<< August 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

カテゴリー
最新の記事
最新のコメント
最新のトラックバック
月別の記事
リンク
サイト内検索
その他
美味しんぼ 109 (ビッグ コミックス)
美味しんぼ 109 (ビッグ コミックス) (JUGEMレビュー »)
雁屋 哲
著名なグルメ漫画に『日本全県味巡り 島根編』が登場しました。石見の食の幸も色々紹介されています

国銅〈上〉 (新潮文庫)
国銅〈上〉 (新潮文庫) (JUGEMレビュー »)
帚木 蓬生
天平の世、大仏造営の命を受けて奈良へと旅立つ青年の苦難の人生を軸に、当時の人々の生き様が素朴で力強く描かれた良書
SPONSORED LINKS
MOBILE
qrcode
万里の長城と石見銀山

 大永7年(1527)博多の商人「神屋寿禎」によって開発されたとされる石見銀山はその6年後、天文2年(1533)に朝鮮半島から「灰吹き法」と呼ばれる銀の製錬法が伝わり、その数年後には大量の石見銀が朝鮮半島に輸出されます。その見返りに輸入されたのは主に木綿でした。16世紀後半日本で大きく普及した木綿は石見銀が関わっていたのです。

神屋寿禎・銀山発見伝説「山が光った!」

 また、石見銀の情報を得た中国商人も日本に来航します。かくして石見銀の情報は倭寇等の情報網を経て、当時アジア貿易に参入していたポルトガルにも流れ天文12年(1543)種子島に漂着した「鉄砲伝来」となったのです。私たちも日本史で勉強しましたが、なんとなく偶然に種子島に漂着した、の如く勉強したように思います。実はその目的が石見銀であったという事なのです。

鉄砲伝来

 これらの銀を取り巻くその大元は、他ならぬ明国(中国)であり、まるでブラックホールの如く石見銀をはじめとした銀を飲み込んでゆきました。つまりポルトガルは中国と交易するためには何としても日本の銀が必要だったのです。当時中国は「北虜南倭」(北方民族の侵入、南シナ海を横行する倭寇の存在)に手を焼いていました。そこで北の万里の長城の整備にも大量の銀が必要でした。あの雄大な万里の長城建設には石見銀が大量につぎ込まれたという事になるのです。(銀)

万里の長城

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:18 | comments(1) | trackbacks(0) |
逸話は後で作られる

  代官所前の「大森会館」の河村前社長、生前は大変お世話になった一人です。初めてお会いして伺ったのがガイドになって間もない頃「仙の山(銀山)」の「石銀(いしがね)地区」にある複数の大きな窪みでした。先輩ガイドに聞いても明快な答えが得られず、河村前社長に伺ったところ、戦時中、松の切株ⁿの「肥松」から「松根油(しょうこんゆ)」を採った跡でした。

石銀地区の窪み(松の根を掘った跡)

 他にもいろいろ興味深い話を聞きましたが、その中から今回紹介するのは城上神社の「亀石」、元々馬路の城上山にあった城上神社が大内の時代に現城上神社向かいの「愛宕山」に移され、その際は共に亀石も移設されましたが、毛利の時代今度は愛宕山から現地に神社は移設され、その際この亀石は愛宕山に置き去りにされたとか、亀石は自力で山を下りましたが神社前の銀山川まで来て身動きが取れず夜な夜なしくしく泣いていたとか、それに気が付いて人々が川から引き上げ現地に安置した由。

城上神社神社の境内にある「亀石」

 私が疑問に思ったのが亀石の土台(コンクリート)でした。河村前社長に「土台はいつ作り直したのですか?」と伺うと、失笑しながら、始めっからあの土台との事。はっきり断言はされなかったですがニュアンス的には昭和初期頃に出来た話のようでした。また、城上神社が当初大内の時代に愛宕山に移設されたという確かな資料は無いようです。

亀石の台はコンクリート製

 逸話と云うものはこのように後の世に作られるケースがほとんどで、心に残るような出来の良い話は言い伝えられ、そうでない話は忘れ去られるのでしょうね。という事は、消え去った逸話も過っては多くあったかも、そういった話にも興味あるな〜。(銀)

代官所前の「大森会館」背景の山は「愛宕山」です

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
実は石見銀山、銀の生産が超楽だった

  過って世界のトップクラスの銀山として光り輝いた石見銀山ですが、トータル的に見ると石見銀山は世界のトップテンにも入っていません。また、国内でも佐渡金山(新潟県)や生野銀山(兵庫県)の方が多く銀を産出しています。では、何故石見銀山が世界にその名を轟かせたのでしょう。

銀山周辺の山々(写真上)と銀山(写真下)山の形の違い

  仙の山頂上付近は百万年くらい前に火山の噴出物が降り積もって出来ました。というわけでこの辺りの山々とは明らかに異なり、頂上付近が広く平坦です。その下の地層は津野津層が広がりこれが石州瓦の原料となった粘土層です。その下はさらに古い時代海底火山活動で出来たグリーンタフ(緑色凝灰岩)と呼ばれる地層がありこの地層には金属資源、非金属資源が豊富で周辺の鉱山を生んでいます。(大まかな表現です)

福光石切り場・グリーンタフ地層から出る石材採取場

  火山により出来た熱水は銀や銅等を溶かして地表に出てきますが、熱水の温度が冷めるとそこに金属が結晶となって現れます、銅は銀や金に比べ高温で出来ますが金や銀はそれより低い温度で生じます。従って金や銀は山頂など地表近くでき、地中深くなると次第に銅の量が増えてくるのです。石見銀山では銀を含んだ熱水が山頂付近でガサガサに降り積もった火山灰や礫の隙間に染み込むような形で入り込み冷えて銀を生み出したのです。

この頂上付近の銀鉱床を「福石鉱床」と云い自然銀や輝銀鉱のような不純物の少ない銀化合物で初期の未熟な精錬技術でも銀を生産することが出来ました。又鉱石は元々礫岩ですので容易に要石で粉砕できたのです。銀鉱石を採取するのも、銀を製錬するのもやり易かったのでしょうね。その後技術は日進月歩進化していったものと思われます。(銀)

仙の山山頂・石銀(いしがね)地区

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
山の見立て

 17世紀(1600年代)日本の銀は大半が対外貿易に使用されました。「新井白石」によると全体の3/4が対外貿易に使われたとのことです。一方17世紀半ば頃からは鉱石の枯渇、採掘場が地中深くなったため湧き水などにより産銀量は激減しました。

江戸時代の貿易の窓口・長崎の出島

 実は、日本の銀山は海外の銀山に比べて規模が小さく開発から数十年で枯渇してしまうのです。海外では採掘期間が何百年と長くその規模が大きく、それが日本との大きな違いなのです。この事は銀の採掘方法にも大きな違いが出ました。つまり海外では坑道は大きく滑車等機械化が進み、立坑が良く利用されます。一方日本では、そんなところに経費を費やしても設備の償却がなりません、したがって坑道は狭く、人力でチビリチビリと採掘することになるのです。結果的に自然に負荷のかからない採掘がなされた云々になるのでしょうね。

仙の山・山頂付近の第3号間歩坑口

 小規模な銀山は、新たな銀山を開発せねばならないので、わが国の山師たちは銀山を発見することが大切になります。俗に云う「山の見立て」が大切で、「山相学」なる学問もできました。しかし、どうも山師の経験を陰陽五行に当てはめた感が強いです。最終的には新銀山の発見は山師の「山勘」によって発見されたのかもしれませんね。(銀)

山相秘録

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
石見銀山と無宿人その2

 石見銀山ガイドをしていてよく「銀山では佐渡のように罪人を使っていたのですか?」と聞かれます。答えは先週のブログの通りでした。(短期間使った記録がありました)

当初佐渡でも、水替え人足は募集で、重労働ではあるが高賃金のため周辺の村々は潤ったそうでした。しかし坑道が深くなるにつれ労働環境も悪化その上多くの人夫が必要となり人夫不足が深刻になりました。

一方天明の大飢饉により村を捨てて江戸周辺に多数の無宿者が増え無宿者による凶悪犯罪が多発し治安が悪化しました。その予防対策として、犯罪予備軍である無宿者を捕らえ彼らを佐渡金銀山に送り不足している水替え人足として使用したのです。

天明の大飢饉図

 というわけで、佐渡送りになった者は必ずしも罪人ではなかったのです。今の時代では考えられない「罪を犯す前に犯しそうなものを捕えてしまえ」と云う事でしょうか・・・。

元々は犯罪者の更生の意味合いもあったようで、作業に応じて小遣い銭が貰え年を経て放免の暁には幾らかの蓄えを持って故郷に帰る事が出来る建前ですが、水替え作業は過酷で3年以上は生存できないと云われたほどで逃亡も後を絶たなかったそうです。

石見銀山でも坑内の湧き水には苦労をしていますが、佐渡では江戸後期には、採掘現場が深くなりそれと同時に大量の湧き水が出るなど、佐渡の湧き水、出水は石見銀山の比ではなかったようです。因みに石見銀山で無宿者の従事した仕事は「柄山負い」(掘り出した岩石を外まで運び出す仕事)と記されています。(銀)

柄山負い

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
石見銀山と無宿人その1

  関代官の「御救拝借」から川崎代官の「十分一銀」の整備により息を吹き返し、「御直山」(代官所経営の公営間歩)主導の石見銀山でしたが、天保期に入り飢饉や疫病、特に天保9年(1838)の疫病大流行で多数の犠牲者を出し、結果銀山での人手不足となり又も窮地に陥りました。

鉱山絵巻より

 この人手不足を解消するため、佐渡金山に習い石見銀山でも無宿人を使う事になりましたが、結果は思わしくなかったようです。無宿人を使用したのは、天保14年の僅か数か月の記録しかありません。結局銀山の稼ぎ人は銀山で育てなければならないという事で、少子化対策として出来たのが、子供養育米の制度でした。

石見銀山では、二歳から10歳を子供として認め一人当たり一日3合の米を支給する物です。因みに生まれて一年すると「宗門人別改帳」に登録し子供として認められます。11才になると、「テゴ」と呼ばれる鉱山の仕事に付きます、補助作業、連絡係等の仕事です。

この「テゴ」という言葉は現在も「手伝い」の意味でこの地方では使われています。(銀)

お手伝い、(無料イラストより)

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
石見銀山の山師は特権階級

 石見銀山の「山師」になると苗字帯刀が許される特権があります。つまり、石見銀山の山師は特権階級なのです。これは、慶長の時代大量の銀を納め、又大阪冬の陣での功績が家康の目に留まったことによるそうです。なんと、石見銀山の山師と堀子300名は大阪冬の陣に参戦し、大阪城の堀の水をせき止め、堀の水抜きを抜群のスピードで成し遂げたそうです。

徳川家紋・三つ葉葵 と 豊臣家紋・五七の桐

 この特権は石見銀山でも「山内」である銀山町だけに許された特権でしたが、江戸後期になると銀山が衰退し、銀山町の資本だけでは成り立たなくなり外部資本の導入せざるを得なくなりました。これは、銀山を直接経営する従来の山師と、資本提供することで山師の身分を得る外部者の共同開発がなされるという事です。

銀山町(山内)の山組頭「高橋家」

 このように、石見銀山では、当初は良好な銀鉱石が大量に産出し、誰がやっても儲かる時代から、間歩も地中深くなり、銀含有量も低くなり、湧き水も出るなど生産コストが上がり利益が出なくなりますと、銀山を守り維持するために色々な手法がもち入れられました。(銀)

大森町(陣屋町)

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
銀山を支えた「十分一銀」

 十分一銀による貸付銀が整備されると、安定的な鉱山開発資金が確保することが出来るようになりました。石見銀山には、山師個人による民間経営の「自分山」と代官所が経営する公的な間歩「御直山」がありました。当初産銀量の多かったころには民間経営である「自分山」が多かったのですが、この頃から「自分山」は衰退し江戸後期には石見銀山の稼ぎ山(実際に銀を掘り出している現役の間歩)はほとんど「御直山」でした。

江戸期の代表的な御直山「龍源寺間歩」

 という事は、代官所の下請けを行うような形です。例えば坑道を掘るのも此処からここまでは入札により、山師Aが請けるという事ですから、現在の道路工事と全く同じような感じです。

部分開通した山陰自動車道・大田市久手〜出雲市多岐区間

 言い方を変えると、後期の石見銀山は、みんなで銀山を守り支えた時代と見る事が出来ると思います。銀山が存続することで、幕府は長崎貿易に使う銅や貨幣鋳造の銀が確保できる、役人は役人として生きられる、山師は苗字帯刀が許される、商人は商いが出来る、抗夫は仕事にありつける。これって利益をあまり出さない会社であっても従業員はじめその家族そして地域に大きく貢献しているのと同じですね。存続することに意義があるのですね。(銀)

部分開通した山陰自動車道・大田市朝山付近

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
「十分一銀」と川崎代官

  石見銀山は江戸中期以降急激な産銀量の落ち込みとなり、「自分山」という民間経営の間歩(銀を掘り出す坑道)はほとんど不振に陥ります。そのような中、川崎代官の頃銀山は回復しました。これが川崎代官の行った「十分一銀」の制度によるものです。

川崎平右衛門供養墓(龍昌寺跡)

  これは銀山で生産された銀の一割を鉱山開発の資本に組み入れるという事でした。これを貸付銀として運用しその利銀で銀山の諸経費の捻出を計ったのです。

龍昌寺参道口から仙の山(銀山)を望む

  これは、前回(5月5日)で紹介した「関代官」の手法をさらに目的別に貸付銀を設け財源の多様化を図ったものでした。また、その後の代官にもこの制度は継承されたのです。

勿論このようなことを代官一人で決められるものではありません、計画の仔細を幕府勘定所に提出し許可を受けなければなりません。

川崎平右衛門定孝は、東京都の多摩、小金井市では、飢饉を救ってくれた代官として銅像も建てられています。代官様って素敵ですね。(銀)

多摩・小金井の桜と川崎平右衛門定孝の銅像

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
関忠太夫代官の功績(平成31、4月28日続編)

 関代官が行った貸付は、当初の数年は順調に行きました。毎年利息の銀36貫が鉱山資本に使われましたが、関代官が亡くなった後次第に備後からの返済が滞るようになり当初の計画通りには行かない部分もありましたが、一定の成果がありました。

従来の貸し付けが特定の鉱山開発に必要な資金調達であったのに対し(例えば大久保長安が安原伝兵衛に行った釜屋間歩の開発)

釜屋間歩と岩盤遺構

 関代官の貸し付けは、鉱山開発や労働者の救済等幅広く利用され、拝借銀返済後も余剰金で継続的に運用で来た事で、後の石見銀山中興の川崎代官(定孝・一之進・定安の親、子、孫の三代・17621787・宝暦、明和、安永、天明)の時代に整備、拡充されました。

川崎平右衛門定孝の肖像画

 川崎平右衛門定孝は生まれは百姓でしたが、手腕と功績を買われ旗本に取り立てられ代官から勘定吟味役への大出世をなした名代官で東京多摩地区等では飢饉を救った代官様として銅像や郷土カルタにもなっています。石見銀山においても江戸中期に大活躍をなした代官様です。(銀)

川崎平右衛門の銅像とカルタ

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
| 1/7PAGES | >>