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「げたのは」と「げたんは」

  慶応2年(1866)犬猿の仲であった薩摩と長州が「薩長同盟」を結ぶことにより幕末の様相は大きく変化しました。同年6月に勃発した第二次長州討伐も7月石州口を突破した長州軍は、益田、浜田と制圧し、その先鋒隊が7月24日石見銀山に進駐しました。

 この時薩摩の兵は携帯弁当に「パン」を持っていたそうです。恐らく現在のような柔らかいパンでもなければ、石見銀山の「ドイツパン・HIDAKAパン」のようなものでもなかったでしょう。乾パンに近い日持ちのする食料だったのではないでしょうか。

大森町並みに「げたのは」と云う素朴なお菓子があります。創業二百年余りの老舗「有馬光栄堂」さんのお菓子です。実は、良く似たお菓子に「げたんは」と云うお菓子が薩摩にもあります。「げたのは」を薩摩ふうに言うと「げたんは」になるのです。遠く離れた薩摩と石見銀山に同じ名前のよく似たお菓子が存在するのです。

ここからは私の勝手な想像ですが、薩長同盟で薩摩は密かに長州に色々な援助をしましたが、ひょっとしてその際に携帯用の食糧として長州軍が採用したものがもとになり有馬光栄堂さんがそれをヒントに製造したのかもしれませんね。お店のご主人に聞くとよくわからないけれど「げたのは」は明治の時代から製造しているとの事でした。石見銀山、何気ないこんな所にも夢とロマンがあり、興味わきますね。(G)

有馬光栄堂

「石見銀山・大森町並みの有馬光栄堂店」

 

げたんは

「鹿児島県・南海堂・げたんは」

                                     

 

 

 

| ガイドつれづれ日誌 | 00:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
北海道倶知安町と石見銀山

北海道の倶知安町を開拓した会社が石見銀山のある大森町にあったことを最近知って驚きました。

明治28年、「山陰移住会社」が設立されました。本社は、大森町(河島家住宅)におかれ、役員は、頭取に岩谷善右衛門(川合町)、重役に恒松隆慶、安井好尚など大田市ではよく名前の知られた人たちがなっています。

明治28年、6月23日最初の移住者20戸72人(邇摩郡、安濃郡、邑智郡)が倶知安町に到着。開拓を開始。

以後、明治31年までに合計204戸(内石見が111戸、出雲3戸、その他10県で90戸)863人が移住し、開拓に当たりました。

 

この付近に山陰移住会社や裁判所ががありました

 

大変な苦労を重ね、山陰移住会社による開拓は明治38年まで続き、約1065haを開拓し、麦、黍、蕎麦、大豆、小豆、馬鈴薯、玉蜀黍などが植えつけられました。

倶知安町は、現在でも男爵イモの産地として知られていますが、その元をたどれば、石見銀山にいきつくというわけです。

北海道と石見銀山にこんなつながりがあったとは驚きでした。(A)

| ガイドつれづれ日誌 | 07:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
災害ボランティア活動に参加

今日から、龍源寺間歩 一般公開再開です。

  多くのお客様の来訪をお待ちしています!

 

  4月9日の未明に発生した島根県西部地震、震度5強、マグニチュード6.1という震災により大田市では1400棟(4月19日現在)を超える被害が発生。特に三瓶、富山、波根、久手地区など中心に被災しました。被災された皆様にはお見舞い申し上げます。

 

 この災害発生に、大田市社会福祉協議会は13日島根県社会福祉協議会の応援により大田市災害ボランティアセンターを立ち上げた。鳥取県や倉吉市などから災害支援で職員が派遣され強力な助っ人となりました。また全国各地からもボランティアの方が参加しています。筆者も災害支援スタッフとして参加し資機材部門を担当しました。県内各市町村から確保された一輪車、スコップなどに加え、特に屋根に被害が多数発生したことで屋根補修に対するブルーシート、露地板、土嚢袋など資材を、災者からの要望にマッチングをもとに、準備された軽トラックに必要機材を積み込み数人で編成されたメンバーは被災者のもとへ出発しました。

 ボランティア活動は、屋根の補修、がれき処理に要望が相次ぎ8台の軽トラックでは足りなかったですね。また全国からボランティアの方が多く参加、もちろん参加費用は自前です。筆者が久手町で「がれき処理」で共に参加したボランティアの中には熊本県益城町からの参加で「2年前の地震でお世話になったので一人で参加した」とおっしゃいました。ほかに広島県など県外からの参加者です。感じたことは、とても丁寧な作業対応で頭が下がり勉強になりました。

 石見銀山でガイドという活動、ボランティア活動といっても中身が違いますね。

石見銀山のある大森町、家屋などへの被災がなかったことよかったです。遺跡内にも大きな災害発生もなく余震の影響から龍源寺間歩は公開が休止されましたが、今日20日から公開が再開されます。さらに大田市は19日、臨時市議会で石見銀山関連施設への災害復旧費として約1億7000万円を計上、早急な復旧に期待が寄せられます。(S)

| ガイドつれづれ日誌 | 01:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
乙女峠マリア聖堂も世界遺産に

▶お知らせです!◀

お待たせしました。

龍源寺間歩・大久保間歩とも、安全が確認され20日(金)より一般公開再開です!

 

本題に入ります。

 前回「石見銀山」と「長崎と天草のキリシタン関連遺産」は、中〜近世の世界経済と宗教の交流という視点から、車の両輪のような関係にあることを述べました。今回はこの続きです。

徳川幕府によるキリシタンへの弾圧は、なぜか幕末になるにつれ厳しくなり、明治政府が開かれる前年の慶応3年の浦上四番崩れ(崩れとは、公儀による信徒捕縛のこと)といわれるキリシタン信徒狩りがもっとも酷かったようです。慶応4年には、薩長を主体とする新政府により、浦上信徒を含む3394人の各藩への分散監禁が決定され、その結果613人が殉死されたということです。

津和野藩にも28人の信徒が乙女峠にある光琳寺に預けられ、さらに翌明治2年にはその家族125人も強制収容されたということです。明治6年に禁教令が解かれるまで、飢えと寒さと拷問などにより36人が殉死、5人が病死するなか、転ばなかった(棄教することを転ぶと称した)信徒は68人にのぼったそうです(帚木蓬生「守教」新潮社による)。

 さえずりや腰縄の黙峠越え

キリシタン禁教令は、明治新政府によってすぐに解禁になったのかと思いきや、そうではなかったのですね。結局、禁教令が解かれたのは明治6年に入ってから、しかも欧米の外圧に屈した結果なのです。考えてみると、倒幕尊皇を旗印に掲げた新政府は神道に重きを置いた天皇中心の政策を推進しました。その結果、人々の生活に根付いていた仏教でさえ、廃仏毀釈の憂き目に会ってしまうという、ましてやキリスト教の解禁などという時代だったのかもしれません。人助けのために、土俵に上がり心臓マッサージをしている女性に「女性は土俵を下りて下さい」という現在の本質も、当時とあまり変わらないような気がします。

それはともかくとして「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産には、その延長線上にある津和野の乙女峠にあるマリア聖堂も是非加えていただきたいものです。 

2か月くらい前、大阪の中高一貫教育を行っているカトリック系の中学部の生徒さんが石見銀山を訪れました。IさんとKさんが案内されましたが、とても素直で熱心に話を聞いていたそうです。ここに来る前日には、津和野を訪問したと言っていましたので、おそらく乙女峠を巡礼(この学校では、修学旅行ではなく巡礼と言うらしい)してこられたのでしょう。生徒だけでなくこのコースを発案された先生や学校もすばらしいです。

風光る乙女峠の巡礼子(O)

| ガイドつれづれ日誌 | 01:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
銀山を記録すれば・・・。

 銀山道で発見したショウジョウバカマです。

 赤い花を能の猩々の赤毛に、根となる葉(根生葉)を袴に見立ててこの名があるようです。

 

 銀山のヤエヤマブキの花も、これから見頃を迎えます。

 

 さて、本題に入ります。 

 私事ですが、数十年前から日々のことを記録しています。日記を書く習慣が生まれると、面白いことを探すレーダーが発達します。

 テレビを見ているとき、銀山を歩いているとき、ガイドをしているときなど、いろんなタイミングで耳目を研ぎ澄ます習慣が身に付きます。

 そして、その目についた情報をSNSで記録します。筆者の場合は、内容が興味のある動植物に傾きがちですが、それでもお客さまから得た情報などを組み合わせると、ガイドとして活用できる面白いネタになる場合もあります。

 

 ところが面白いことが分かりました。記録した当時は熱く感動した事柄や文章でも2〜3年経過して読み返してみると、その文章には自分のエゴイズムや自己満足が隠されていることを発見します。

 筆者の場合、記録した文章は時がたてば、色あせて腐敗していくようです。いつまでも読後感が爽やかで考えさせられる文章が、卓越した文筆家の書物なのでしょう。

 

 ガイドも同じことが言えるのかも知れません。お伝えする相手方が違っても、内容や言い語りを変えてゆかなければ、お客さまに喜んで頂けないような気がします。

 いつも同じ内容をガイドとして繰り返していると、色あせた単調な道案内になるような気がします。

 お客さまに楽しんで感動して頂くために、内容を推敲して、伝える表現にも工夫していきたいです。 

                文 責(T)

 

 

 番外偏

 銀山・西本寺の入り口で、左側、確かにと納得する

「今日の言葉」に出会いました。((+_+))

 

 銀山・本谷で見つけた美味しそうなタラの芽 (^^♪

 

| ガイドつれづれ日誌 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
リピーター

昨日、東京から来られたご夫婦と兵庫からこられた方と町並みを歩きました。

東京のご夫婦は、5年ほど前に大久保間歩ツアーに参加したとのこと。それが、とても心に残って、その時は時間が取れず町並みが見られなかったので再訪したとのことでした。

福石場が公開されていることをお話すると、再度大久保間歩ツアーに参加したいと言ってお帰りになりました。

兵庫の方は、出雲市出身なので、ここは3度目だと言われていました。ガイドと歩いたのは初めてで、全然感じが違ったと言われていました。

 

    観世音寺のカラタチの花

 

数日前、今回の地震の取材に来られたある新聞社の記者の方の取材に同行した時のことです。

実は、私は、修学旅行でここに来たことがあるんですよと言われました。取材の間も、この場所はよく覚えていますなどと話され、懐かしそうに取材されていました。

歴史や遺跡に関心があるので、配属先に島根県を希望したとのことてした。

 

    ハナモモもそろそろ見納めです

 

3週間前、JTBの方をご案内しました。修学旅行で石見銀山に来てもらえないかということでご案内したのですが、自分は、大学の卒業論文に石見銀山を選んで書いたと言われました。

その時、大森に来て、筆者と話をしたと言われて驚きました。町の人たちの取り組みが素晴らしいと感じて、そのことを卒論に書いたと言われていました。

そして、ここはいいところなので、修学旅行で来てもらえるようにしますと心強い言葉を頂きました。

 

いろんな形で、再訪していただくことはとてもありがたいことです。(A)

 

| ガイドつれづれ日誌 | 06:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
奇貨

今回の地震を奇貨とすべきというどっと・かめさんのコメントに共感します。

久々の「どっと・かめ節」も地震のもたらした奇貨なのかもしれません。

 

4月15日(日)、銀山公園駐車場はいつものにぎやかさを取り戻していました。

地震の風評に踊らされず来訪されたみなさんに感謝です。

龍源寺間歩には入れなくても、せめて雰囲気だけでも味わいたいと思われる来訪者も少なくありません。15日は、3回で、14人のお客様を龍源寺間歩までご案内しました。

ご案内したみなさんは、もう一回来ますと言ってお帰りになりました。この次は、間歩の中も歩いてみたいと、リピートの動機になっているのです。奇貨と言えるのかもしれません。

 

    観世音寺のシャクナゲ

 

間歩の雰囲気だけでも感じたいと言われるみなさんには、一昨日の当欄で紹介した、新切間歩〜清水谷製錬所跡~町並み~観世音寺のコースでご案内しました。これもご好評をいただき、龍源寺間歩まで行かなくても十分ガイドコースとして成立するという感じがしました。あらたなコースを発見できたとすればこれも奇貨と言えるのかもしれません。

 

    シャクナゲはつぼみもきれいです

 

龍源寺間歩に入れないので、滞在時間を短くして町並みを歩くというツアーのみなさんもご案内しました。

間歩に入れないというので残念に思っていたが、ステキな町並みを歩けて本当に良かった、もう少し時間をかけてゆっくり見たいし龍源寺間歩にも行ってみたいのでもう一回来ますと言われるお客様がたくさんおられました。

間歩偏重のツアーが町並みも外せないツアーに変わればこれも奇貨と言えるかもしれません。(A)

| ガイドつれづれ日誌 | 00:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
天領「豊栄神社」

先週日曜日(4/8)「旧大森裁判所」の続編です。明治維新で旧徳川の領地がすべて没収され、天皇の領地となりました。と云う訳で徳川の領地は天皇の領地、すなわち「天領」となったのです。

新政府は、当初大名の治めた各「藩」はそのまま「藩」とし藩知事(ほとんどはその大名が知事となった)、城代、所司代、奉行が治めた幕府直轄地を「府」として府知事を置き、代官の治めた幕府直轄地を「県」として県知事を設置しました。これを「府藩県三治制」と云い後に廃藩置県で各藩は県となり同時に十か所ばかりあった「府」は東京・大阪・京都の三府だけとなり、残り(長崎や新潟等)は県となります。(東京は昭和の時期に府から都に変わりますが、京都、大阪が府であるのはその名残だったのですね。)

因みに、明治維新で一番最初に幕府の領地が取り上げられたのが石見銀山でした。それは、慶応2年(1866724日の事でした。思えば、徳川幕府の始まりは、長州から石見銀山を取り上げ手中にすることに始まりその終焉も又長州に石見銀山を取り上げられることに始まったのは何とも因果な巡りあわせですね。

龍源寺間歩に行く途中、毛利元就ゆかりの「豊栄神社」の境内に長州藩士が寄進した灯篭に維新を表す「維歳」の文字が刻まれています(G

天領祭り・大盛り行列

石見銀山の天領祭りメインイベント

豊栄神社

「銀山町、龍源寺間歩の道中にある毛利元就

ゆかりの豊栄神社

長州藩士灯篭・維歳

「豊栄神社」境内にある長州藩士の寄贈

した灯篭に刻まれた文字」“維歳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| ガイドつれづれ日誌 | 02:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
キャンセルせずに

こちらで震度5強の地震が起きたのは9日未明でした。

その日の午後7時のNHKテレビのニュースのトップは大谷選手で、地震は二番目でした。

「その程度の」地震だということなのでしょうが、風評というのはこわいです。

龍源寺間歩(19日まで)も大久保間歩(15日まで)も、余震等を考えて休場にしていますが、まったく異常はないということです。それなのに、「間歩で崩落があった」という話が出てくるのです。

間歩には入場できませんが、そのほかは通常通りご覧いただけますので、キャンセルせずにおいでいただければ嬉しいです。

 

 

ワンコインガイドも実施しています。

ご希望に応じて、龍源寺間歩の入口までご案内できます。

新切間歩まで行き、清水谷製錬所跡を見て、町並みの一部も見て帰るというコースも人気です。

 

香袋の販売も銀山公園でしています。

 

温泉津温泉や湯迫温泉のみなさんも、安心しておいでくださいと言っておられます。

もうすぐ、ゴールデンウィークです。受け入れ態勢も相談し、5月3日~5日は仁万~石見銀山公園間のシャトルバスの運行も予定しています。

たくさんおいでいただきたいと思います。(A)

 

 

| ガイドつれづれ日誌 | 06:25 | comments(1) | trackbacks(0) |
「山陰中央新報「名窓」の記事から

国宝松江城の展示物が展示替えの準備で5月末まで空っぽの状態という記事を読みました。

その姿は400年前の姿ともいわれています。松江市は天守閣の魅力を高めようと展示されていた163点の武具、模型などが搬出されて広々とした天守内部を見ることができるとPRしています。これまで展示品で隠れて見ることのできなかった狭間と呼ばれる窓、当時設置されていたとする便所などの部屋の痕跡が確認できるといいます。この姿を体感してもらおうと現在一般公開が行われています。

 

 4月8日付 山陰中央新報「名窓」にて記事が紹介されていて、この松江城の様子を石見銀山で一般公開されている龍源寺間歩には人形などの展示がないことの良さ、つまり展示物のない姿の松江城の姿にたとえて掲載されています。さすがに石見銀山を知る記者のすごさを感じました。

 それは国内の金銀山の坑道で人形の置かれている姿を筆者も確認していますが、お客様の観点から考えれば迫力もあるし、当時の姿をうかがい知ることもできますよね。それはそれでいいでしょう。石見銀山の間歩、筆者の記憶では、江戸時代の銀鉱山の姿、そのままをお客様に見て頂こうという配慮があったと聞いています。その様子を石見銀山のガイドさんは来訪されるお客様に「いかに魅力ある石見銀山の鉱山」として解説できるか苦心して日々研鑽して努力しているんですね。

 平成18年5月に開催された金銀銅サミットにおいて、佐渡の高野市長は佐渡金山で金の採掘風景をろう人形で再現したことに触れ「観光面で手を入れすぎた」のが反省点だと述べられています。つまり大量の観光客をすべて受け入れてきた失敗を反省としています。このことでは、石見銀山は、町の人たちとじっくり話し合い、今日まで石見銀山遺跡を守ってきた自負があります。その一つが住民憲章とも思っています。


 元大田市長竹腰創一氏は著書「ふるさとの未来へ大切にしたいこと」の中で、観光客の利便性向上と住民生活を守ることをどう両立させるかについて、―嗣雲験茲鮗蕕襦環境を大切にする。自然と遺跡と人々の暮らしが調和した石見銀山を利便性の側面から、せっかちにみせようとせず、じっくりみてもらうよう工夫する」としています。そのことを基本として観光スタイルを方向付けるとしてバスを廃止しパーク&ライド方式が導入された経緯があります。私たちガイドはこのことから石見銀山に訪れるお客様に、ガイドと歩き「ゆっくりと石見銀山の魅力を訪ねよう」と勧めてきています。

 

 石見銀山世界遺産登録10周年が経過した今、さらなる未来に向かって、石見銀山遺跡の抱える課題について来訪されるお客様目線での改善が必要時期にきている」と筆者は強く訴えたいです。(S)

| ガイドつれづれ日誌 | 02:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
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