石見銀山を語るときその母体となっているのが「銀山旧記」という古文書です。実はこの銀山旧記なるもの数多く残されています。よく知られているのが、野沢家文書の「銀山要集」で文化13年(1816)に銀山付役人「大賀覚兵衛」が編集したものです。内容はほぼ同じで高橋家文書に「銀山旧記」もあります。
この度思いがけなく「銀山記」の古文書が見つかりました。表題から、文政13年(1830)5月に因幡屋・米平氏(いずこの因幡屋かは不明)が写し書かれた「石見国銀山記」を、大田町の「山根亀十」氏が嘉永6年(1853)1月に写した書のようです。
石見銀山古文書「石見國銀山記」(赤文字は実際にはありません)
37ページからなる内容は、「大賀覚兵衛」のとほぼ同じですが、省略された部分もありまた、最後に歴代の奉行・代官が記されています、文化13年以降、文政13年(1830)までの代官も記されています。
阿久沢代官、大岡代官、蓑代官の名もあります、恐らくこのページが最後であったと思われます。
このページが元本の終わりだったかも「阿久沢」「大岡」「蓑」代官の名が見えます
最後のページには、山根氏が(おそらく)書き加えたと思われる嘉永6年までの4名の代官が追加されていました、ただしこの間の3名の「預かり」(代官が死亡等で一時的に兼務)代官の名は省略し載っていません。
最終ページ、その後の4名の代官名が見えます「嘉永六・丑正月」に写本されたのでしょう
追伸
松江城のお殿様「京極忠高」も石見銀山を管理しました。石見銀山3番目の奉行「武村籐兵衛」死去の後石見銀山は当時の松江藩主京極若狭守忠高が預かりました。(銀爺)
赤く囲みに「京極若狭守」の名が見えます
堀尾家→京極家→松平家と継がれた松江城