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「文字銀(ぶんじぎん)」貨幣改鋳と銀山

 江戸中期、石見銀山では、銀鉱石の産出も低下、又採掘場も地中奥深く生産コストは高くなりました。そんな折、元文元年(1736)に行われた貨幣改鋳(貨幣の鋳造し直し)による「文字銀(ぶんじぎん)」の発行は銀山経営にさらなる追い打ちがかかります。

 

文字銀(元文丁銀)「文」の文字が刻印されている

 「享保丁銀」が銀8割に比べ「文字銀」は5割もありませんでした。幕府はそれを同価格と扱ったため銀安錢高となりました。

正徳銀(享保丁銀)

 江戸期は「三貨制度(さんかせいど)」で金貨、銀貨、銭の三種類の貨幣があり「御定相場」はありましたが実際には変動相場制でした。例えば円とドルとユーロが同時に使われているような感じです。これにより江戸期「両替屋」が発達しました。

両替屋看板(分銅を型取っています)

 石見銀山では生産される灰吹き銀はすべて幕府に買い上げられます。良質の灰吹き銀は、新たに発行された「文字銀」で買い取られ、山師はそれで経営に必要な、炭・薪・鉄製品等を購入します。それらは実質値上がりとなり、賃金も名目銀で支払う事になっていますが実質銭で支払いますから、灰吹き銀を丁銀(文字銀)で買う山師や銀吹き師(銀製錬師)にとっては実質減収となったのです。

これらの諸事情により、江戸中期、銀山経営は急激に衰退しました。(銀)

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紙幣と石見銀とブラックホール関連付けました

 新紙幣が発行されるとのこと。また、ブラックホールが初めて映像で撮れました。今回はこのビッグニュースに因んで、石見銀フィーバーに触れてみようと思います。

2024年、新紙幣発行イメージ

 13世紀、マルコポーロの「東方見聞録」で「中国の皇帝は紙をお金に変えてしまう。錬金術師」とヨーロッパにつたえたとか。

 世界初の紙幣はさらにさかのぼり10世紀の頃「宋(そう)」の時代に造られた「交子(こうし)」と云われています。当初は商人の間で取引用に使われたそうです。紙幣を造るには製紙技術と印刷技術が不可欠ですから、両方の技術が出来ていた中国で紙幣が出来たのはうなずけます。

「元」を経て、「明」の時代になると、「大明通行宝鈔(だいみんつうこうほうしょう)」という最大級の紙幣(A4サイズ)も発行されました。紙幣にはニセ札防止の警告文も印刷されていました。それによると犯人は死刑、通報したものには賞金のほかに副賞として犯人の財産が与えられたそうです、これは効きますよね。

「明(中国)」の紙幣「大明通行宝鈔」

 当初はそれなりに信頼され使用されていた紙幣も15世紀に入ると度重なる戦費捻出で乱発し15世紀半ばには信用を無くし、15世紀の終わり頃には使われなくなりました。紙幣に代わって注目されたのが「銀」だったのです。広大な中国で銀の需要は半端なく、納税や万里の長城整備・軍費等、まるでブラックホールの如くに世界の銀を飲み込んでいったのです。そういえば、先日世界で初めてブラックホールの撮影に成功したそうですね。

世界初のブラックホール撮影に成功

 16世紀前半博多の商人「神屋寿禎」による石見銀山開発はそんな時代にあり、当時日本では見向きもされなかった銀は朝鮮半島を経由して明に流れました。朝鮮からは代わりに木綿が大量に輸入され16世紀末には木綿がわが国に溢れます。その後ポルトガル・日本・明の三角貿易により、大量の銀が明へ流れ、大量の絹が日本に輸入されたという事です。合わせて戦国大名は銀で硝石(火薬の材料)を血眼になって買い求めたのです。これがシルバーラッシュとなった舞台裏だったのですね。(銀)

15世紀前期銀鉱石が積出された「鞆ガ浦」港

 

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城跡と松

 石見銀山の景観は、現在鬱蒼とした森林ですが、最盛期の姿とは程遠い姿です。又、石見銀山には竹藪が多いですが江戸期にはほとんどなかったようです、孟宗竹は皆無だった由。

清水谷の竹林

 江戸初期に銀山地域を木柵で囲ったそうですが何年かすると朽ち果て、何か良い作(柵)はないかと、色々作(柵)を考えた末、この作(柵)で行こうと、「垣松」を植えたとか。周りに大きな木が無いのでよく目立ったことでしょうね。一方向かいの要害山(「山吹城」のあった山)には、松林があったそうです。

蔵泉寺口より要害山を望む

 三橋美智也の名曲「古城」にも歌われているように、お城と云えば松の木が連想されますが、実は、元々山城には松などなかったようです。敵の侵入を防ぐには松などは邪魔ですよね。途中何もない方が城を守るには都合が良いのですから。城がその役目を終えると、その日当たりの良い場所、草地に真っ先に生えるのが松なのです。

松の時代が終わるころ少しずつ勢力を伸ばしてくるのが雑木、広葉樹だそうです。そういえば、私の町の山は私が子供のころほぼ松林でした。従って山は年中緑でした。今は、松が少なくなり、雑木が生い茂っています。一年を通して山の色が変わります。()

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「御直山」と「請け山」、「御直山」と「自分山」

 鉱山の支配の形には、「御直山」と「請け山」があります。(この場合の山は、山全体を示します)一般に金・銀山は「御直山」で、銅山等は「請け山」形態をとります。

御直山は、現地に代官を派遣し、役人を配置します。そして、間歩(坑道)の一つ一つが独立しそれぞれに間歩の経営者(山主)が存在します。当然石見銀山は「御直山」形態をとりました。

一方四国の「別子銅山」などは「請け山」形態で、現地に役人はいません。山全体を「泉屋」(住友)が銅山の権利を一手に引き受けているのです。仮に別の山師が別子銅山で開発するには「泉屋」(住友)の許可が無くてはなりません。

別子銅山

 石見銀山も、江戸後期には、銀山と言うより銅山と言ったほうが当てはまるのですが、元々が銀山ですので、銀の産出が少なくなってもやはり銀山です。石見銀山領内に「久喜、大林銀山がありますが、ここは鉛が多く産出しました、しかし、鉛山ではなく銀山です、良く知られる佐渡金山は実は銀(2330t)の方が金(78t)より大量に産出しましたが、金山です。

大林山神社

 今一つ「御直山」と「自分山」という表現がありますが、これは「間歩(銀を掘るための坑道)」の経営形態を言ったもので、この時の山とは間歩の事です。御直山は「大久保間歩」や「龍源寺間歩」のような代官所が経営する間歩で、自分山は、山師個人の経営する間歩をいいます。因みに、龍源寺間歩に行く途中「福神山間歩」が道路沿いにありますが、本来あの表記は「福神山」或は「福神間歩」のほうが良いのではと・・・(銀)

龍源寺間歩への道中にある「福神山間歩」

 

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かなめいし

 石見銀山では、鉱石を砕くのに、臼ではなく「要石(かなめいし)」が使われました。要石は、町のあちこちでも普通に置いてありますし銀山川の中にも時々見る事が出来るほど数多く残っている遺跡です。

この要石の上に鉱石を置きハンマーで砕いてゆく方法です。

          要石(かなめいし)

 何故?これは恐らく石見銀山の銀鉱石の特徴に由来すると私は思っています。開発当初大量に銀を産出したのは仙の山(銀山)の頂上付近の「福石鉱床」です。これは火山による噴出物が降り積もった「凝灰岩」で出来ています。この降り積もったガサガサの状態の隙間に地下からの銀を含んだ熱水が染み込み冷えて銀鉱石となりました。その代表的なのが「福石」と呼ばれる銀鉱石です。この地方の火山はデイサイトと呼ばれる、粘り気のある溶岩のため、釣り鐘状の形をしていますが、「仙の山」は火山噴出物が降り積もって出来たため山の形は平で他の山々とは明らかに違います。

          仙の山(石見銀山)

 このようにして出来た銀鉱石は比較的もろく要石の上で容易に粉砕できます。別に苦労して臼を使う必要が無かったという事だと解釈しています。そして、「要石」ですが、いろいろ説はあるでしょうが、私は「銀女石(かなめいし)」説を支持したいと思います。実は坑道内で銀を掘るのは「銀堀(かなほり)」といい男の仕事です、一方銀鉱石を砕くのは女性の仕事ですから、「銀堀(銀男)」に対する「銀女」と解釈すべきと思っています。つまり「かなめいし」は「銀女石」ではないかと・・・。(銀)

 

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地方から見たシステムP5

 幕府の改革は石見にも当然波及してきます。一つに「地役人」の問題があります。奉行時代から幕府は石見陣屋の地役人が多すぎると言っています。銀の生産量は激減しているのに百名ばかりの地役人は多すぎるという事です。しかし、この問題は一筋縄では踏み込めないのです。

当初、大久保、竹村奉行時代は、年貢計算の基となる「検地」のために必要であった「地役人(現地役人)」も幕府から見れば用済みの無用の長物的な見方もできます。銀生産にも100名は多すぎます。現地(石見)で地役人を削減したくても代官一人で百名の地役人相手では当然大きな抵抗に遭いおいそれと出来ないことは当然と言えば当然です。歴代の奉行代官はこの問題に手を付ける事が出来ませんでした。下手に行えば混乱は必定、それよりも数年の任期を無難に過ごしたいのは理解できますよね。

銀山付役人・加藤家

 しかし、この難問に着手したのが、27番目(26番表記もあり)天野助次郎代官でした。かれは、地役人の名跡売買に目を付け(名跡売買とは、有力百姓と養子縁組し自らは百姓から大金を受け取り隠居と称して、地方に下り、代わりに養子となった者が地役人として勤務)。色々すったもんだもあったでしょうが、百名の地役人総リストラ、再雇用となり20名が削減、またそれまでばらばらであった給料も役人30俵同心・15俵・仲間8俵に抑えられました。私が個人的に計算したところ、1728年(享保13)と1752年(宝暦2)では総額で518俵の経費削減となっていました(公式な数字ではありません)。

銀山付役人・川島家

 また、これを機に地役人の身分は大きく変わりました。役職は世襲ではなく「父籍番代」、一言で言えばそれまで家に支払われた給料が(譜代)、人に支払われる形です。父が隠居すると、その空席に息子が着く、表面上変わりが無いようですが、身分的には大きく変わります。これらも、代官一人が出来るものではなく当然幕府の構造改革が地方に波及した表れと見るべきでしょう。

このように地方優位のシステムが、中央(幕府)主導の構造に、少しずつ少しずつ変えられていったのです。(銀)

銀山付同心・柳原家

 

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地方から見たシステムP4

 国家を維持するには、財源の確保が絶対条件です。17世紀(1600年代)は中世方式の年貢徴収から近世型の年貢徴収方式に段階的に変わってゆく時代であったことが、地方の幕府直轄地である石見銀山の資料から読み取れる、いわば銀の生産だけではなく、17・18世紀とは,徳川政権とは何であったかという事のわかるところと言えるのではないでしょうか。

内側から見た代官所・長屋門

 

奉行時代と代官時代を比べますと

奉行の下に在郷で現地に詳しい小代官がいた

奉行は、知行取など概ね高給取り

奉行の任期が長い

世襲が多い(恐らく小代官も世襲)

一方代官は

代官には十名前後の代官手代(部下)がいた

俸禄は切り米が多く旗本でも下位層

幕府・勘定所から派遣、任期は数年と短い

原則、世襲はしない。

 

又、奉行時代でも、当初は税の徴収請負人的な者が村々との間に居ましたが、後にはそれに「目付(奉行側の人物)」が付いたそうです。このように、中世型の税の徴収は、現地の実情に詳しく地方に君臨する者が世襲で税を徴収する地方主導型であり、それが徐々に官僚による、幕府主導型に変化したのが17世紀でした。

つまり、石見銀山で奉行が廃止になり代官に変わったのは、銀生産云々ではなく、幕府の構造改革の表れと見る事が的を得ているのです。(銀)

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武士の給料

下級武士の給料は「蔵米取」又は「切米」と言い直轄地からの年貢で賄われます。春4分の1、夏4分の1、冬4分の2の三回に分けて支給されるので「切米」というとか、江戸の蔵前で支給されますが、受け取るのは「札差」という商人です。武家の米を受け取り運搬、一部は換金して届けるのが仕事です。米の換金は米問屋に売り渡され、それが江戸庶民に流れるという、システムです。

 

一方石見銀山ではどうでしょう。勿論札差などは存在しません、代官所で現物支給という事になります。

大森代官所の年間行事を見ると、

1月に地役人の扶持米の支給(使用人手当)

3月に春の切米支給(4分の1

6月に夏の切米支給(4分の1

11月に冬の切米支給(4分の2

12月に勤励手当(ボーナス)の支給

となっていました。

なんと、ボーナスもあったんですね。また、先日紹介した阿部家の7代目「光格」さんの義父(阿部家6代目)は、20才から72才の50年間勤め退職の際には銀5枚の功労金をいただいた由。(銀)

石見銀山・地役人「阿部家」裏庭

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地役人のサイドビジネス

石見銀山の地役人、303人扶持程度の給金では決して暮らし向きが良いはずはありませんですよね。しかし実際には給金以上の暮らしをしている地役人もいたようです。例えば京都の老舗店舗の高級お茶を取り寄せたとか、長崎でベルベット(ビロード)の羽織やカステーラを求めた、とか高級金魚を求め代官様にプレゼントした等とても303人扶持とは思えないお金の使い方をした由。

CC BYのライセンスを承諾されています。

 

また、金子の貸付等おおよそ30俵程度の給料ではありえない話です。(30俵と言えば、必殺シリーズの「中村主水」様クラスですから)。

実は、給金以外の副収入があったようです。例えば農業収入等、武士ですから表向きは出来ないはずですが、他人名義で行っていたようです。又、銀山町や大森の町に複数の土地を所有している地役人もいて、なかなかどうしてたくましい限りですね。代官様も見て見ぬふりしていたのでしょうかね。(銀)

銀山付役人(地役人)川島家裏庭

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勝源寺墓標から見えるもの

石見銀山には述べ59名の奉行代官がいましたが、在職中に亡くなった代官も少なくありません。代官様のお墓が多く残っているのも特徴です。恐らく、江戸周辺の代官所では現地に代官の墓標が残されていることは無い事から、江戸周辺では代官は現地に居なかったのでしょう。

43番目・前澤代官墓標

 

在職中亡くなったすべてが大森で亡くなったという事ではありません。江戸で亡くなった代官もいます。という事は、石見銀山代官に名があったからと言ってすべての代官様が大森に居たというわけでは無い事が分かります。また、その逆に家族の墓標がある事から家族を連れて赴任する代官もいることが読み取られます。

次の写真は、勝源寺墓標から、40番目・大岡代官母(享年77)の墓標(右)と57番目加藤代官の弟の墓標(左)です。

加藤代官の弟の墓標(左)  と  大岡代官の母の墓標(右)

当然代官手代も在職中に亡くなる者もいたことが墓標から判明します。また、現職代官が亡くなると、代官手附は俸禄が保証されていますが、代官手代は一大事です。雇い主がいなくなることは収入がなくなるという事ですから恐らく、大急ぎで江戸に帰り次の就職口を探さねばなりません、当にリクルート活動です。

代官手代と代官様、相性もあるようで特定の代官について回る手代も居れば、雇い主の代官を次々代わる手代もいたようですし、なかには代官様を叱りつけるほどの強者もいたとか、代官も手代もいろいろ多様化があったようです。(銀)

石見銀山2代目奉行竹村丹後守道清の墓所

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