<< October 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

カテゴリー
最新の記事
最新のコメント
最新のトラックバック
月別の記事
リンク
サイト内検索
その他
美味しんぼ 109 (ビッグ コミックス)
美味しんぼ 109 (ビッグ コミックス) (JUGEMレビュー »)
雁屋 哲
著名なグルメ漫画に『日本全県味巡り 島根編』が登場しました。石見の食の幸も色々紹介されています

国銅〈上〉 (新潮文庫)
国銅〈上〉 (新潮文庫) (JUGEMレビュー »)
帚木 蓬生
天平の世、大仏造営の命を受けて奈良へと旅立つ青年の苦難の人生を軸に、当時の人々の生き様が素朴で力強く描かれた良書
SPONSORED LINKS
MOBILE
qrcode
江戸時代のシステム

代官は江戸から遠い地方に赴きます。従って目も届きにくく不正の温床になりかねません。8代将軍吉宗の時期口米の改革が行われました。代官は、年貢の他に口米を徴収それが代官所の経費とされていましたが。徴収率は一定しませんでした。代官次第で高額の口米を徴収することもあり不正の温床となる場合もあり享保10年(1725)口米は一度幕府に納め、改めて各代官所に支給されることになりました。また代官の権限は少なく、任期も数年と短いものでした。権限が大きく任期が長いと、不正やパワハラが起こるのは世の常という事なのでしょうね。

向陣屋跡(代官所前駐車場)から見た代官所門長屋

また、八代将軍吉宗が享保8年(17236月施行した、「足高の制」は、能力はあるが禄高の低い者、家柄が低いためにその役職に就けないという不都合を解消、(江戸期役職にはそれなりの禄高の基準がありました)。在職中はその不足分を支給されました。例えば俸禄100俵の者が代官になるとその期間中は50俵の不足分が上乗せされて150俵が支給されます。従来は加増という形でありましたが、幕府の財政が圧迫されるのを解消する意味もあったのでしょうね。石見銀山の場合、調べてみたら延べ59名中三分の一に近い代官様が該当していました。因みに、江戸の代官自宅は在職中には出張所になり代官手代が数名勤務し地方の代官所と江戸の幕府との連絡などをします。そのため自宅の改築もすることになります。(銀)

内側から見た代官所長屋門

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:01 | comments(1) | trackbacks(0) |
代官制度の改革

石見銀山では延宝3年(1675)に奉行支配から代官支配に変わりました。よく産銀量が落ちたのが原因と耳にしますが、実は幕府のシステム変更の過程によるものです。

江戸初期は家康の信任のもと実務を取り仕切り、大きな権限をもち、検地、灌漑、治水、鉱山開発等独自のノウハウを持つ代官頭(大久保長安・彦坂元正・長谷川長綱・伊奈忠治)がいて、さらに在地土豪や豪商等の代官がいました。つまり、初期の代官は土地に根ざし代々家職として継承することが多く、それは個人経営的な年貢請負人的なものが多かったようです。石見銀山では、地役人約百名が「大久保長安」から直接指示を受けたようです。

代官頭・大久保長安

代官頭4名はそれぞれ、江戸を取り巻く形で陣屋(本拠地)を構、大きな力を持ちましたが、二代将軍秀忠の頃には幕府の制度も整備され、死亡や失脚してゆく中「伊奈家」はかろうじて代官として業務を狭めて存続するも江戸後期改易、華々しく活躍した代官頭は無用の長物となったようです。生前「年寄(後の老中各)」に名を連ねた「大久保長安」の一族粛清も一つにはこのような流れが影響したのかもしれませんね。

伊那忠治ゆかりの埼玉県伊奈町

彦坂元正のかるた(神奈川県戸塚)

その後、5代将軍「綱吉」の頃には財政支出も増え財政難が出始め代官の監査が強化され代官の大量処罰がなされましたが、一概に代官の不正というより、システムの欠陥によるものと思います。

悪名高い「犬公方・綱吉」は、どっこい、在地と無関係の者を代官として派遣、人事の流動化をし、代官職を、代々引き継がれる「家職」から単なる「職」として位置づけました。この「天和の治」により代官の意味は大きく変わりました(石見銀山が代官支配になったのはそんな流れの一コマだったようです)。「犬公方・綱吉」ちょっと見直してみませんか?(銀)

5代将軍徳川綱吉

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
豊栄神社のお話

龍源寺間歩への道中「豊栄神社」があります。(修復中)祀られているのは戦国武将「毛利元就」。

豊栄神社

元々山吹城にあった元就の木像を元就の孫「輝元」が戦火で失われるのを配慮し、「長安寺」を建立ここに移しました。慶長5年(1600)関ケ原戦いで徳川の直轄地となり毛利の手が届かなくなり、寺は荒れ天和2年(1682)智向住職は、木像をもって萩に赴き修復を願い出ましたが、毛利家は幕府への配慮からそれもかなわず、木像も取り上げられ、代わりに画像をもらい供養するようなりました。その後13番目の「井口代官」は、木像の代わりの画像であるという証が無いと寺の領地は認めないと言い、住職は毛利と協議の結果新たに別の木像を造りもらい受けることになり、井口代官はそれを了承、画像と引き換えに新木像が安置された由。

「毛利元就公菩提所木像安置・洞春山・長安寺」の碑

時代は移り慶応2年(18667月長州戦争でこの地を占領した長州軍先鋒隊(第3大隊2番中隊・172名)は、「長安寺」に「元就公」の木像が安置されているのを知り感激、本殿、拝殿、随神門、鳥居を建て、灯篭、狛犬、水桶等を献納。中隊はその後「鳥羽伏見」の戦に赴きます。

「第3大隊2番中隊」が刻まれた灯篭

維新を表す「維歳丁卯秋七月」が刻まれた灯篭

大政奉還の以前で戊辰戦争の前年を表しています

大森役所は「武田伊兵衛」が代官として任務に就きました。明治になり正式に朝廷より「神号」が与えられ明治3年遷宮式が行われたそうです。

時は移り昭和18年未曽有の大水害で神社も多大な被害を受けましたが、神社には氏子もなくまた、戦時中で男手もなく応急手当を余儀なくされたことが今回の平成の調査で確認されました。(銀)

拝殿(ブルーシートは発掘調査用)

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
石見銀山発見伝説

私たち、石見銀山ガイドの会・ガイドが歴史を語るとき、主に基になっている資料は「銀山旧記」ですが、これには、南北朝時代自然銀を採取したことから、大永年間に博多の商人「神屋寿禎」が日本海を航行中、山が光るのを見て銀山発見・開発そして「灰吹き法」という銀の製錬法を導入、戦国時代のし烈な銀山争奪戦から江戸初期の銀山繁栄の様子が書かれています。しかし、江戸時代後期に編纂されたもので、複数の類本や写本・軍記物語等からできたものでその過程での移し間違い、誇張等が認められます。

「石見銀山資料館」を始め各方面で石見銀山の解明が進む中、当初銀山発見大永6年(1526)が正しくは大永7年(1527)である事が有力視されています。

元大森小学校教諭・丸亀貴彦先生画「山が光った!」

 

銀山発見に注目すると、「おべに孫衛門えんき」には大永6年丁亥(ヒノトイ)「三島清右ヱ門」が鷺銅山・三人の技術者を連れて入山、「神屋寿禎」は三島と連名で山主となり「小田藤左ヱ門」を代官として現地に派遣し、米や銭を入れ銀を購入とされ、寿禎本人は現地に赴いたとは記されていません。同様の記述が「銀山乃初」にも記されていますが、唯一異なるのが、入山の日です。「おべに」では大永6年丁亥(ヒノトイ)で、「銀山乃初」では大永7年丁亥と記されています。これが、江戸中期に書かれた「銀山記」では大永6年丙犬(ヒノエイヌ)とされ、「寿禎」の話を聞いた「三島清右ヱ門」が三名を連れたとあり、ここでは「神屋寿禎」が発見者で、「三島清右ヱ門」が最初の入山となっています。

「仙の山」頂上付近「石銀(イシガネ)地区」

 

因みに、大永6年は丙戌(ヒノエイヌ)であり、大永7年が丁亥(ヒノトイ)ですので、「おべにえんき」が年号又は干支のどちらかを間違えているのです。

これに関しては古文書ではなく「清水寺」の棟札に「或人曰大永7丁亥年以降堀覓」とあることから、「おべにえんき」が大永7年とするところを大永6年とし、「銀山記」で6年として干支を丁亥から丙戌に是正、銀山旧記でこれを採用したとみるべきでしょう。

歴史を解明する時、一つの古文書を鵜呑みにするのでなく、複数の古文書を照らし合わせて判断しなければならないのでしょうね。

今も石見銀山では、膨大な古文書の地道な解読がなされ発表されています。我々石見銀山ガイドはそれらをもとにして、お客様に分り易い表現でのガイド活動に日々取り組んでいます。(銀)

自然銀を含む良質の銀鉱石

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
銀山以前は修験の山・銀峯山

伝承ですが、石見銀山「仙の山」はその名の通り「仙人の住む山」で修験の山であったそうです。

仙の山(銀峯山)

今は龍源寺間歩への遊歩道、道中にある「清水寺(セイスイジ)」は元々、「仙の山」の頂上にあったもので、推古天皇28年(620)尊隆上人が清水の山に住む楊命仙人より授かったインドの仏師「毘首羯痺(ビシュカツマ)」作の「十一面観世音菩薩」(高さ約6僉砲鯔楝困箸靴拭崚恵啝」というお寺だったそうで(後十世紀末「行基菩薩」が訪れ、高さ80冤召蠅僚衆賁夢兩げ司郢Г梁瞭發砲修譴鯒爾畤靴燭文翹楝困箸靴燭修Δ任后)

清水寺に伝わる役行者木像

また、こんな話はいかがでしょうか。7世紀後期修験の祖「役行者小角(エンノオヅノ)」が奈良の「金峯山」に対する「仙の山・銀峯山」を訪れた頃

役行者ゆかりの奈良県「金峰山」

銀山と仁摩町大国を結ぶ街道(鞆が浦街道)の谷川沿いに妖怪が現れ旅人を大きな口で一飲みにしてしまい旅人に恐れられていました。

役行者小角

その話を聞いた「役行者小角」は日暮れ近くその場所で妖怪の現れるのを待ち、やがて現れた巨大な妖怪ハンザキと夜通し激しく戦い、明け方近く役行者小角の止めの法力で妖怪を大きな岩に変えてしまいましたとさ。(銀)

役行者に岩にされたげな(されたらしい)鞆が浦街道の「ハンザキ岩」

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:03 | comments(1) | trackbacks(0) |
百姓一揆裏話

一揆の発生する理由は色々あると思いますが、村に異変が起こり、民衆の生活が困難となりその度合いがピークになった時でしょう。

慶応2年の石東百姓一揆からその実態を見ると、事の起こりは、第二次長州討伐により諸物価が値上がり、平素の数倍から最高7倍となり、それでも地域の有力者は売り惜しみする現状がありました。

一揆は何日も前から計画され、不参加者はその後の村での生活は出来なくなります。これは、集結時村中を大声で参加しない者は後で家に火をつける、と触れ回っていることからわかります。

鳥井村はずれ「権現山」集結の図(鳥井史誌より)

参加者は、顔を煤で黒くしほっかむりをして自分が誰かという事を隠します、(後々「あいつがやった」と言われないように)また、少なくとも一日目の行動は細かく決められていました。襲撃する屋敷と襲撃しない屋敷、家人に危害を加えない事や襲撃する時間も決められていたようです。一揆は時間と共に参加者が増大します。また、一揆から密かに脱退する者もいます(一揆の参加者は変わってゆく)、この事は、一日目の襲撃された家の砂糖壺(当時は大変高価のもの)が鳥井町に残っていたことから分かります、この後延々と続く一揆にまさか砂糖壺を抱えて参加はしないでしょう、密かにお宝を抱えて帰ったものと想像できます。又この時この屋敷内で酒樽を太鼓代わりに盆踊りを踊ったと言い伝えられます(この時の口説き文句“歌詞”は今も同じ文句が唄い継がれています)。先に大田の町に矛先を向けた者、遅れて一行に向かった者の他に当初の参加者の一部は密かに一揆から抜け出て帰還した由。

一揆は、人の上下関係が逆転する場でもあります。あるところでは、一揆の参加者が主人を前に座らせ延々と、親方の平素の在り方や行いを説教し、親方は平身低頭したそうです。一揆での飲食は事欠かなかったようです。一揆の来る前に親方衆は我先と酒魚握り飯等を準備したり、時には一揆に届けます、「○○屋でございます、皆様お疲れでございましょう」といった具合に、ここでも、すんなり受けるときと逆に目の前で届けられたものをひっくり返す事もあった由。

一揆とは、民衆の憂さ晴らしでもあったのでしょうね。故に、有力者は、常日頃から地域の人に気を使わねばならなかったのでしょうね。

一揆始末の絵(鳥井史誌より)

この「石東百姓一揆」の3人の首謀者の墓は、いずれも、鳥井町の大満寺に2基と法専寺に1基あります。(銀)

一揆首謀者の墓(大田市鳥井町・大満寺)

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
夏草や 兵どもが 夢の跡 ---銀山異聞とフクラスズメ
 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

毎年この時期、まだ夏草の茂る中にもひっそり秋の気配が感じられるようになると、この松尾芭蕉の句がふと思い出されます。

芭蕉がこの句を詠んだのは奥州高館でのこと。けれども、ここ石見銀山にも《つわものどもが夢の跡》はそこここにあります。


その昔、戦国武将たちが石見銀山を支配せんと争いを繰り広げていた時代がありました。
中国十カ国を制した毛利元就が勢いに乗じて石見銀山に攻め込みましたが、尼子方が要害山山頂に築いた山吹城を陥落させることはなかなかできませんでした。

要害山、標高414m。
山吹城を守っていたのは、勇猛果敢で名を馳せた尼子の武将・本庄常光でありました。

周囲の急斜面には20本近くの縦堀がほどこされ、山頂から石を転がせば、大変おそろしい武器となりましたし、急な坂道には一面に筍の皮が敷き詰められ、登ろうとすれば滑り転がるというわけで、さしもの名将・元就もこの山吹城攻めには手をこまねいたと言われます。

しかし。
ある夏の日、人の背丈を超えて茂った夏草に身を潜めながら粛々と進攻してきた毛利勢によって、山吹城はあっけなく陥落したのでした。進軍する毛利の兵たちが身を潜めた夏草は、地元で「マオ」とも「ムショウ」とも呼ばれる草でした。


それ以来何百年経つでしょうか、残暑の頃になると石見銀山にはひたすら「マオ」の葉だけを食いつくす毛虫が現れます。不思議と「マオ」の葉にしか取りつきません。

地元の古老の言い伝えでは、山吹城の戦いで命を落とした兵たちの魂が「おのれ、このマオさえなければむざと城を陥されることもなかったはず」の一念で虫に身を変えてマオを食い荒らすのだそうです。

虫嫌いな方には2011年要害虫申し訳ありませんが、その毛虫の写真をお見せしましょうか。

この毛虫、フクラスズメという蛾の幼虫です。例年であれば9月半ばから現れるのですが、今年は気候のせいか、もう盛んに見かけるようになりました。

銀山の”つわものどもが夢の跡”に現れるこの虫は、何を思いながら夏草を喰んでいるのでしょうね。


ちなみに山吹城が攻め落とされたのは永禄4年(1561)旧暦7月。現代でいえば、ちょうど今頃のことです。
| 銀山 むかし語りいま語り | 22:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
故郷忘れ難く候〜赤名峠異聞 その10
 

万右衛門が非業の死を遂げてから10日余り過ぎた728日のことである。

ようやく広瀬藩つまり容疑者・磯五郎の在所から、役人衆がやって来た。


先だっての吟味の場にも広瀬藩からは誰ひとり同席しなかったのである。今頃になっての着到の理由をどう見るか
---他の“関係者”である大森天領や広島藩への遠慮と見るか、国境を越えた事件ゆえの手続きの複雑さと見るか。


いずれにしても、広瀬藩役人は

「これ以上、広島藩に迷惑をかけられぬ。よって吟味の場を我が藩領に移されたし」

ときっぱりこう述べた。

そこで白州は赤名町肥後屋に移されることとなった。磯五郎は引き立てられ、関わりある者一同がぞろぞろと赤名に移動したのである。

 

横谷村の庄屋・要平の気は晴れぬ。

(結局、水野様の命を果たすことは出来なかった・・・)

大森代官所の手代筆頭役・水野正太夫の頼みを受けて、磯五郎に自白を促すべく試みたこと、二度三度ではない。しかし磯五郎は頑なに

「わっしではありません、わっしは殺しておりません」

とかぶりを振るばかりである。いわば≪限りなく黒に近い灰色≫であるが、要平には如何ともし難い。

 

赤名町肥後屋の白州で、磯五郎はいよいよ拷問に掛けられることとなった。自白を望んで居た御役衆の間でも「もはや、きつい責めも致し方なし」との意見で一致したのである。

磯五郎は囚衣もろとも後ろ手に縛られ、三角にとがった十露盤板の上で石を抱かされた。縦三尺に横一尺、十三貫の平石が一枚、また一枚と膝に乗せられていく-----

 

磯五郎はついに一切を白状した。

「あの日、赤名の峠で万右衛門に会うたのです。作木での博打で負けて、すっからかんの無一文だったので、万右衛門に『少々金子を貸してくれまいか』と頼みやした。嫌な顔つきでかぶりを振るので、なおも『20文か30文でいいから』と万右衛門の荷物にすがって口説きやした。


そのうち万右衛門がステンと転び、荷物が滑り落ちて中身が辺りに飛び散った。万右衛門、かっと怒って『この、横道者が!』と私に手元の石を投げつけて来たのです。私はその石を万右衛門に投げ返した。すると石が万右衛門の額に当り、大層な血が流れました。


うっと額を押さえてうずくまる万右衛門を見て、『こんなことになったからには、生かしておいてはまずい』無我夢中で天秤棒をふるい・・・動かなくなった万右衛門の懐から財布を奪って駆け出し、財布は国境番所の風除け垣の中に隠して、番所に通報したという次第でごぜえやす」


果たして財布は磯五郎の供述通りの場所にあった。この一件は江戸にも伝えられ、老中揃って討議のうえ「広瀬藩赤名宿・磯五郎、打ち首獄門のこと」と決まり、その秋に果たされた。


********************


赤名峠がそうであったように、かつて「峠」は、国境を成していた。

山道を登りつめ、

いよいよ峠を越して我が故郷へといさんで帰る者。

いよいよ峠を越して見知らぬ国へと足を踏み入れる者。

「峠」には、数知れない旅人がそれぞれの思いを胸に行き交ったドラマが詰まって居る。
その中で、万右衛門の悲劇も生まれた。

 


「鎮魂 故郷忘れ難く候」

故郷の波根西村へと足をはやらせながら赤名峠で非業の死を遂げた魚行商人・万右衛門の魂は、今も峠近くの碑でひっそりと祀られている。
(了)

| 銀山 むかし語りいま語り | 04:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
故郷忘れ難く候〜赤名峠異聞 その9
 

要平は、室市の升屋栄次郎の屋敷に籠められている万右衛門殺しの第一発見者・磯五郎のもとを訪ねた。大森代官所の手代筆頭役・水野正太夫からの頼みを受けて、である。

磯五郎は薄暗い壁にもたれ、板敷きにダラリと座っていた。薄鼠色の囚衣をあてがわれて居る。すでに単なる重要参考人ではない、容疑者の扱いであった。むろん飯や水はあてがわれているが…。

 

疲れたような不貞腐れたような表情で横を向く磯五郎に、要平は声をかけた。

「どうじゃ、磯五郎」

磯五郎は顔を上げた。要平、静かに、しかしきっぱりと告げる。

「もうたいがいに白状せぬか。先のお役人衆の吟味でも、様々なる調べでも、お前の言い分の是一つも通らぬことは明明白白なのじゃ。このまま頑なに口をつぐんで居ても、良いことは何ひとつ無いぞ」


要平、ここへ来る道々でどう切り出そうかと考えていたのだが、結局はこういう謂いとなったことである。


「わ、わ、私が殺ったんじゃありやせん!」
磯五郎は大声でわめいだ。

「何かの間違いだ、よぉく調べて下せえ、何ならもう一度お白州に出たっていい。考えてみて下せえ、私は万右衛門どのを助けようとして酷い目にあったんですぜ、それがなぜこんな、」


「もう良い、磯五郎!そろそろ芝居は終わりにせぬか」

「し、芝居なんかじゃござんせん。私はやっておりやせん」大きくかぶりをふる。

「磯五郎・・・」

きつく睨みつけながらも要平、内心は困っている。

 

水野正太夫からは「どうにか白状させよ」との命を受けて居た。江戸の時代、犯罪の容疑者にはとかく厳しい詮議をしたり拷問で口を割らせたりしたという印象があるが、実のところそうではない。容疑者が自ら罪を認めて粛々とお縄につき罰を受けるというのが理想であって、「自白させられず仕方なく拷問を加える」というのは諸役方にとって恥ずべきこととされていたのである。

 

ところが目の前の磯五郎、頑なに認めようとせぬ。

(これでは、どうしようもないではないか・・・)


要平はいったん引き揚げた。帰り際、板敷きに手をつきこちらを恨みがましい目で見つめる磯五郎の囚衣がはだけ、ちらりと覗いた刺青が、要平の脳裏に焼きついた。
(続く)

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 05:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
故郷忘れ難く候〜赤名峠異聞 その8
 

<8>

ところかわって、ここは室市の升屋栄次郎方である。

大森代官所の手代筆頭役・水野正太夫ほか関わりある役人や庄屋たちが磯五郎の吟味を行って居る。


すでに一刻も経っただろうか。ことが大森天領・広島藩・広瀬藩と国境をまたぐややこしい話だけに、各々の面子もあれば立場もある。《揺るがせには出来ぬ》とばかり、場の空気はしんと張り詰め、蜂の羽音さえ雷に聞こえそうなほどであった。


磯五郎は、
16日の夕刻のことをつらつら語り

「・・・というわけで、慌てて国境番所に駆け付けたところで番人の友次郎どのに出会ったとこういう次第でごぜえやす、へえ」と息をついた。


「うむ。では聞くが、お前が行き会うたというその無頼の輩、どのような風体であったか」

「どのような、と申されますと」磯五郎、はっとした。

「何も目が二つに鼻一つなどと訊いて居るのではないぞ、身なりを見ればどのような者どもか見当もつこう」

「…い、いずれも月代の整わぬ者どもで、もみあげ長く色黒く、人相凶悪にて、縞の半襦袢にわら縄と間違う帯を締め…」

役人、庄屋たち、顔を見合わせる。これではまるで町芝居の口上である。

「して、言葉は交わさなかったか。訛りを聞かなかったか」

「私が加勢に戻りました折、『やめろ』『何を、こいつめ』と逆にやられてすぅーと気を失うてしまいましたもので、へえ」

「では、」広島藩の御役・手島武平次がたたみかける。万右衛門殺しの場が広島藩領であるゆえにこの一件にも立ち会うのは当然だが、正直なところ(早く片付いて欲しい)というのが本音であった。

「お前は、気のおぼろげな中で石州に駆け逃げたのを見たというのか?」

「は、いえ、あの、今となりましてはいずこに逃げおおせたかも定かでなく……」

磯五郎、目が宙を舞って居る。

そこへ水野正太夫、

「万右衛門を殺めたのは、---お前ではないのか?」

声を高めてずばり訊いたものである。その一言に、場の空気がさっと張り詰めた。

「へっ?! わ、私ではごぜえやせん、そのような恐ろしい事、決して決して」

磯五郎、何度も大きくかぶりを振り、貝のように口をつぐんだ。

吟味はいったんここで打ち切りとなった。

 

吟味を終えた大森代官所の手代筆頭役・水野正太夫は翌日、庄屋の要平を呼び付けた。

朝から小雨が降り続き、庭の前栽が濡れて色濃く光って居る。

「金子は、見つかったのか」

「いえ、この辺り一帯くまなく、それこそ番屋の床板まではがして調べさせておりますが、見つからないのでございます。まことに申し訳ござりませぬ」

「ふむ。いずれにせよ、こたびの下手人が誰か、そちも先刻分かっておろう」

「は…っ」

「これ以上吟味が長引けば広島藩に迷惑がかかる」

迷惑がかかる、とは裏返せば天領大森の面子が立たぬ、との意味でもある。

「そなた、早々に事を収めてくれぬか。頼むぞ」言い置いて座を立った。水野正太夫の頼みは分かって居る。しかしそう易々といくかどうか・・・
(続く)

| 銀山 むかし語りいま語り | 02:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
| 1/5PAGES | >>