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続・銀の含有率

前回、1832年(天保3年)の新切間歩の銀の含有率を紹介しました。

今回は、1982年に大森鉱山を経営していた同和鉱業(現在同和ホールディングス)の柵原鉱業所の社史編さん小委員会の「大森鉱山資料集」から紹介します。

それによれば、大正3年(1914年)〜同10年(1921年)の平均品位は、金は1トン当たり16g、銀は1トン当たり800g(1圓0.8g)、銅は13.86%とあります。

金の含有率の高さが目を引きます。銀は、1圓△燭0.8gですから、前回紹介した新切間歩には及びません。

 

     雪の日の龍源寺間歩出口付近 

 

天保3年の新切間歩の鉱石は、相当いい鉱石だったとわかります。そのためかもしれませんが、天保3年は、江戸時代後期の石見銀山で最も銀が産出されました。

石見銀山資料館仲野義文館長の「銀山社会の解明」によると、記録が残っている1673年〜1864年の中で最も銀が産出されたのは1691年(元禄4年)で、年間625.705貫(約2346圈砲任后

天保3年は、96貫(約360圈砲如元禄4年の15%ほどです。それでも、1823年〜1864年の中では最大の産出量となっています。

銀の含有率と言っても時代、場所によって違いがあることを頭に入れて紹介したいと思います。(A)

 

| ガイドつれづれ日誌 | 08:32 | comments(0) | - |
まだまだわからん石見銀山 第7話 天池寺と修験

 『石州銀峯山清水寺天智院縁起』によれば、天池寺は推古天皇の時代に創建されますが、その後は一旦寂れて、文武天皇の時代になって修験の開祖といわれる役小角(えんのおづぬ)が来て修練した、そのとき天池寺を、「和州(=大和国)金峯山に類せるを以って山を銀峯山と号す」と記されています。

 

 また、『銀山旧記』には古老の言い伝えとして、「銀山は役優婆塞(えんのうばそく)踏分給ふ霊窟にして、修験の行者順道入峯、今の大峯に等しく行ひける由」と言っています。大峯とは大和国吉野の大峯山のことです。つまり、天池寺は修験の寺になって銀峯山という山号を称えたということです。

      役小角(役行者)

 

 それでは、修験とは何かです。修験は日本独特の宗教だといってもよいでしょう。日本には古来山を崇める山岳信仰がありました。それが奈良時代以降仏教や道教などを採りいれて独特の宗教になりました。それが修験であり、平安時代になると修験道として体系化されます。修験道の理念は、修行によって山の霊と一体化して自らは悟りに近づき、あるいは験力(げんりき)を得て衆生の救済を行うことです。

 

 修験者は独特の衣装を身にまとい、山々を巡り修行しました。また、里に下りては加持祈祷などを行い民衆の病気治療や憑き物落とし、生活上の指導・救済を行いました。そして、修験者たちは山で修行を重ねるために山々を徘徊しときには漂泊しました。これが山伏と言われる人々です。また里に下りて時には民衆と交わり、法印と称されたのです。

           山伏

 

 なお、役小角(=役行者、役優婆塞)という人については、実在を疑う論者がいます。また全国各地に役小角が来て修練したという伝承があります。おそらく石見に来たことは事実ではないと思われます。修験の行者順道についてはよくわかりません。(Ng)

| ガイドつれづれ日誌 | 00:23 | comments(0) | - |
棄捐令(キエンレイ)って何?

 江戸の武士の給料は米で支払われました。しかし武士が実際に米を受け取りに行かず、「札差屋が支給日に蔵前に出かけ米を受け取り食料以外のコメを換金して得意先である武家に届けます。札差の手数料は100俵につき1分と米の売却料2分で、そうぼろもうけというわけではありませんが、直参旗本や御家人の給料はもともと低く抑えられているうえ基本昇給はありません。物価の上昇、米価の下落は実質武士の収入減となり体面を重んじる武士は借金するしかないのです、そこで米を担保に武士は札差から借金をするということです。当時の金利は高く18%くらいですからこの収入は札差にとってはリスクの無い美味しい商売なのです。一方体面を重んじる武士にとっては、無審査、即日融資で、悪循環、多くの武家がサラ金地獄状態になりました。

 これを救済する目的で、寛政の棄捐令(きえんれい)が発令、5年以前の借金は棒引き、その後の借金の金利は6%と三分の一に抑えられました、また新たな借金は12%に設定され、多くの武家はほっと一息つけましたが、この時の札差による借金総額は江戸幕府の年間支出を上回っていたそうです。その後札差による貸し渋りのため、逆に困窮する武家が多発したそうとか。

 

 棄捐令は、その後も天保、文久にも発布されています。根本的に幕府体制は行き詰まっていたようですね。これは地方の大名家でも同じで、下級武士ほどその影響は大きく、脱藩者が諸国にうろうろしたのも、倒幕の大きな要因なのでしょうかね。(銀爺)

 

 

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 00:36 | comments(0) | - |
銀の含有率

ここ2日気温が上がったためか、菜の花が咲きだしました。

 

さて、本題です。

龍源寺間歩をご案内するとき、お客様に「間歩の中で、銀の鉱脈をお教えしますが、銀色には見えませんよ」と言います。

「1圓旅枩个涼罎1gの銀があればとても良い鉱石です」と付け加えています。

江戸時代、新切間歩の担当役人だった阿部光格の日記には、次のように書いてあります。

 

1832年9月29日

いい鉱脈が見つかったので、現地を検分し、採掘した鉱石を製錬した結果、次のようになった。

10貫の鉱石の中から885匁の銀鉱石を取り出した。

そこから、11匁5厘5毛の灰吹銀がとれた。

(1圓旅枩个ら1.1055gの銀が取れた。1万分の1の単位まで計測しているのもすごいです。)

 

10月12日

またいい鉱脈が見つかったので同じようにしたら、10貫の鉱石から22匁5分8厘5毛の灰吹銀がとれた。

(1圓旅枩个ら2.2585gの銀が取れた。)

 

 

現在世界一の銀産出国であるメキシコの銀山では、鉱石1圓△燭0.15gの銀と言いますから、石見銀山の銀の含有率の高さがわかります。

だからこそ、こんな小さな山で大量の銀が産出されたのだと思います。(A)

 

 

 

| ガイドつれづれ日誌 | 07:27 | comments(0) | - |
新しい街道の開拓

   このほど石見銀山の魅力を発信する一方策として、当時、20万人が住んでいた石見銀山に生鮮食料品(鮮魚)を運んでいたとするルートの確認のため、当会7名の参加による下見を行いました。

全く情報のないことから地元五十猛出身のガイド3名に案内役をお願いし下見調査を実行しました。この道事前調査で約11kmと想定していました。

春も間近 ふきのとう

地元の人と古道の確認中

 

下見当日は天気が悪くなるとの情報でしたが、何とか午前中は天気が持ちそうとの判断で下見を決行しました。午前9時前には集合場所である大森代官所前に集合し早めの出発となりました。

歩き始めて直ぐ「ふきのとう」が顔をのぞかせ、季節の暖かな一面をのぞかせていました。歩いた道は舗装路が中心でしたが多少のアップダウンはあるものの和気あいあい自然の景観をみんなで楽しみながら歩きました。

順勝寺の鏝絵

井戸・天野代官の碑にて

道を歩く仲間

 

特に大屋町菰口にある第26代石見銀山代官天野助次郎及び第19代井戸平左衛門の碑と順勝寺の鏝絵の見学など確認、この辺りで石見銀山から約8kmでした。

可能な限り古道を歩くことを目指し古道の確認作業も今回の目的でもありました。古道の確認では地元住民による確認なども試みましたが歩けるという確認はできませんでした。

登り窯

石見銀山大浦港番所跡にて記念写真

 

大屋町を抜け、最終目的地である五十猛町に入ったのは午前11時ごろ、この辺りが案内ガイドをお願いした3人のガイドの住む町です。この辺りでのみどころは、今、NHKテレビ朝ドラ「スカーレット」で話題の登り窯、実はこの道のすくそばで見ることができました。14個の入口を持ち当時瓦を焼いていたそうです。カラミ瓦もありました。目的地、鮮魚の発信基地五十猛港はワニ漁が盛んであった町でもあります。このように鮮魚は今回歩いた道を通じて、石見銀山からは銀山街道を利用して広島県三次地方に盛んに運ばれていたことは有名な話です。午前11時半頃より小雨が降り出し、幸いに現地に到着したのは午後12時10分、濡れることもなく終了したことは幸いでした。

 

石見銀山からの距離12.3km、時間にして約3時間半、約17000歩余りでした。

今回の調査でルートの確認ができました。春にはあらためて「鮮魚を運んだ道」として皆さんに参加を呼び掛けていきたいと思います。(S)

 

| ガイドつれづれ日誌 | 01:23 | comments(0) | - |
冬こそ石見銀山へ

 暖冬です。とはいえやはり冬、それなりに寒い日もありますが、例年とは寒さの厳しさが違います。ブルブル震えながら歩くようなことはありません。この時期にこそ静かな銀山散策をゆったりと楽しんでいただきたいです。今年は暖冬のせいか梅の花もひときわ開花が早く紅白の花があちこちで綺麗に咲いています。 冬枯れで樹々の枝のも葉も落ち、遠くの景観の見通しも良いです。

 

   龍源寺間歩の往復は2時間くらいかかりますので、約5キロを歩く自信のない方には町並みをゆっくり散策されることをお勧めしています。距離も800メートルほどです。

 

 今日は、代官所跡駐車場付近の勝源寺をご案内します。

 

 代官所跡に近い浄土宗勝源寺は二代目奉行竹村丹後の守によって創建されました。《銀山百ヶ寺》と言われたほど多かった寺社のまとめ役的なお寺です。徳川家康とのつながりが深いこともあり、「家康十六将像図」、裏山に徳川代々の位牌を祀る「東照宮」、境内には六人の奉行・代官の墓などが残っています。山門に掛かる龍の彫り物は大変見事です。

 

         勝源寺の山門

 

        今にも暴れ出しそうな龍

 

       石見銀山かるたにも詠まれています

 

 『抜け出して 水飲む龍に くぎを刺す』

 『徳川の 歴史を語る 勝源寺』

 

 

 できれば、ガイドの会のワンコインツアー(午前10:30〜)にご参加ください。時間の都合のつかない方は、ガイドの会にご相談ください。

      筍娃牽毅粥檻牽后檻娃隠横

                                                      (М)

| ガイドつれづれ日誌 | 00:05 | comments(0) | - |
キツツキは何故「木をつつく」のか?

 石見銀山の龍源寺間歩コースの中ほどに新切公園があります。冬の新切公園(下)は森閑としています。

 

         新 切 公 園

 

 初夏の森(銀山)を歩くと、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ド、という木をつつく音が聞こえてくることがあります。

 新切公園の木々の中に、キツツキが空けた穴があります。

 

 キツツキがドラミング(木をつつく動作)で空けた穴

 

 この穴は、「コゲラ」という名のキツツキが、空けたのではないかと思われます。キツツキは、漢字で「啄木鳥」と書き、キツツキ科に分類される鳥類の総称で、キツツキという名前の鳥は存在しません。

 木の幹にしがみついて、クチバシで一心に木をつついているキツツキですが、このキツツキの行動には、どのような意味があるのでしょうか?

 

⦿演奏を楽しんでいる。

⦿巣作りに励んでいる。

⦿求愛行動をしている。

⦿縄張りの宣言をしている。

 

 いずれも違います。

 あのキツツキの「木つつき」行動は、木の中にいる虫を捕食するのが目的です。中にいるイモムシやアリなどの虫をドラミングの振動によっておびき寄せ、長い舌で虫を押さえて、引っ張り出して食べる捕食用の穴なのです。

 キツツキの舌は、くちばしより数倍も長くできています。舌の先は虫を押さえて、捕らえやすいようにブラシ状になっています。

 

 自然度が高い銀山です。お客さまに時間があるときは、新切公園の中の様子もご案内しています。 

                 文 責(T)

  

 

 

| ガイドつれづれ日誌 | 00:00 | comments(0) | - |
2月11日

今日は、2月11日。

新暦と旧暦の違いは、およそひと月です。1832年の2月11日は、新暦では今年なら3月13日ということになるのですが、銀山附き地役人だった阿部光格の日記には例年通り「山祝の日」と記してあります。

1月11日が山神さんの例祭で、そのひと月後ということになりますが、2月11日は、例年通り「山師をはじめ銀山の関係者を代官所に招き酒宴をした」とあります。酒宴は夕方まで続いたと記してあります。(光格は二次会もしています)

天領さんでおなじみの「大盛行列」は、この日行われたのではないでしょうか。ご存知の方にはぜひお教えいただきたいです。

 

 

今日は、昔、銀山で働いた人たちが晴れやかに代官所に向かったんだと思いながら、龍源寺間歩から代官所跡まで歩いてみるのもいいのではないでしょうか。(A)

 

 

| ガイドつれづれ日誌 | 08:59 | comments(0) | - |
まだまだわからん石見銀山 第6話 天池寺の創建とその後

 『石州銀峯山清水寺天智院縁起』によれば、天池寺は推古天皇の時代に創建されたとされています。推古天皇が「上宮太子(=聖徳太子)に勅して一仏堂を池のほとりに建て天池寺と号す。更に太子をして自ら観音の像を作らしめ以って天池寺に安置す」とあります。

 

 しかし、この推古天皇の時代の創建というのは明らかに疑問です。つまり、推古天皇と言えば、飛鳥時代の天皇です。太子が建てたといわれる四天王寺や法隆寺と同時代にこのような地方に寺院が建てられたというのはどうかということです。おそらく聖徳太子信仰にあやかって後の時代にそういう話が生まれたものと考えられます。

 

 いつのことなのかはわかりませんが、この寺は清水谷という谷の山稜中腹のようなところに移転しました。その移転の理由も筆者にはよくわかりません。移転先には現在でも広い境内跡が残されており、庭跡や僧の石塔墓も確認できますので、その場所は特定できます。清水寺は明治時代になって更に休谷に降りて現在に至っています。この寺は高野山真言宗に属します。

                   清水谷の清水寺跡


 一方、清水寺には慶長4年(1599)の寺建立の棟札があるそうです。そこには、毛利輝元が清水寺の本堂を建てた、その施主は安原田兵衛知種、孫十郎徳忠であると述べられているとか。また安原家に残る別の記録によると、田兵衛は自分の家(本谷にあった?)の隣地に寺を建てて清水寺を仙ノ山からそこに遷して再興したとする文書もあるそうです。田兵衛(=伝兵衛)が大久保長安の時代に釜屋間歩を掘り当てたという話とちょっと時間感覚が一致しません。筆者の思い違いかもしれませんが、このあたりの事実関係がはっきりしません。ご存知の方からご教示いただきたいところです。

 

 さて、天池寺が飛鳥時代に創建されたという話はともかくとしても、かなり古い時代に創建されたという伝承があったことは認める必要があろうと思います。しかも、仙ノ山という山が霊峰であるという意識があってそこを創建の場所としたことが考えられます。

 

 仙ノ山がなぜ霊峰であったのか。仙ノ山をはじめとする大江高山火山群には他にも数々の深山幽谷の山々があるのですから、それはすぐにはわかりえないですが、想像をめぐらせば銀があった峰は仙ノ山だけです。やはり古い時代から銀の採掘がなされて、その採掘にかかわる信仰と関係していると推定できます。その信仰とは修験道と勧進聖(かんじんひじり)活動だと思います。次話ではその修験道を、その後に勧進聖を取り上げます。(Ng)

     大屋町から見た大江高山火山群の連峰。仙ノ山は左の尾根状の峰。

     中央に山吹城があった要害山とその奥に大江高山が見える。

| ガイドつれづれ日誌 | 00:14 | comments(1) | - |
佐渡金山

  石見銀山でガイドをしていると、多くのお客様が佐渡金山では罪人を強制労働、中には「えっ!佐渡でも銀採れたのですか?」と言われる方も、実は佐渡では金のおよそ30倍近くの銀が産出しているのです。

佐渡金山・道友の割戸

 鉱山では坑道が深くになればなるほど湧き水に悩ませられます。佐渡金銀山では当初はこの湧き水対策に周辺地より水替え人足を募集し高賃金で周辺の村々は潤いました。しかし坑道が深くになるにつれ作業が過酷となり又人足も多数必要となり鉱石採掘に支障が出ました。これを補うため安永年間(1772〜1781)に無宿者が使役されました。一方、その後未曽有の大飢饉「天明の大飢饉」により、村を捨てて江戸周辺に無宿者が溢れ、江戸の治安が悪くなり凶悪事件が多発しまた。だったら、事件を起こす前に捕えてしまおうということで、凶悪事件の温床となる彼ら無宿人を捕らえ佐渡鉱山の水替え人足として島送りにしたのが元佐渡奉行も務めた勘定奉行「石谷清昌(いしがやきよまさ)」でした。服役が終わればその間の賃金を手にし故郷に帰りその資金をもとに更生させるというシステムだったのです。

飢饉の図(朝から何も食っていない、死にそうだ!なんてどころではないのです。

 しかし、佐渡鉱山の湧き水は半端なく多く作業は過酷で一説には3年と命が持たないとか。

因みに、彼ら島送りの人がノミや槌を持って鉱石を採掘するようなことはありません。(銀爺)

佐渡鉱山図

| 御山ものがたり | 00:09 | comments(0) | - |
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