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まだまだわからん石見銀山 第52話 龍源寺間歩の坑道

 龍源寺間歩は奥行き600叩文寮于賈太郎氏の実測では621叩砲凌爾た緤森F擦任后8什濆8から約160辰泙念貳霧開されています。そこまで行く途中で左右に小さな穴がたくさん掘られています。約20箇所あります。それが鉱脈に沿って掘り進んだ採鉱用の穴、つまり𨫤押し掘りの跡です。この𨫤押し掘りの跡は人が一人やっと身柄を入れることができる幅、だいたい30〜40cm程度しかありませんから、実際の鉱脈の幅はせいぜい5〜15cm程度ではなかったかと推定できます。

      龍源寺間歩の坑道。𨫤押し掘りの跡を見ている。

 

 そのような掘り跡のなかで、坑口から約70檀婉瓩砲賄薫翳向に大きく掘りあげた場所があります。それともう一つ、入口から約80辰僚蠅肪┨がありますが、その手前に天井から東方向に大きく掘った跡があります。後者が兼鉉(金鉉とも)を東に掘った跡であると言われています。

 

 また竪坑付近には、奥方向に向かって右下の足元に小さな坑道が走っていることも確認できます。これは足元にあるので、よく見ないと気付きません。奥がどうなっているのか確認できませんので、その中に身を入れることは危険です。しかし、下方に深く掘り進んでいるように見えます。やはり兼鉉を掘ったのでしょうか。『元禄四年万覚書』には元禄4年(1691)ごろ行地(奥行き)180尋(約320叩法敷下(下方への採掘)45長掘ったと記されていますから、敷下はこの辺りのことを言っているのかもしれません。

 

 これらの坑道はいずれも山師たちが請け負って掘り進めたと言われます。龍源寺間歩は御直山の時代が長いから、横相坑道自体は原則として代官所が保有管理していました。個々の𨫤押し掘り坑道はそれぞれ山師たちが入札によって採掘の権利を入手して掘ったものだといいます。

 

 ところで、上記の竪坑ですが。説明板には100歎,蟆爾欧同糞弭につながっていると記されています。この辺りが龍源寺間歩と永久坑とが100辰旅眥禳垢芭体交差しているので、両者を垂直方向につなげたということです。竪坑設置の目的は水抜き、つまり排水であるとなっています。龍源寺間歩から永久坑に水を落としたということでしょう。確かに、あの付近には地下水脈が通っていて、今でもポタポタと天井から水が落ちています。

   問題の竪坑。右奥に深さ100辰涼┨がある。

 

 疑問に思うのは、江戸時代にあの位置で二つの坑道が立体交差しているとどうして知り得たのかということ。それに、100辰涼浪宍離をうまくつなぐ技術が江戸時代にあったのかということです。しかし、それが実現できたということは、正確な位置測定ができ相当精度の高い測量術があったのでしょう。GPSもレーザー測量器もない時代です。これには正直言って驚きです。佐渡金銀山でも元禄時代に疎水坑道(南沢疎水坑)922辰鯲沼Δら開削して繋いでいますが(1696年完工)、その交点での誤差はわずか0.5〜0.6辰曚匹世辰燭箸いい泙垢ら江戸時代の技術を決して侮ってはいけないということですね。(Ng)

| ガイドつれづれ日誌 | 00:27 | comments(0) | - |
不要不急老人の戯言 (10)

―滴るは汗か涙かー

 今回のコロナウィルス禍で、経済的にも精神的にも最も打撃を受けているのは、組合もなく世の中からも半ば見放されている非正規雇用を中心にした低所得者層でしょう。

 経済学用語でトリクルダウン説というのがあります。Trickle downと書いて「滴り落ちる」と意味です。一言でいえば、“一部の富裕層が富を増すと、低所得者層を含む国民全体が豊かになる”という「おこぼれ」説です。1980年代、アメリカのレーガン大統領がいわゆるレーガノミクスといわれたこの経済政策を勧め、一方中国の小平首席の改革開放路線もこの理論を踏襲したと言われています。その結果はどうなったでしょうか。アメリカでは富裕層へ富が集中し、中国では都市と地方の富の格差が一段と進みました。結果、「富めるものはますます富み、貧しきものはますます貧しく」とさらに格差を広げ、今ではこの理論は間違いということになっているようです。

ミクスよりマスクが有名になったこの国はどうだったでしょうか。大グローバル化の時代に対応するためと称し、国際競争力の強化を名目に、労働者派遣法の設立、法人税の引き下げと消費税の引き上げなどトリクルダウン説を推し進めました。その結果、日本社会にさらなる格差拡大が持ち込まれました。今やわが国の非正規雇用者は全体の4割以上、2千万人以上とも言われています。そして迎えたコロナ禍です。

 

「滴り」は、岩や苔を伝い落ちる水で、涼感あふれる夏の季語です。

 

木漏れ日にしたたりのせる白い指

滴りを汲んで見上げる降露坂

        少しは、涼しくなったでしょうか(O)

| ガイドつれづれ日誌 | 00:13 | comments(1) | - |
相撲の土俵の「決まり」

 大相撲の7月場所で、平幕の照ノ富士関が優勝したのは記憶に新しいところです。

 かつての横綱候補が、膝の怪我や病気などで序二段まで番付が下がり、およそ5年ぶりの優勝で復活を印象付けました。今回はその相撲のお話しです。

 数十年前まで、石見銀山の井戸神社でも毎年、子ども相撲が行われ、筆者が小学生の頃は、各地区の小学校で選抜された児童が勝負を競い合っていました。

 

      石見銀山・井戸神社の境内

 

 この日本の相撲の歴史は古く、神話にも出て来るようですが、今の土俵の原型は、戦国時代の織田信長によって考案されたと言われています。

 

 さて、相撲の土俵には「決まり」がいろいろあります。

 押し込まれた照ノ富士、「徳俵」に片足1本を残して逆転白星です。このようなコメントを相撲中継で聞いたような気がします。 

 この「徳俵」もそうですが、土俵にはいろいろな「決まり」があります。かつての相撲は屋外競技で、土俵に雨水が溜まらないようにと、東西南北の4カ所にいわば「排水溝」として、設置された名残りの俵が「徳俵」になったのです。

 

 力士は東西に分かれて土俵にあがりますが、これにも理由があります。

 むかし、宮中で行われた天覧相撲の際、天皇が南側を向いて座られたことに由来します。力士が相撲をとる様子が良く分かるようにと、東西に分かれて土俵にあがったのです。祭りの儀式として行われた相撲、調べてゆくと面白いですね。           文 責(T)

 

 

(クッスと笑える番外編)

●ガイド中のクレーム客
 すごい剣幕のクレーム客がガイドと騒いでいます。
 お客「お客様は神様じゃねぇ〜のか!こらぁぁぁ!!」
 担当ガイド「他の神様のご迷惑になりますので。」

●結婚した教え子から、暑中見舞いが届いて、こう書かれ

 ていました。
「性が変わりました」
 まさかと思うが、恐くて連絡が出来ません。

 

 龍源寺間歩の入り口付近に咲く「ウバユリ(姥百合)」です。百合の花の色のイメージはピンクかレッドです。一説では、姥のように白くなっているところから、姥という名が付きました。これガイドのオプションで使えるかもです。^^

 専門書によると、花が咲く頃には、茎の一番下側につく葉っぱが既に枯れています。これを歯「葉」の少ない姥に見立てて、ウバユリとあります。

 

クッスっと笑って、新型コロナに打ち勝ちましょう!^^

 

| ガイドつれづれ日誌 | 00:00 | comments(0) | - |
佐毘売山神社見学会に感動

8月1日、現在修復中の佐毘売山神社の見学会がありました。

感動でした。

 

 

本殿の石垣は、19世紀初頭の火災にあった石が焼けて黒っぽくなり、火災前の石垣の上に新たに石垣が作られていることがわかりました。

 

 

上の写真の石垣の上の石垣は、下の石垣とよく見ると少し違います。

一つ一つの石が曲線的でやわらかい感じがします。これは、当時最高の技術者集団と言われた備前の石工の仕事なのだそうです。

同じ備前の石工が、城上神社の本殿の石垣も作っていると聞き驚きました。

 

 

城上神社本殿の石垣は、きれいなのでいつもご案内しているのですが、備前の石工の作とは知りませんでした。

 

石垣の後は、本殿の蛇腹に感動しました。

 

 

屋根の下の蛇腹です。上のひし形に見える部分は「すかし」というそうで、その下が蛇腹ということになります。

昔の職人さんの技術に感動しました。

 

写真がもう一つで、素晴らしさが伝わりきらず申し訳ないです。

 

 

これも屋根の下ですが、「すごい」という言葉しか浮かびませんでした。

修復中だからこそ見ることができるもので、本当にありがたいことでした。

修復後、公開されるときは、こうしたことも含めて紹介していただきたいと思いました。(A)

 

 

 

| ガイドつれづれ日誌 | 10:40 | comments(0) | - |
まだまだわからん石見銀山 第51話 龍源寺とはどんな寺か

 龍源寺間歩の名前の由来である龍源寺。付近にそのような寺院があったと思われますが、実はそのお寺についてはよくわからないのです。どの場所にあったのか、何宗に属していたのか、だれが創建したのか、いつまで存在したのかなど記録に残っていません。『石見銀山百ヵ寺』(三瓶古文書を読む会、1995)にも出てこない謎のお寺です。

 

 しかし、古い時代から龍源寺上墓地という場所があったようなので、そのようなお寺が存在していた可能性は高いと思います。龍晶寺、龍澤寺という曹洞宗のお寺が存在したように、「龍」が付く寺院の名前から推測すれば、龍源寺は禅宗系の寺院だったのでしょうか。よくわかりません。

 

 ちょっと話は逸れますが、江戸時代には寺請檀家制度が布かれ、各地各集落に寺が存在していて人々の日常とよく結びついていました。また寺には宗門人別帳が備えられ、今の戸籍に相当する檀家の戸別住民明細が登録されていました。今では葬儀だけでお世話になる寺院ですが、江戸時代には葬儀、法要だけでなく、檀家各戸の身元の証明、旅手形(≒パスポート)の発給などの住民管理や、寺子屋など住民の教育指導などに活躍していたと思われます。

 

 なお、江戸時代、佐渡金銀山では江戸から移送された「無宿人」が就労していたと言われますが、この無宿人とはいわゆるホームレスのことではなく、故(ゆえ)あって地方地元の宗門人別帳から抹消されて江戸に出て来た人々のことでした。

 

 話を戻して、大谷にも多数の住民がいたものと思われ、高橋家より西にも西善寺、本経寺、徳善寺、上徳寺、荒神寺など少なくとも5寺が古地図に残っています(古地図にはないが、龍源寺を加えると6寺)。(Ng)

| ガイドつれづれ日誌 | 00:27 | comments(3) | - |
シルバーラッシュは何故起きたP-20

☆マルコポーロ伝説・黄金の国ジパング☆

 当時、朝鮮半島から流れ出た石見銀等は東アジアの経済活動を刺激していました。当然アジアに進出したポルトガルにもその情報が入ったことでしょう。「そうだ、マルコポーロ伝説の黄金の国ジパングに行こう」的な感じで、幻の黄金の国を目指し種子島にたどり着いたのが、天文12年(1543)の「鉄砲伝来」だったのです。

突然ポルトガル人が日本に来たのです。話は全く通じることはありません。実はこの船は中国(明)の密貿易船、つまり「倭寇船」であり乗組員は中国人でした。(後期倭寇の実態は中国人が主でした)言葉は通じませんが文字(漢字)を書くことでそれなりに意味が通じた由。

 「種子島時尭(たねがしまときたか)」は当時16歳でしたが実質家督の継承がなされていたそうです。ポルトガル人の持っていた鉄砲に興味津々、2丁を高価で購入操作や火薬の作り方など学んだ由。国産化をなしています。

時は戦国時代、その後鉄砲は、堺、国友、根来などで大量に生産され、戦国大名は競って導入し始めることになりました。

種子島時尭(たねがしまときたか)

 鉄砲伝来の数年後、かの有名な「ザビエル」(スペイン人)も来日、彼はイエズス会の宣教師いわゆる「バテレン」です。そうなんです、ポルトガル、スペインはキリスト教(カトリック)の布教は欠かせないのです。続いて、「フロイス」(ポルトガル人)、「ヴァニャーニ」(イタリア人)とバテレンの来日などで大友宗麟等戦国大名をはじめキリスト教信者増えてゆきます。又、天正遣欧使節団として、4人の若者がイタリアローマに派遣されます。彼らが持ち帰った「グーテンベルク印刷機」活版印刷(キリシタン版)が行われました。しかし彼等が帰国したとき国内は豊臣政権下で、キリシタン追放令の後でした。ザクっと云うと、信長はキリシタンを歓迎、秀吉は交易は歓迎するもキリシタンを警戒、家康は弾圧と云う事になります。

天正遣欧使節

 秀吉、家康はキリシタンの何を恐れたのでしょう、一言でいえば国を揺るがす一揆と云う事になります。過って一向一揆に手を焼いた秀吉、家康ですが、一向一揆は一般民衆でしたが、キリシタンが一揆を起こせばキリシタン大名も加わることになりこれら勢力は無視できません。現にその後島原の乱では、幕府も手を焼いています。(銀爺)

天草四郎

 

| 銀山 むかし語りいま語り | 05:42 | comments(3) | - |
オンラインツアー

7月26日、「石見銀山と名物大あなごの街を訪ねる!オンラインツアー」がありました。

大田市のお酒や魚、肉、ケーキなどを自宅で楽しみながら、オンラインで大田市の10か所を訪ねようという企画です。

全国で60人くらいの参加者があったそうですが、筆者は龍源寺間歩のご案内で協力しました。

 

 

電波の関係で、間歩の中にはほとんど入れないので、ここから間歩入り口を見てもらいながらガイドをしました。

 

 

 

写真や事前に撮った動画なども使いながら、主に、龍源寺間歩での銀鉱石の掘り方などを中心に、ご案内しました。

クイズに答えてもらったり、ラインを通じての質問に答えたりしながら、15分ほどご案内をしました。

参加されたみなさんからは、やはり現地へ行ってみたいという感想もあったと聞きました。

こうしたオンラインツアーも、これからの観光の一つになっていくのかもしれないと思いました。(A)

| ガイドつれづれ日誌 | 07:52 | comments(1) | - |
まだまだわからん石見銀山 第50話 龍源寺間歩はいつごろ掘られたのか

 龍源寺間歩:間歩番号500番。江戸時代には代官所の直営で「五ケ山」の一つと言われました。代官所にとっても重要な間歩だったのでしょう。明治期にも引き続き採掘され、大正12年の休山まで供用されていました。

               龍源寺間歩坑口

 

 明治期の写真を見ると、坑口前には建物があります。何をした建物だったのでしょうか。江戸時代には坑口前に四ツ留役所が置かれていました。坑口に向って右側には役人の詰所があり、左側には鏈置場(くさりおきば=鉱石を保管する小屋)がありました。詰所には山方掛3人、同心1人、山附(やまづき)などの役人が詰めていて、坑内作業を監督し夜は山方掛1名が宿直して見張りは厳重だったといいます。

 

 案内板には「江戸中期」(正徳5年=1715)に開発されたと書いてありますが、正しいのでしょうか。もっと早い時期に開発されたのではないかと思います。なぜなら、『銀山古事覚書』(山中家文書)に元和9年(1623)のこととして、「先年柑子谷主税横合水道切抜高御運上請候間歩七口之事」に「銀千三百枚 大谷龍玄寺山(ママ)」とあります。これは運上として幕府に納められた鉱石を製錬業者に売却した代金を言っています。つまり、柑子谷から水抜き用に主税横相坑道を開削した結果、龍源寺間歩からこのような銀鉱石が売却できたとするものです。したがって、江戸初期から稼動していて、相当量の銀の産出があったことがわかります。

 

 『元禄四年万覚書』にも元禄4年(1691)ごろ「龍玄寺山」と記述されており、清水源左衛門が山主で、行地(奥行き)180尋(約320叩法敷下(下方への採掘)45長だとなっています。そして寛文6〜7年(1666〜1667)ごろが大盛りで、前年(1690)から運上不能という報告も付されています。

 

 その後開発が進み、現在では奥行き600辰凌緤森F擦箸覆辰董△修留で中瀬鉉、佐藤鉉に届きました。さらにその鉉(つる=鉱脈)に沿って100嘆縞にあった永久坑道に向って垂直方向に掘られました。その垂直開削距離は約400叩この間歩の標高が海抜200辰舛腓辰箸任垢里如底部は海面よりはるかに低いということになります。

 

 現在では坑口から160辰泙埜開されています。その先193鍛賄世罵酥廚砲茲衒頂匹気譴討い襪箸。(Ng)

| ガイドつれづれ日誌 | 00:30 | comments(2) | - |
不要不急老人の戯言(9)

―輸入牛肉の安全性に対するEUと日本―

このコロナ危機で一つだけいいことがあるとすれば、グローバル化の名のもとに過度なヒト、モノ、カネの流れに対する反省が生まれることかもしれません。不用意に食料を他国に依存することの危うさ、その安全性さえも担保できないことを身にしみて欲しいと思います。今回は、昨日のTさんのブログで牛肉の話題がでましたので、その安全性について。

 牛を少しでも速く肥らせて出荷する技術として、様々なホルモン剤が使われています。日本では禁止されていますが、アメリカ、カナダ、オーストラリアでは今でも使われています。合成された雌性ホルモン(エストロジェン)です。ところが、これらのホルモン剤は、乳がん、子宮がん、前立腺がんなどを誘発する疑いが強くなっています。もう30年以上前のことになりますが、これを理由にEU(当時はEC)はアメリカからの牛肉の輸入禁止措置に踏み切りました。そこでアメリカは自由貿易を妨げるということでWTO(世界貿易機関)に提訴、その結果はアメリカの勝ち、報復措置としてEUからの輸入品に高関税をかけました。EUはこれにめげてしまったでしょうか。いいえ、今ではEU向けの牛肉にはホルモン剤は使われなくなったのです。EUはしたたかです。

 日本はどうでしょうか。自国の肥育農家にはホルモン剤の投与を禁止しているにも関わらず、輸入牛肉にはおとがめなしです。明らかに、消費者を欺くダブルスタンダードです。5年前に日本はアメリカを含む12か国でTPP(環太平洋パートナーシップ協定)に合意しましたが、アメリカこれを一方的に離脱し、日本にとってはもっと厳しい条件を突き付けてきました。その内容は、牛肉にかけられている関税を現行の39%から段階的に9%に下げるという要求です。わが国の消費者は、安くておいしい海外産の牛肉が食べられると歓迎するかもしれません。でも、わが国では、米国産牛肉にはホルモン剤が投与されていることはあまり知らされていません。この牛肉関税引き下げによって受ける日本の畜産農家や中山間地農業への影響については後ほど機会があれば述べます。

  食の安全性に対する日本とヨーロッパの消費者意識の違い、というよりは為政者の国民の健康を思うか思わないかの違いをあらためて感じる今日この頃です(O)。

 

お知らせ; またまたまた、Aさんの次の短歌が7月5日付の朝日俳壇に載りました。たまたま、ではなく、またまたまたで今年になって3回目です。前回の選者さんではなく、しかも3席です。今後のご活躍をお祈りいたします。

先生は先ず人らしく生きることデモに加わり恋に悩める 選;永田和宏

| ガイドつれづれ日誌 | 00:53 | comments(2) | - |
和牛と国産牛の違い

 戦国時代の物資の輸送には、主に牛と馬が使われていました。特に石見銀を国外へ運ぶため、積出し港までの陸路には、牛は最高の輸送手段でした。

 牛の専門分野である当ブログ担当の(O)さんを差し置いて、今回は日本の牛について載せたいと思いますのでご了解ください。

 現代の牛は品種改良され、戦国時代の牛より大きくなっていると言われています。用途も変わり肉用牛として育てられているのはご存知の通りです。

 

     放牧されている三瓶山の島根牛

 

 私事ですが、先日「島根牛」のヒレ肉を食しました。最高級のサーロイン(部位)ではなかったのですが、それでも筆者にとっては、一年間に数えるほどしか食べることが出来ない高級肉です。

 ところが、スーパーに並んでいるパック牛肉をみると、外国産の牛肉は、はっきりと「生産地」が書かれています。一方、国産牛肉はと見てみると、「和牛」「国産牛」の2種類が並んでいます。高級肉を求める以上、日本固有の牛肉が良いので、尋ねたり調べてみたりしました。

 

 で、分かったことは「和牛」とは、日本固有の牛の品種を改良してきたもので、黒毛和種、褐色和種、日本短角種、無角和種の4種類のみということでした。

 それに対し、「国産牛」は一定期間日本で飼育されていれば、産出地がどこであろうと「国産牛」になるようです。つまり、アメリカやオーストラリアから牛を輸入して、一定期間日本で飼育されれば「国産牛」と認められるのです。

 

 今の「国産牛」の大半は、外国産の牛の肉のようです。今回購入した「島根牛」のヒレ肉は、黒毛和種ということで、もしかしたら三瓶産の牛さんだったかも知れません。

 時代が変われば、牛の用途も大きく変わって行きますね。             文 責(T)

 

 

(番外編)

 下記におもしろ日本の珍名地を載せました。

 

 北海道内の川に・・・ヤリキレナイ川

 青森県・・・ドコノ森  岩手県・・・がっかり島

 山形県・・・こあら   静岡県・・・新幹線

 群馬県・・・なんじゃい(南蛇井)

 山口県・・・むかつく(向津具)半島

 高知県・・・はげ駅(半家) 

 高知県・・・ごめん駅(御免)

 宮崎県・・・ととろ(土々呂)

 

 ※高蛋白質肉を食べて、笑って、コロナに打ち勝ちましょう。

| ガイドつれづれ日誌 | 00:00 | comments(0) | - |
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