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山の見立て

 17世紀(1600年代)日本の銀は大半が対外貿易に使用されました。「新井白石」によると全体の3/4が対外貿易に使われたとのことです。一方17世紀半ば頃からは鉱石の枯渇、採掘場が地中深くなったため湧き水などにより産銀量は激減しました。

江戸時代の貿易の窓口・長崎の出島

 実は、日本の銀山は海外の銀山に比べて規模が小さく開発から数十年で枯渇してしまうのです。海外では採掘期間が何百年と長くその規模が大きく、それが日本との大きな違いなのです。この事は銀の採掘方法にも大きな違いが出ました。つまり海外では坑道は大きく滑車等機械化が進み、立坑が良く利用されます。一方日本では、そんなところに経費を費やしても設備の償却がなりません、したがって坑道は狭く、人力でチビリチビリと採掘することになるのです。結果的に自然に負荷のかからない採掘がなされた云々になるのでしょうね。

仙の山・山頂付近の第3号間歩坑口

 小規模な銀山は、新たな銀山を開発せねばならないので、わが国の山師たちは銀山を発見することが大切になります。俗に云う「山の見立て」が大切で、「山相学」なる学問もできました。しかし、どうも山師の経験を陰陽五行に当てはめた感が強いです。最終的には新銀山の発見は山師の「山勘」によって発見されたのかもしれませんね。(銀)

山相秘録

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石見銀山と無宿人その2

 石見銀山ガイドをしていてよく「銀山では佐渡のように罪人を使っていたのですか?」と聞かれます。答えは先週のブログの通りでした。(短期間使った記録がありました)

当初佐渡でも、水替え人足は募集で、重労働ではあるが高賃金のため周辺の村々は潤ったそうでした。しかし坑道が深くなるにつれ労働環境も悪化その上多くの人夫が必要となり人夫不足が深刻になりました。

一方天明の大飢饉により村を捨てて江戸周辺に多数の無宿者が増え無宿者による凶悪犯罪が多発し治安が悪化しました。その予防対策として、犯罪予備軍である無宿者を捕らえ彼らを佐渡金銀山に送り不足している水替え人足として使用したのです。

天明の大飢饉図

 というわけで、佐渡送りになった者は必ずしも罪人ではなかったのです。今の時代では考えられない「罪を犯す前に犯しそうなものを捕えてしまえ」と云う事でしょうか・・・。

元々は犯罪者の更生の意味合いもあったようで、作業に応じて小遣い銭が貰え年を経て放免の暁には幾らかの蓄えを持って故郷に帰る事が出来る建前ですが、水替え作業は過酷で3年以上は生存できないと云われたほどで逃亡も後を絶たなかったそうです。

石見銀山でも坑内の湧き水には苦労をしていますが、佐渡では江戸後期には、採掘現場が深くなりそれと同時に大量の湧き水が出るなど、佐渡の湧き水、出水は石見銀山の比ではなかったようです。因みに石見銀山で無宿者の従事した仕事は「柄山負い」(掘り出した岩石を外まで運び出す仕事)と記されています。(銀)

柄山負い

 

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石見銀山と無宿人その1

  関代官の「御救拝借」から川崎代官の「十分一銀」の整備により息を吹き返し、「御直山」(代官所経営の公営間歩)主導の石見銀山でしたが、天保期に入り飢饉や疫病、特に天保9年(1838)の疫病大流行で多数の犠牲者を出し、結果銀山での人手不足となり又も窮地に陥りました。

鉱山絵巻より

 この人手不足を解消するため、佐渡金山に習い石見銀山でも無宿人を使う事になりましたが、結果は思わしくなかったようです。無宿人を使用したのは、天保14年の僅か数か月の記録しかありません。結局銀山の稼ぎ人は銀山で育てなければならないという事で、少子化対策として出来たのが、子供養育米の制度でした。

石見銀山では、二歳から10歳を子供として認め一人当たり一日3合の米を支給する物です。因みに生まれて一年すると「宗門人別改帳」に登録し子供として認められます。11才になると、「テゴ」と呼ばれる鉱山の仕事に付きます、補助作業、連絡係等の仕事です。

この「テゴ」という言葉は現在も「手伝い」の意味でこの地方では使われています。(銀)

お手伝い、(無料イラストより)

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石見銀山の山師は特権階級

 石見銀山の「山師」になると苗字帯刀が許される特権があります。つまり、石見銀山の山師は特権階級なのです。これは、慶長の時代大量の銀を納め、又大阪冬の陣での功績が家康の目に留まったことによるそうです。なんと、石見銀山の山師と堀子300名は大阪冬の陣に参戦し、大阪城の堀の水をせき止め、堀の水抜きを抜群のスピードで成し遂げたそうです。

徳川家紋・三つ葉葵 と 豊臣家紋・五七の桐

 この特権は石見銀山でも「山内」である銀山町だけに許された特権でしたが、江戸後期になると銀山が衰退し、銀山町の資本だけでは成り立たなくなり外部資本の導入せざるを得なくなりました。これは、銀山を直接経営する従来の山師と、資本提供することで山師の身分を得る外部者の共同開発がなされるという事です。

銀山町(山内)の山組頭「高橋家」

 このように、石見銀山では、当初は良好な銀鉱石が大量に産出し、誰がやっても儲かる時代から、間歩も地中深くなり、銀含有量も低くなり、湧き水も出るなど生産コストが上がり利益が出なくなりますと、銀山を守り維持するために色々な手法がもち入れられました。(銀)

大森町(陣屋町)

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銀山を支えた「十分一銀」

 十分一銀による貸付銀が整備されると、安定的な鉱山開発資金が確保することが出来るようになりました。石見銀山には、山師個人による民間経営の「自分山」と代官所が経営する公的な間歩「御直山」がありました。当初産銀量の多かったころには民間経営である「自分山」が多かったのですが、この頃から「自分山」は衰退し江戸後期には石見銀山の稼ぎ山(実際に銀を掘り出している現役の間歩)はほとんど「御直山」でした。

江戸期の代表的な御直山「龍源寺間歩」

 という事は、代官所の下請けを行うような形です。例えば坑道を掘るのも此処からここまでは入札により、山師Aが請けるという事ですから、現在の道路工事と全く同じような感じです。

部分開通した山陰自動車道・大田市久手〜出雲市多岐区間

 言い方を変えると、後期の石見銀山は、みんなで銀山を守り支えた時代と見る事が出来ると思います。銀山が存続することで、幕府は長崎貿易に使う銅や貨幣鋳造の銀が確保できる、役人は役人として生きられる、山師は苗字帯刀が許される、商人は商いが出来る、抗夫は仕事にありつける。これって利益をあまり出さない会社であっても従業員はじめその家族そして地域に大きく貢献しているのと同じですね。存続することに意義があるのですね。(銀)

部分開通した山陰自動車道・大田市朝山付近

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「十分一銀」と川崎代官

  石見銀山は江戸中期以降急激な産銀量の落ち込みとなり、「自分山」という民間経営の間歩(銀を掘り出す坑道)はほとんど不振に陥ります。そのような中、川崎代官の頃銀山は回復しました。これが川崎代官の行った「十分一銀」の制度によるものです。

川崎平右衛門供養墓(龍昌寺跡)

  これは銀山で生産された銀の一割を鉱山開発の資本に組み入れるという事でした。これを貸付銀として運用しその利銀で銀山の諸経費の捻出を計ったのです。

龍昌寺参道口から仙の山(銀山)を望む

  これは、前回(5月5日)で紹介した「関代官」の手法をさらに目的別に貸付銀を設け財源の多様化を図ったものでした。また、その後の代官にもこの制度は継承されたのです。

勿論このようなことを代官一人で決められるものではありません、計画の仔細を幕府勘定所に提出し許可を受けなければなりません。

川崎平右衛門定孝は、東京都の多摩、小金井市では、飢饉を救ってくれた代官として銅像も建てられています。代官様って素敵ですね。(銀)

多摩・小金井の桜と川崎平右衛門定孝の銅像

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関忠太夫代官の功績(平成31、4月28日続編)

 関代官が行った貸付は、当初の数年は順調に行きました。毎年利息の銀36貫が鉱山資本に使われましたが、関代官が亡くなった後次第に備後からの返済が滞るようになり当初の計画通りには行かない部分もありましたが、一定の成果がありました。

従来の貸し付けが特定の鉱山開発に必要な資金調達であったのに対し(例えば大久保長安が安原伝兵衛に行った釜屋間歩の開発)

釜屋間歩と岩盤遺構

 関代官の貸し付けは、鉱山開発や労働者の救済等幅広く利用され、拝借銀返済後も余剰金で継続的に運用で来た事で、後の石見銀山中興の川崎代官(定孝・一之進・定安の親、子、孫の三代・17621787・宝暦、明和、安永、天明)の時代に整備、拡充されました。

川崎平右衛門定孝の肖像画

 川崎平右衛門定孝は生まれは百姓でしたが、手腕と功績を買われ旗本に取り立てられ代官から勘定吟味役への大出世をなした名代官で東京多摩地区等では飢饉を救った代官様として銅像や郷土カルタにもなっています。石見銀山においても江戸中期に大活躍をなした代官様です。(銀)

川崎平右衛門の銅像とカルタ

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文字銀と関忠太夫代官(文字銀P2)

  22番目の関忠太夫代官のお墓が勝源寺にあります。

幕府の「文字銀(ぶんじぎん)」発行は低迷する石見銀山経営にさらなる追い打ちをかけました。そんな折、大森陣屋に赴任したのが22番目の関忠太夫代官でした。関代官は、幕府に対し「御救拝借(おすくいはいしゃく)」を願い出ます(要するにお金貸してくださいという事です)。

関代官は、大変慈悲深い代官であったと云われています、五百羅漢の最初の一体を寄贈したのも関代官であったそうですから五百羅漢は此処から始まったといってもよいようです。

五百羅漢(羅漢寺)

 「御救拝借」の計画は、銀240貫を幕府から借り、内100貫を石見地域の村々の有力者に、残り140貫を備後地方の村々の有力者にそれぞれ年利15分で貸付、当初の7年間は利息36貫をすべて鉱山資金に運用、8年目からは利息の3分の224貫)を幕府返済に充て3分の112貫)を鉱山資金に充てるという計画です。なんとファンドという上手いことを考えましたですね。

代官所に代わって公金(幕府のお金)を扱う「掛屋」(熊谷家)

 関代官は寛保4年(延享元年1744)在職中に亡くなりますが、銀山の山師たちは銀山の難儀を救ってくれた慈悲深い代官として代官所裏の「勝源寺」山門脇にお墓を造りました。

”銀路の思い、代官様と言えば「悪代官」とイメージする方が多いですが、実際には領民の側に寄りそう素敵な代官様の方が多かったのです。”(銀)

勝源寺山門と山門脇にある関忠太夫代官の墓

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「文字銀(ぶんじぎん)」貨幣改鋳と銀山

 江戸中期、石見銀山では、銀鉱石の産出も低下、又採掘場も地中奥深く生産コストは高くなりました。そんな折、元文元年(1736)に行われた貨幣改鋳(貨幣の鋳造し直し)による「文字銀(ぶんじぎん)」の発行は銀山経営にさらなる追い打ちがかかります。

 

文字銀(元文丁銀)「文」の文字が刻印されている

 「享保丁銀」が銀8割に比べ「文字銀」は5割もありませんでした。幕府はそれを同価格と扱ったため銀安錢高となりました。

正徳銀(享保丁銀)

 江戸期は「三貨制度(さんかせいど)」で金貨、銀貨、銭の三種類の貨幣があり「御定相場」はありましたが実際には変動相場制でした。例えば円とドルとユーロが同時に使われているような感じです。これにより江戸期「両替屋」が発達しました。

両替屋看板(分銅を型取っています)

 石見銀山では生産される灰吹き銀はすべて幕府に買い上げられます。良質の灰吹き銀は、新たに発行された「文字銀」で買い取られ、山師はそれで経営に必要な、炭・薪・鉄製品等を購入します。それらは実質値上がりとなり、賃金も名目銀で支払う事になっていますが実質銭で支払いますから、灰吹き銀を丁銀(文字銀)で買う山師や銀吹き師(銀製錬師)にとっては実質減収となったのです。

これらの諸事情により、江戸中期、銀山経営は急激に衰退しました。(銀)

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紙幣と石見銀とブラックホール関連付けました

 新紙幣が発行されるとのこと。また、ブラックホールが初めて映像で撮れました。今回はこのビッグニュースに因んで、石見銀フィーバーに触れてみようと思います。

2024年、新紙幣発行イメージ

 13世紀、マルコポーロの「東方見聞録」で「中国の皇帝は紙をお金に変えてしまう。錬金術師」とヨーロッパにつたえたとか。

 世界初の紙幣はさらにさかのぼり10世紀の頃「宋(そう)」の時代に造られた「交子(こうし)」と云われています。当初は商人の間で取引用に使われたそうです。紙幣を造るには製紙技術と印刷技術が不可欠ですから、両方の技術が出来ていた中国で紙幣が出来たのはうなずけます。

「元」を経て、「明」の時代になると、「大明通行宝鈔(だいみんつうこうほうしょう)」という最大級の紙幣(A4サイズ)も発行されました。紙幣にはニセ札防止の警告文も印刷されていました。それによると犯人は死刑、通報したものには賞金のほかに副賞として犯人の財産が与えられたそうです、これは効きますよね。

「明(中国)」の紙幣「大明通行宝鈔」

 当初はそれなりに信頼され使用されていた紙幣も15世紀に入ると度重なる戦費捻出で乱発し15世紀半ばには信用を無くし、15世紀の終わり頃には使われなくなりました。紙幣に代わって注目されたのが「銀」だったのです。広大な中国で銀の需要は半端なく、納税や万里の長城整備・軍費等、まるでブラックホールの如くに世界の銀を飲み込んでいったのです。そういえば、先日世界で初めてブラックホールの撮影に成功したそうですね。

世界初のブラックホール撮影に成功

 16世紀前半博多の商人「神屋寿禎」による石見銀山開発はそんな時代にあり、当時日本では見向きもされなかった銀は朝鮮半島を経由して明に流れました。朝鮮からは代わりに木綿が大量に輸入され16世紀末には木綿がわが国に溢れます。その後ポルトガル・日本・明の三角貿易により、大量の銀が明へ流れ、大量の絹が日本に輸入されたという事です。合わせて戦国大名は銀で硝石(火薬の材料)を血眼になって買い求めたのです。これがシルバーラッシュとなった舞台裏だったのですね。(銀)

15世紀前期銀鉱石が積出された「鞆ガ浦」港

 

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