<< July 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

カテゴリー
最新の記事
最新のコメント
最新のトラックバック
月別の記事
リンク
サイト内検索
その他
美味しんぼ 109 (ビッグ コミックス)
美味しんぼ 109 (ビッグ コミックス) (JUGEMレビュー »)
雁屋 哲
著名なグルメ漫画に『日本全県味巡り 島根編』が登場しました。石見の食の幸も色々紹介されています

国銅〈上〉 (新潮文庫)
国銅〈上〉 (新潮文庫) (JUGEMレビュー »)
帚木 蓬生
天平の世、大仏造営の命を受けて奈良へと旅立つ青年の苦難の人生を軸に、当時の人々の生き様が素朴で力強く描かれた良書
SPONSORED LINKS
MOBILE
qrcode
田沼意次、鈩と猪と出雲大社

鈩(たたら)といえば奥出雲が思い浮かぶと思いますが、石見地方も負けず劣らぬ鉄の生産地でした。江戸期までの製鉄は出雲と石見で賄っていたといっても過言ではありません。出雲の鈩は高価な刀剣の材料「玉鋼」、石見の鈩は、日用品等に使用される安価な「ズク」が主だったようです。安価な「ズク鉄」は、輸送に金を掛けられません、石見の鈩は日本海沿岸や江川沿いに多くこれは、商品の運搬に船を利用できるためです。江戸後期には刀剣の需要が落ち込み鍋釜や鋳物等日用品の生産が高まるため、奥出雲の鈩より石見部の鈩が盛んだったようです。

たたら

江戸中期、老中「田沼意次」は幕府財政立て直しのため「重商主義政策」をとりました。その一環で大阪に「鉄座」を設け鉄はすべて此処に納められるようになりましたが、価格が安く定められていたため、出雲石見のたたら業が冷え込み廃業が目立ちました。すると森林が増え猪被害が大きくなり、村々では猪対策に予算を当てるようになりましたが、駆除も追っつきかねる状態でお手上げです。

上・猪、下・猪被害

しかし、島根には取って置きの秘策がありました。それは、出雲大社で「猪退散」の祈願をいたしましたとさ。

小雨煙る荘厳な出雲大社

結果的には、鉄座は寛政の改革で廃止となりましたから、御利益あったともとれるのでしょうかね。(銀)

 

 

| ガイドつれづれ日誌 | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
おいでくださいと言う前に

連日の猛暑の中、たくさんの方においでいただいています。

ほんとうにありがたいことです。

 

あんまり暑いので、歩くのは無理だとおっしゃる方もおられます。

こまめに水分を補給していただいて、できるだけ日陰を選んでお話していますが、町並みは日陰が少なく、軒下をお借りすることも多いです。

龍源寺間歩に向かうとき、お客様から遊歩道は通れないのかと聞かれるのがつらいです。

 

 

木陰の下を歩いていただければ、疲れも幾分和らぎます。

アスファルト道を歩きながら、ついつい遊歩道の木陰に目が行きます。

 

 

4月9日の地震以来、通行止めになっていますが、落石した石はいつまで「現場保存」をしておかないといけないのでしょうか。

 

おいでくださいと言う限りは、おいでいただいて快適に過ごしていただける配慮に万全を尽くすべきではないのでしょうか。

冷房の効いた部屋であれこれ考えるのでなく、おいでになるお客様がどんな暑さの中で観光しておられるか、まず肌で感じてみるという気持ちを持つことの方が先のように思われてなりません。(A)

| ガイドつれづれ日誌 | 07:29 | comments(2) | trackbacks(0) |
健康ウオークで暑さを飛ばそう!

  19日も猛烈な暑さでしたね。日本列島40度以上を記録するのは7月としては14年ぶり、列島は太平洋高気圧に覆われて、広く強い日差しが照りつけ暑さは衰えず、広範囲で35度以上の猛暑日に。幸いにも大田市消防署管内では熱中症による救急搬送はなかったと伺いました。野外での活動や外出を控えているからでしょうか。

いつまで続くのか、灼熱の暑さ・・・

 

この先もしばらく、猛烈な暑さが続きます。体に堪える暑さが長い期間続きますので、体調を崩さないようお気をつけ下さい。夜間も気温の下がり方は鈍く、熱帯夜の続く所が多いでしょう。寝苦しさも続きそうです。

全国的には、熱中症で救急搬送される人が急増しています。7月初めの集中豪雨で被災した広島県、岡山県などの被災地でのボランティア活動の皆様、どうぞ水分補給など無理のない活動を祈ります。この先も熱中症の危険の高い状態が続きますので厳重な警戒が必要です。

 

私たちガイドも、のどの渇きを感じる前にこまめに水分をとりましょう。汗をたくさんかいたら、適度な塩分補給も大切です。ガイド活動も適切に休憩をとり無理のないようにお願いいたします。くれぐれもご自身の身体一番に考えてください。無理は禁物です。

大久保間歩からの冷気が山を下っています・・・・

 

いよいよ、7月29日には健康ウオーク「仙ノ山Aコース」が開催されます。暑さが予想されますが「大久保間歩の強烈な冷気体験もいいですね。」健康ウオークに参加し暑さを吹き飛ばしてみませんか。お待ちしています!  (S)

| ガイドつれづれ日誌 | 02:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
宅野藤間家とタタラ産業 

 太田文子さんの研修発表から

昨年8月にガイドの定例会の研修で、太田さんに宅野の藤間家とタタラ産業についてお話ししていただきました。たった1回聞き流しただけでは分からないことも多く、貴重なお話しでしたので、もったいないので太田さんにお話の内容を原稿にしていただきましたので、ブログ上で再現致します(O)。

 

 藤間屋と達水鉄山所

 達水(タチミズ)鉄山所は、現在の達水鈩集落にありました。鈩のことをカナヤマまたはテツザンとよび、その事務所を宅野の人は鉄山所と言っていました。藤間家は、出雲大社杵築において鉄の売買、廻船業を行う今で言う総合商社で、その藤間家より慶長元年(1596年)分家、移住して初代藤間家になりました。当初は、久年集落の大屋、大国の境界あたりで山砂鉄を使って事業を行っていましたが、いつまで鈩操業を続けたかは不明です(第1期)。

 その後空白期間を経て、海辺近くの達水鈩地に鉄山所を構えて鈩業を始め、次いで湯里鉄ヶ谷に第二の事業所を設け(1846年)、製鉄と廻船業を兼ねた藤間屋の最盛期を迎えますが(第2期)、明治30年代に閉鎖されました。

 藤間家の経営に関する資料はほとんど残っていませんが、昭和49年かって藤間家の番頭を務めていた藤野屋宅にタタラの資料が偶然残っていたことからその一部が解ってきたようです。

 タタラ事業の開始と閉鎖

 藤間家が杵築から分家した年ははっきりしていますが、タタラ事業がいつから始まったかについては明らかではありません。ただ、番頭の藤野屋の資料に天明4年(1784年)とあり、他に宅野で廻船業を営んでいた増屋の資料のなかに安永3年(1774年)の記載があり、この頃には事業も軌道にのっていただろうと言われています。しかし、明治に入り日本独特の製鉄和鉄は、半官半民の近代製鉄法に太刀打ちできず、明治30年代に閉鎖にいたりました。

 鉄山所の規模と施設

達水鈩の他、1700坪の扇形の鉄山所、宅野港前の浜に小鉄鉢(コガネバチ)とよばれた砂鉄置き場。鍋、釜、道具等の製品置き場の銑倉。鈩からでる鉱滓(一般的にカナクソ)は、達水の周辺の向山大津辺一帯がその置き場で、現在もその辺を掘るといくらでも出てきます。

 銑鉄の生産量

 安政元年(1854年)の資料では、5780貫とあり、出雲タタラにひけをとらない生産量だったようです。

 宅野川の改修

 宅野川は久年よりやや直線状にゆるやかに流れていましたが、現在の山陰線をくぐり直角に曲げ鈩集落に引きこみ、本町橋あたりで合流させました。川の改修は前の浜の砂鉄をはしけ、伝馬船で運びやすいように改修したようです。

 運営、販売、販路

 銑鉄の販路は、豊後〜佐渡、東北に及びました。原料の砂鉄は日野川水系の砂鉄を安来港より宅野に送り込まれました。どうして出雲の砂鉄ではなく、日野川の砂鉄だったのでしょう。出雲砂鉄は日野川の砂鉄より価格が高かったことのようです。そのことを、当時上藤間家で働いていた淀江町から先祖が上藤間さんに話しておられたということです。銑鉄の半分は、大阪鉄問屋へ、残りの半分は鍋、釜、道具製品に使用されたようです。幕末期、大阪問屋に送られた銑鉄の使用目的の2位は鉄砲玉にあったようです。

 何故藤間家は宅野に移住してきたのか?

 背景に石見銀山があります。奉行配下の吉岡右近にあてた慶長12年(1607年)のものとされる大久保長安の書状に「宅野殊外繁昌 是又本望候由、新見様見汁丹後談合申付書」とあり、銀山奉行大久保長安がことの外宅野に関心を寄せていたようです。その理由に、当時銀山で使われていた道具を生産する鍛冶屋が70軒あったといわれていたことがあげられます。

 地場産業として発展した工業都市宅野

 宅野は江戸中期以降、鉄、瓦、酒、醤油、陶器の製造など地場産業として発展し、また北前船の寄港地でもあり大阪より直々に鉄を買いに船が来ました。

 文化の交流

 もてなし、余興、接待に関西風の神楽、子供神楽が誕生しました。伝説で350年、実績で250年以上の歴史があり現在に至っています。

 その他

 藤間家2代目の子供で家系図に載らない方が、石見町の日貫にタタラ事業を起こし、これを機に山間部に塩を運ぶ塩街道もあったようです。

 鉄砲の導入や普及にともない、鉄の需要が高まるなか、出雲の山砂鉄に対し、ここでは海上交通の便利な海岸に帆船を利用して砂鉄が運びこまれ、宅野、湯里、鉄ヶ谷に事業を拡大し、鉄砲、刀剣の原料として町外に搬出され、宅野の町は潤いました。 

 当地に残る屋号

 村下屋(タタラ技師宅、河行宅)、山配屋(原料、資材調達、大原積宅)、小鉄屋(砂鉄搬入責任、仁万駅前小鉄屋旅館)、藤野屋等の働き、支え合いがあってタタラ事業が成立しました。今後、関係者、関わった家から文書資料の提供があれば、藤間家の存在感も増すことでしょう。

| ガイドつれづれ日誌 | 02:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
危険生物

 石見銀山は、鉱山町でありながら緑に覆われ、山風が吹く清涼感のある世界です。山野草花が咲き、蝶が舞い、小鳥がオーケストラのように囀る世界は自然度が高く、人にとって危険生物も生息しています。

 夏から秋にかけて、よく現れる危険生物をご紹介します。

 

         スズメバチ

 

  スズメバチ(上)とオオスズメバチ(下)

 

 山で最も危険な生き物として知られているスズメバチは、樹木や軒の下など割と高所に巣をつくりますが、オオスズメバチは土手などの土の中や低所の樹洞に巣をつくります。これらのハチには猛毒があります。刺されたら、吸引器で毒を取り除く応急措置を行い、同時に最寄りの消防署(救急車対応)に連絡する必要があります。一刻を争う場合があるからです。

 ハチは、黒い部分や匂いのするところ(汗、香水など)に近寄ってくる習性があります。そして、激しく動くものに攻撃する習性を持っています。近寄ってきたら、お客さまに地蔵さんのように動かないでと言っていますが、これもパーフェクトな対処方法では無いようです。秋口には幼虫や蛹を守るため狂暴化し、人が近くの巣に近づいただけで襲ってきます。筆者は山ガイドの時は、ハチ撃退スプレーを持ち歩いています。

 

        ニホンマムシ

 

 ニホンマムシは、亀の甲羅に似た模様と三角形の頭が特徴です。マムシの場合は、噛まれた傷口を吸引器等で吸い込んだら傷口が悪化すると言われています。直ちに救急車を呼ぶことをお勧めします。基本逃げる動物ですが、卵を体内で孵化するマムシは、出産する8月から10月には攻撃的になるようです。湿気のある草むらに多いと言われています。

 

 上の写真では、アオダイショウがカエルを飲み込もうとしています。鞆ヶ浦道沿いで遭遇しました。これも自然度の高い銀山での一コマです。

 

  銀の積出港(鞆ヶ浦港)付近で飛ぶウミネコ

 

 もちろん、アオダイショウやウミネコは毒性を持つ危険生物ではありません。

 私たちは、動植物が長年培った棲み処に入り込んで、世界遺産をお伝えしています。有害生物とは共生共存することは出来ないですが、できるだけ刺激を与えないように歩きたいものです。          文 責(T)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| ガイドつれづれ日誌 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
ご当地ネタ

麦刈られ鳥の巣空に残りけり

石見銀山ガイドの会の小沢忍さんの俳句が、朝日俳壇で入選しました。(高山れおなさん選)

おめでとうございます。2回目の入選です。今週土曜日にはお祝い飲み会を呼びかけています。

 

さて本題です。お客様をご案内するとき、お客様の居住地や出身地と石見銀山の関連を紹介する「ご当地ネタ」を大事にしています。

群馬県のお客様には

 

 

石見銀山の柵内と群馬県の形が似ていることをお話します。

龍源寺間歩へ行くときは、お客様が「尾瀬から軽井沢に向かって歩くんですね」と言われることもあります。

 

「石見銀山学ことはじめ」で、ご当地ネタを見つけて喜びました。

江戸時代初期、鹿児島で山ケ野金山を発見したのは石見銀山にいた人だったといいます。

早速、鹿児島からのお客様にお話すると、山ヶ野金山をご存知で驚いておられました。

もう一つ、戦国時代、熊本県の宮原銀山の鉱石を鑑定したのは石見銀山の吹大工だったそうです。

これも、熊本からのお客様にお話しました。

 

 

九州からのお客様には、羅漢寺の反り橋も「ご当地ネタ」に加えることもあります。

面白いご当地ネタをご存知でしたら、ガイドの会までお知らせいただくと嬉しいです。(A)

| ガイドつれづれ日誌 | 06:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
灼熱の石見銀山! 来訪客もガイドも汗だく。

  このところ島根県地方は高温注意報が出されています。昨日も35度前後の灼熱の中、石見銀山に多くの観光客の姿がありました。ガイドも汗びっしょりで対応しています。熱中症にかかってもおかしくない状況です。少しでも日陰を歩きたいものです。

少し勉強しましょう。暑さ指数(WBGT)という言葉があります。熱中症を予防することを目的として1954年にアメリカで提案された指標です。単位は気温と同じ摂氏度(℃)で示されますが、その値は気温とは異なります。

暑さ指数(WBGT)は人体と外気との熱のやりとり(熱収支)に着目した指標で人体の熱収支に与える影響の大きいー湘戞↓日射、輻射など周辺の熱環境、5げ垢3つを取り入れた指標だそうです。

 

暑さ指数の使い方

暑さ指数は労働環境や運動環境の指針として有効であると認められ、ISO等で国際的に規格化されています。

例えば(公財)日本体育協会では「熱中症予防運動指針」として下記のとおり公表しています。

ちなみに、7月15日12時の大田市の暑さ指数は31.3と発表されています。上記表によると気温35℃以上暑さ指数31℃以上は運動は原則中止となります。気温31℃から35℃でも厳重警戒です。つまり熱中症の危険度が高まっている。外出はなるべく避け、涼しい場所に移動することとなります。当会ガイドも平均年齢70歳超えていますから水分を十分補給し無理のないガイドが必要です。事務所からガイドさんに対して熱中症警報発令が必要ですね。

 

天気予報ではしばらく高温の状態が続くと発表されていました。無理せず、健康管理の徹底をお願いしたいです。

16日も30度超える気温

高温状態は続きます。

(S)

| ガイドつれづれ日誌 | 02:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
龍源寺間歩の魅力

猛暑の3連休。

連日たくさんおいでいただいてありがたいことです。

 

多くのみなさんが、龍源寺間歩に向かわれていますが、その魅力が伝わっているか気になります。

「涼しかった」という感想だけで帰られるのはあまりにも残念です。

 

 

入坑してしばらく進んだ後、振り返ってみてほしいです。

この付近の天井を見ると

 

 

明治時代に、機械(削岩機)で掘り進んだ跡がよくわかります。

しばらく進むと左側の坑道に鉱脈が見えます。(写真中央の上に伸びて見えます)

 

 

この鉱脈を見つけたから、両横に掘っているのです。

この坑道の次の左側の坑道はぜひ、上を見てほしいです。

 

 

2段目、3段目の坑道が見えます。

案内したお客様が「すごい」と言われることが多いです。

この付近には、もっとすごいところもあります。

 

その次は、100mといわれる立て坑が左に見えまが、その前に

 

 

気づきにくいですが、ここにも立て坑が見えます。

 

龍源寺間歩は、昔の人たちが工夫して、苦労して掘り進んだことがよく分かる坑道です。

こういうところをしっかり見てもらえないのはとても残念な気がします。

是非、ガイドと一緒に歩いていただきたいです。(A)

 

 

| ガイドつれづれ日誌 | 18:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
山組頭の日記から見えるもの

古文書は歴史上の重要な証ですが、必ずしもそこに書かれていることが真実とは限りません、書き手に都合よく書いたり、改ざんしたりしてあることもあります。そんな中、帳簿、日記、手紙等は信頼度が高いといえます。

江戸末期、石見銀山山組頭の家に女の子が生れました。お産には医師と佐比売山神社の神主が呼ばれていたようです。無事生まれると、付き合いの広い家だけに沢山のお祝いが届けられます。それを見ると石見銀山特有の事が見えます。

当時お祝いは現物が主流なのに、ここ石見銀山では「○○料」とお金が使われているのが目立ちます。しかも、その脇には「ハマ」「アキ」などと書き添えてあるのが目立ちます。実は、これは「藩札」なのです、「ハマ」は浜田藩の発行した藩札、「アキ」は安芸藩(広島藩)の発行したものです。元来藩札はその藩だけで使用される紙幣ですが、石見銀山との経済交流も少なくなかったようです。石見銀山は経済活動が活発で幕府の発行した貨幣だけでは足りなかったのでしょうか。このように他藩の藩札も市中に出回っていたのですね。

山組頭・高橋家

 

慶応2(1866)7月、幕府支配が終わり、長州軍先鋒隊が石見銀山に進駐しましたが、この時長州軍はいち早く藩札の流通を認めました。

第二次長州戦争と石州口指揮官「大村益次郎」

(いずれもライセンス許可されています)

 

この処置は大変重要なことで、これを行わないと大量のお金が無くなってしまうことで住民は多くの財産を失うことになるのです。暴動が起き新政府の命取りになりかねないのです。(この時、浜田城はすでに落城、焼失しているので、恐らく浜田藩でも同様の処置がとられていたのでしょうね。(銀)

浜田城跡(島根県浜田市)

| ガイドつれづれ日誌 | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
どうしても来たかったところ

ここ1週間で、「どうしても来たかったところです」という3組のお客様をご案内しました。

東京の83歳の方は、銀の買い付けの仕事をしているとのこと。当然ですが、銀の価格についてもくわしくご存知でした。

 

愛知のご夫婦の男性は、トンネル工事をしているとのこと。昔の人がどうやって穴を掘り進んだか見たかったと。とても熱心にごらんになり、「石見銀山学ことはじめ」も買って帰られました。

 

鳥取市のご夫婦の女性は、テレビ番組などで「石見銀山」をみて、どうしても来たかったとのこと。一日、ゆっくり過ごされていました。

 

       カタツムリの舟

 

3組のお客様は、いずれも、本当に来て来てよかったと喜んでおられました。

最近、来訪者の数が減っていて、さびしい気がしますが、「どうしても来たかった」という人たちに満足して帰っていただけたらいいのかなという気もします。

 

 

高温注意報の続く日々。町並みには「紅茶のかき氷屋」さんが、8月31日までの期間限定で復活しています。(観世音寺下の水仙の店)

暑いときのかき氷もいいものです。

今日からは3連休、そして、夏休み。やはり、もう少したくさんの人においでいただきたいと思います。(A)

| ガイドつれづれ日誌 | 05:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
| 1/304PAGES | >>