。又ポルトガルによって明に持ち込まれた石見銀等はあの万里の長城の整備にも当然使われたと云う事になります。こうして、16世紀末に石見銀山は国内・海外に燦然と光り輝いたと云う事です。(銀爺)

厳島神社の修復にも大量の石見銀が使われました

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:13 | comments(2) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-10

☆シルバーラッシュの幕開け☆

 朝鮮がハングルを捨てた時期、李氏王朝10代「燕山君(ヨンサングン)」の時代(14941506)朝鮮半島北部(現北朝鮮)では銀鉱山の開発がなされていました。実は、この頃朝鮮半島では貴族階級などの高級品志向が強まり、中国製品(唐物)の需要が高まっていました。これらを手に入れるには銀が欠かせなかったのです。

 このような中11代中宗王は明への銀の貢納を恐れ、国内での銀山の開発を禁止し、朝鮮半島には銀は産出しません、の形をとったのです(ようするに、親分(明王朝)が銀持ってこい、銀持ってこい、と煩いので、面倒くさいから銀はございません、と云う事です)。しかし、沙羅(さら)、や緞子(どんす)等高級中国製品の需要は益々高まり、銀の需要が高まっています。

11代「中宗王」の時代から「宮廷女官チャングムの誓い」

 ここで思い出していただきたいのは、前々回(510日)の「元寇」で述べた如く、日本の大内氏の庇護を受けていた「博多の商人」である「神屋寿貞」が朝鮮半島で銀の需要が高いことに目を付けたのは自然の流れであったのです。実は当時日本では、銀は装飾品などに使われる貴金属ではありましたが、銀に貨幣の価値があるとは誰も思っていなかったのです。

銀細工装飾品

 1527年博多の商人「神屋寿貞」による石見銀山開発は(これに関しては、当ブログでNgさんが詳しく解説されています、月曜と金曜がNgさんの担当です)、このような世界の事情の中で行われたのです。当初石見銀山で採掘された銀鉱石は「鉛鉱石」として朝鮮半島に出荷、朝鮮半島ではこの「鉛鉱石」から銀を抽出したのです。そして1533年「宗丹慶寿」により「灰吹き法」という銀の精錬法が伝えられ石見銀山の第一次シルバーラッシュの到来となってゆきました。

 では、銀の見返りに日本に持ち込まれたものは何でしょう、この時代朝鮮では木綿が貨幣の代わりをしていました(日本で米が貨幣の役割をしていたように朝鮮では木綿だったのです)大量の木綿が輸入され日本では16世紀急速に木綿の普及となりました。

 銀のうわさは倭寇や中国の私船(この当時の中国・明朝は「海禁政策」でこれらの船は皆密貿易と云う事です)などのネットワーク等で広まり、ポルトガル船が1543年の種子島漂着・鉄砲伝来となったのです。(銀爺)

鉄砲伝来の図

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:00 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-9

☆ハングル文字の完成度はトップレベル☆

 紅巾の乱をきっかけに元朝が衰退し、明が台頭すると、朝鮮半島では元支持派と明支持派と混乱が続き、李氏朝鮮が誕生します。李氏朝鮮は明の後ろ盾の道を歩みます。従って李氏朝鮮の王位の継承は明の承諾なしではなりませんでした。

 余談ですが、4代・世宗(14181450)の時出来たのが「ハングル文字」です。基本10個の母音と14個の子音の組み合わせになるのですが、実に見事な文字構成で、恐らく文字としての完成度では世界でトップクラスでしょう。しかし、当時不評でした、特に「両班(王族の次に高貴な身分)」は漢字こそ明から頂いた崇高な文字で、ハングル文字は、野蛮な文字であると批判的であったそうです。数十年後(16世紀初頭)、朝鮮王朝では悪名高い「燕山君(よんさんぐん)」の頃、なんと、この素晴らしい文字「ハングル文字」を廃止したのです。

燕山君をモデルにした韓国ドラマ「王と私」

 明治初期になって、金沢・小倉の両氏が(いずれも言語博士)ハングルの研究、掘り起こしをし(300年余りハングルは公用文には使用されませんでした)、明治後期に日韓統合に伴い、両班や賤民等の身分制度が廃止となり、福沢諭吉等によるハングルと漢字を併用した言語を教育の場や、新聞の表記に使用されたそうです。

 漢字と仮名交じりにする方式がそのまま、漢字とハングル交じりの文章が分かりやすくて望ましいと云うことでした。確かに韓国語を見るとき単語や文法等が日本語とよく似ているわけですね。

日韓統合当時の朝鮮語教科書、(当時国語は日本語で別教科書です)

 戦後まで漢字とハングルを交えて扱いましたが、戦後韓国は、今度はこともあろうに漢字を捨ててしまいました。その理由は、わが国にはわが国で生まれた世界に誇れるハングルがある、外来の文化(漢字)に頼らなくても良い。ですが、本音は日本式のハングルと漢字併用が原因のような気がします。しかし、現在も日本語由来の単語が数多く存在している事も否めません。

 このため現在の韓国語で書かれた文章は、大変分かりづらいそうです。結果、英文の論文が普及しているとか、(英文も外来文化と思うのですが・・・)チョット考えてみてください。

「日本語の文章から漢字をすべて無くして仮名で出来た文書を」

“にほんごのぶんしょうからかんじをすべてなくしてかなでできたぶんしょうを”

ゾッとしませんか。

 また、韓国の文書は明治まですべて漢字で記載されています。歴史を調べるのにも支障が出ると思いますがどうでしょう。

漢字が消えた韓国(ソウル)の街

 李氏朝鮮がハングルを廃ししたころ(16世紀初頭)、朝鮮半島北部では銀山の開発が行われていて、その後の石見銀山の開発当初、朝鮮では銀の精錬が出来る環境があったと云う事ですね。(銀爺)

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:35 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-8

☆元寇・蒙古襲来

 蒙古襲来は、「石見銀山旧記」にも銀の涌き出し由来として記載されていますが、その内容は無理やりくっつけた創作の感がしないでもないです。

 銀山旧記によると、銀が発見されたのは元寇(弘安の役)の後、大内弘幸は鎌倉幕府に謀反する際蒙古軍に助成を頼み蒙古軍勢20万が石州に着岸、その後鎌倉と和議がなるも蒙古軍は昔年の恨みも有り引き返さなかった。その折大内の守り神でもある北斗の神のお告げで、石州「仙の山」に銀があることを知りその銀を採取し百済軍(蒙古軍)に与え引返した由。その後色々あって、足利直冬(足利尊氏の落胤・尊氏実弟である直義の養子)が銀を取り尽したとあります。

 以上の下りは、恐らく大内氏が朝鮮半島と密接な関係があることを示唆したものと個人的には思えます。大内氏は自ら先祖は百済王族「琳聖太子の子孫」と主張していたそうです。その背景には朝鮮との外交、交易があったようです。朝鮮にしても、北九州の商人等に影響力のある有力者である大内氏は重要視されていたようです。

古文書・「銀山記」

 では、「文永の役」はどのような経緯でしょう。元皇帝(フビライハン)は鎌倉幕府に手紙を送りました。内容は、「蒙古の皇帝は天の命により巨大な領土を支配している、高麗(朝鮮)も家来となり、蒙古の領土である、高麗と交易をしている日本がいまだに便りをよこすでもなく国交を持とうとしないのはどういうことか、日本と蒙古は国と国の交わりをしてお互い仲良くしてゆこうではないか、我々はすべての国を一つの家と考える、日本も蒙古を父と思いなさい、そうでなければ軍を送ることになる、それは我らの本意ではない。」ようするに、「元の傘下に入りなさい、さもなくば大変なことになりますよ」的な内容です。

赤い部分が蒙古領、緑が家臣の国

 鎌倉幕府は、返書を出しませんでした。元の使者は高麗人で元と日本の板挟み状態、何度使いを出しても要領を得ず、最終的には、元の使いが来て、長期滞在します。これは、決裂の際、日本遠征の下準備をも兼ねていたそうです。彼等は帰国後すぐに900艘の造船を高麗に命じますが、短期間に造船のため船の形式は丈夫な中国式ではなく、簡単な高麗式となりこれが後々元軍の命取りになったのかもしれません。

 対馬、壱岐をことごとく破り、10月下旬九州に上陸、個人戦の日本軍、組織立って戦う元軍、「やぁやぁ遠からん者は・・・」「そんなの関係あるもんか、ドッカン」的な感じだったのでしょうか。

 ところが、翌日蒙古の船団は博多湾から消えていたそうです。俗説では神風が云々ですが、最近では、台風は無かった、と云われています。蒙古の船団は嵐で博多湾に沈んだのではなく、帰途、波の荒い玄界灘で強い季節風に遭遇したのであろうとのことです(調べてみたら、文永111020日は今の1119日でした)。フビライはこの戦いは脅し的な意味であると位置づけていたのでしょうね。(銀爺)

「文永の役」図

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:37 | comments(0) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-7

☆朝鮮半島では☆

 このように経済活動が活発な中国で生まれた「紙幣」も当初はうまく機能しましたが破綻して変わって銀の需要が高まった。と云う事になるのですが、言い換えれば銀を貢いででも中国の高品質で魅力的なものが欲しがられたのでしょうね。代表的なものは、絹、陶磁器、お茶等です。一方朝鮮半島に注目すると、モンゴル帝国の元朝の頃朝鮮半島は高麗王朝でした。高麗に侵入したモンゴルは西京(平壌)を東寧府と名を変え元の直接支配にしました。

北朝鮮・平壌・黎明(りょみょん)通り

 平壌って確かに朝鮮半島の西側にあり「西京」ですが、モンゴル側から見れば東ですよね、誰が主体かで名前も変わりますね。そういえば、韓国では日本海を「東海(トンヘ)」と云い、国際的に認めるよう働きかけているとか、この方式だと日本から見れば「北海」ロシアから見ると「南海」になってしまいます、これ不味いのでは、せいぜい国内限定の呼び方でよいのでは。

 とはいえ高麗の中にも親モンゴル派もいれば反モンゴル派も存在します。反モンゴル派では武力集団「三別抄」の存在があり1270年に解散を命じられますが三別抄は珍島島に立てこもり最終的には最終島ではなく「済州島」で鎮圧されました。実は元朝は当初日本遠征を1271年に計画していましたがこの事件で「文永の役」が(1274)となったのです。

文永・弘安の役(蒙古襲来)

高麗が国家を建設する時、の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の2つの班からなる官僚制度を採用しました。この文班と武班の両方を合わせて「両班(リャンバン)」といい、韓ドラ時代物語でおなじみですね。(銀爺)

高麗国旗

 

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:24 | comments(0) | - |
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